慶應義塾楽友会クロニクル

第24回定演の頃

水野雄二(21期)

第24回定期演奏会。それは1975年12月11日、芝の郵便貯金ホールで行われた。1975年・・・昭和も丁度50年。戦後30周年であり、あの長く空しいベトナム戦争がサイゴンの陥落によって終結した年でもあった。日本は高度経済成長をまっすぐに上り行く途上にあって、夢や希望、そして自信に満ち溢れた頃ではなかっただろうか。私たちの期はそんな年に4年生を迎え、最後の定演に向けて青春の炎を燃やしていたのだと懐かしく思い出す。

丁度その75年、巷では多くの歌が世に出ては消えていったが、今も歌い継がれる名曲がリリースされている。奇しくも同じ伊勢正三「かぐや姫」のメンバーが作った曲で、一つはかぐや姫が歌った<22才の別れ>、もう一つはイルカが歌った<なごり雪>で、いずれも若者の共感を得て大ヒットした。私たちも楽友会ではクラシックな曲を歌っていたが、下宿ではこれらの曲をギターを掻き鳴らしながら歌っていたものだった。カラオケなんて洒落た物はなかった時代だから・・・。


関西演奏旅行

「ちょっとでかけた演奏会」と題して演奏旅行した時の記念写真1975年7月。場所は岐阜市民会館か伊丹市立文化会館。この写真は筆者が指揮した「わたしの動物園」か、シェルブールの雨傘や慕情などを集めた「ポップス・ファンタジー」の時のもの。他にも同期の阿部誠君の指揮でパレストリーナの数曲を中心とした「古典小品集」と高田三郎の「水のいのち」や、現地合唱団の賛助ステージがありました。

「あなたにさよならって言えるのは今日だけ・・・」「私の誕生日に22本のろうそくを立て、ひとつひとつがみんな君の人生だねって言って・・・」まさしく大学4年生で22才を迎えていた私たちにとって、最後の定演が終わったら、<22才の別れ>なんだって言う感傷を抱きながら、この歌を好んで歌ったのではないかと思い出す。

汽車を待つ君の横でぼくは時計を気にしてる
季節外れの雪が降ってる
『東京で見る雪はこれが最後ね』とさみしそうに君がつぶやく・・・

まさしく就職が決まって東京を離れる仲間も、<なごり雪>ならぬ心残りを強く感じながら、ステージに上がったに違いない。

1975年、経済成長のめざましい日本で卒業して社会に出ることは、若者には前途洋々の船出のように見えたけれども、実際は70年安保闘争の終末が連合赤軍の浅間山荘事件で無残な若者の醜態となっていったのに嫌気がさして、若者の関心は社会的なイシューより個人的な身の回りの出来事に向かっていったのではないかと私は思う。つまり、革命や体制の変革より、関心は<シクラメンのかおり>であり、<年下の男の子><私鉄沿線><ロマンス>であったのだろう。だからこそ、私もまた、<22才の別れ>や<なごり雪>を甘酸っぱい感傷と共に懐かしく思い出すのだと思っている。

このように若者が個人化、孤立化していく時代にあって、楽友会の仲間たちは逆に「ハーモニー」を求めて集団力を強めていった。定演では私がブラームスの「マリアの歌」と佐藤真の「旅」を振って、岡田忠彦先生がハイドンの「パウケンメッセ」を振ってくださった。東京芸術大学ピアノ科在学中の私の後輩から紹介してもらった花岡千春さん現在もピアニストとして優れた活動をされているが「旅」ではピアノ伴奏をしてくださった。上野の喫茶店で初めて彼に会って伴奏をお願いしたことを今もありありと覚えている。合唱の伴奏なんて初めて、と言って、おっかなびっくりでやってきた千春さんだったけど、すぐにメンバーと打ち解けてそのヒョウキンな性格が大人気。演奏もさすがで、すばらしいピアノ伴奏であったその後、彼は5年間も楽友会の伴奏をしてくださっていたようだ

また、パウケンメッセでは、ソリストとしてソプラノの鮫島有美子さん、アルトの長野羊奈子さんが加わってくださった。今から思えば、なんともったいない顔ぶれであったことか。若さとは恐れも知らず、なんとすばらしいことかと今さらながらに思うのであるが、このような著名な方々のサポートを受けながら、私たちは定演を迎えることができたわけである。

もう一つ、図々しい話は「青春讃歌」であるが、訊くところによると、当時の幹事長の辻岡義一君が、岡忠先生と会友が集まって酒を酌み交わしておられる所に呼ばれた機会に、雑談の中で、同席されていた小林亜星さんに後輩への応援歌として作曲をお願いした、ということであった。当時、亜星さんは多忙を極めておられたのではないかと推測するが、直後のヨーロッパ出張の帰国後すぐにこの「青春讃歌」を仕上げたと伺った。私も辻岡君と一緒に六本木の亜星さんの事務所に楽譜をいただきに行ったのを思い出す。

そして、私たちの定演ではこの「青春讃歌」がアンコールで演奏され、亜星さんもまたそのステージに立っておられた。感激の初演だった。この曲がその後、代々、楽友会の定演で歌われていると聞くが、これは私たちにとって大変誇らしいことである。


こんなに青春を高らかに歌い上げた定演が終わり、打ち上げの銀座「ピルゼン」でビールを交わしている時に、ある女性から贈り物をいただいた。そっと開けて見ると、それは普段、身に着けることのなかったネクタイだった。長かった髪の毛を短く切り、毎日、Yシャツにネクタイを締め、背広で出かけて行かねばならない「卒業と就職」が間近に迫っていることをそのネクタイは語っていた。まさに、ピルゼンが<22才の別れ>であり、酔いしれて歩く銀座の町には<なごり雪>が降っているような心地だったのではないかと思い起こす。

あれから33年、我々はもう50代後半になり、青春の感傷に浸っている年齢ではないが、私の耳には今も伊勢正三の歌声が聞こえてくる。(09年1月15日)


FEST