追悼文集



金澤 敬さん


筑紫 秀子(4期)


先ず綽名は「コケシ」。丸い顔に三つ編みの長い髪、いつもニコニコしていた姿が目に浮かびます。大学の卒業時は心理学で金時計を授与された秀才ですが、いつ勉強しているのか判らない、優秀な頭の持ち主でした。

音楽愛好会の旅行、合宿の時はお父様がいつも集合場所まで送迎され、それが大学4年までつづいていらしたので、いかに大事にされていたかが判ります。アルト・パートで後輩にも「コケシさん、コケシさん」と慕われて面倒みも良く、お手本のような方でした。

結婚されて、長い間お医者様であるご主人についてイリノイ州に住み、3人の男の子にも恵まれ、ヴォランティア活動に全力を投じておられたようです。夏休みには必ずご主人の実家の函館に帰られ、お子様3人は日本語の勉強のために学校に入れ、ご自分はご両親のお世話で2カ月くらい日本に滞在。その間には、鈴木喜子(同期)さん宅でいつもお喋りしながらアメリカの生活の様子を伺ったものでした。

初めは23年で帰国されるはずが、結局は亡くなるまで日本に戻られることはありませんでした。


「コケシと共に」左・筑紫秀子/右・鈴木喜子
57年7月/伊豆・峰温泉の合宿で

その間約2526年になります。亡くなる1年前帰国された時、鈴木喜子さんのお宅で一泊一晩語り明かしたことが、今でも鮮明に思い出されます。病をかかえている様子も感じさせず、ただ日本に帰りたいと切々と話しておられました。

元気でいてくださったら、大の仲良しの弟さん(現在、皇室医の金澤一郎氏)のご活躍も知るところですし、合唱・旅行とご一緒に楽しめたのにと残念です。

彼女の存在は、常に私の生活態度を反省する基になっていたことは否めない事実です。今は静かに函館に眠っておられます87916日逝去)。

「聖女コケシ」−まさにピッタリの方でした。(08915日)