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伴先生のアインザッツ
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![]() 伴 有雄(1期) |
50歳を過ぎたある日、ふと思った。「私は合唱と無縁のまま、年老いていくのだろうか?」 歌える残りの人生は短い。しからば歌うべきはバッハ! と、前後の脈略なく思った(伴先生がお亡くなりなる年、ヨハネ受難曲の練習に参加しなかった後悔が、意識の底にずっとあったのかもしれない)。 |
一念発起、都内の某“カンタータを中心にバッハだけを歌う合唱団”に入り、月2回の練習、年1回の定演に取り組むことになった。始めてみて愕然としたことがある。ひとつは、内声を聴き取れなくなっていたこと、もうひとつは、Dis程度の音を出せなくなっていたこと。そして、たかだか3時間の土曜練習が終わると、声はがらがらに荒れた…。 バッハのカンタータと言えば、147番のコラール「主よ人の望みの喜びよ」しか知らなかった私に、バッハ合唱団で最初に歌ったモテットは第5番です。その後、2、6、4番と年ごとに歌った演奏体験は、奥深く光る鉱脈の在りかを教えてくれた。そうして、この合唱団を中心とした“歌う”活動が再び、私の人生の中軸に据えられた。
とはいえ、『天地創造』の合唱練習の開始は3年前まで遡る。松本練習と東京練習をそれぞれ月1回、音取りに2年、ドイツ語に半年、マエストロ練習に半年という、気の遠くなるような長期計画である。その理由の一方は、松本の主要メンバーがいくつもの音楽活動を並行して行っていること(OSM合唱団を含む)にあり、他方は高齢の諸先輩がふだん合唱活動をほとんど行っていないことにあった。ゆえの月1回であり、3年間であった。マエストロによる合唱練習は7月から都合3回(オケのハイドン練習は単独で5回組まれたという)、8月に東京でソリスト合わせ、9月と10月に1回ずつのソリストを交えたオケ合わせを経て、本番前日のリハ、当日のゲネプロ、本番、という段取りである。 客演指揮者としては破格の介入(?)ながら、9月の初回オケ合わせが終わった時点でも『天地創造』は前途多難を予感させた。合わない、のである。合唱が、オケの各パートが、オケとソリストが、オケと合唱が、入りが、テンポが、フレージングが、アゴーギクが、ディナーミクが…。破綻を来すほどではないが、合わない。合唱では平明そうに見えるハイドン楽曲の難しさを随所で痛感する。しかし、一番の関門は、オーケストラのインテンポ志向(?)ともいうべき習性であった。歌の伸び縮みに合わせる、耳と心が当初はなかったのである。ソリストが素晴らしい“歌心”の見本を示しているのに、オブリガート楽器がそれを聴いて合わせられない。前日のリハ、当日のゲネプロまでその懸念は引き摺られたが、最後の最後に目指す音楽を全員で共有することができ、前半のチャイコフスキーでギアを上げたオケがポテンシャルを発揮して、1回限りの本番を成功させることができた。
身体機構・感覚を意識するようになると、不思議なことに、鑑賞者として聴くだけの音楽の質も変わってくる。鑑賞者である私の身体が、舞台上で演奏される音楽に同期して反応する、と言ったらよいだろうか。本番を歌った経験のある合唱曲や、(まったくものにならなかった)ピアノのレッスンで弾かされた曲などでその傾向が強いのは当然のことだろう。心理学や認知科学でミラリングやタウ、コミュニカティヴ・ミュージカリティと言われている概念に近い感覚である。テキストの理解も含めて、“音楽が身体に入る”というような体験が、私と音楽との関わりの質を変えてくれることを期待したい。
(2016/11/25) リレー随筆のバトンは、27期の中達哉さん(学生指揮者)に渡りました。 (2016/11/29) ■ ■ ■ ■ ■ |
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