リレー随筆コーナー

音楽との接点


中濱 鐵志(9期)


私達世代のマドンナである8期の峰岸篤子さんからのバトンとあらば、いくら筆不精の私とて書かねばという気持ちになるものです。そこで小さい頃からの音楽とのかかわりを思い出してみました。

「学童疎開」を寄稿された諸先輩より若干年下の私も、戦時中は母の郷里の播州・龍野に母と兄弟姉妹合わせて5人で疎開しました。当時3〜4歳の私の記憶は断片的で、いくつかの情景は思い出しますが、当然といえば当然なことながら、何か音楽に結びつく思い出はありません。

東京に戻り幼稚園に入園した頃、熱心なクリスチャンであった父が「もう幼稚園に入ったのだから教会へ」と、近くの自由が丘教会に連れられて行き、それからは毎週熱心に日曜学校に欠かさず通い、牧師さんのお話を聞き、初めて讃美歌に触れたのです。

当時わが家には何故かボックス型の蓄音機と軍歌に混じってベートーベンの5番、9番交響曲や、ブラームスのハンガリー舞曲、サラサーテのチゴイネルワイゼンなどのレコードがあり、よく表・裏を反しながら、繰り返し繰り返し聴いていたものです。

NHKの日曜朝8時5分のラジオ番組「音楽の泉」は堀内敬三解説の数少ない音楽番組で、これを聴くのもまた楽しみでした(この番組は、解説者が村田秀雄、皆川達夫と替わりましたが今も続いています)。

この賛美歌と蓄音機と「音楽の泉」が私を音楽に結びつけた最初の接点であり、原体験なのです。

母の勧めか、確か小学4年ごろからオルガンを習いはじめて、暫くして突然にピアノが狭い家に運びこまれたのです。母が将に大枚を叩いて購入したのです。これで我が家にお金は全く無くなった、との母の言葉を思い出します。

私のピアノの先生も鷲見五郎先生(鷲見3兄弟として知られていた)に替わり、一生懸命に練習に励んだと言いたいところですが、実は遊びたい年頃であり、ちょうど6年生になると、中学受験控えているとか何かとか理屈をつけピアノから離れてしまいました。

普通部時代も、後に高校楽友会で一緒になる故大野洋君や中村脩君とはクラスメートで、両君は文化系クラブで活躍していましたが、私はスポーツを好みテニスに熱中していたものでした。

ただ機会があれば音楽に接したい気持ちは強かったようで、今になって振り返ると滑稽な話ですが、イタリア・オペラの初回来日公演で「フィガロの結婚」がテレビ放映されると知り、どうしても聞きたくて近くの美容院に入れてもらい、女性のなかで一人食い入るように見ていたのです。そのときのスザンナ役のアルダ・ノニの美貌にうっとりとした想い出があります。

高校では競走部に短期間籍を置きましたが音楽への思いも強く、1年3学期の時に信生兄が在籍していた楽友会に入部したわけです。それから大学卒業までの6年余は、楽友会中心の学生生活であり最も音楽に熱が入った時期でありました。オーケストラのスコア(総譜)を買い求め、レコードを聴きながらこの楽器構成でこんな音になるかと感心したり、またブラームスのシンフォニーに嵌まり込んだりしていた時代でした。

日生劇場の柿落しとして、初のドイツ・オペラ来日公演でカール・ベーム指揮の「フィデリオ」を聴きに行き、イタリア・オペラと全く異なる総合芸術のドイツ・オペラに、これぞ芸術の真髄だと一人悦に入っていたのもこの頃でした。

社会人になると音楽に接する時間が極端に少なくなってしまいましたが、最近は若い頃身体に浸み込んだものが沸々と湧き上がってくるのか、美しい音楽に耐え難い愛おしさを感じるのです。

やはりバッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ブラームス、ショパン等の古典に接すると、生あるからこそこの美しい音楽を聴くことができるのだと感謝の気持ちになるのです。

今は楽友三田会合唱団と同OSF合唱団で歌っていますが、今年は前者がハイドン、ブラームス、日本名歌抄、後者は選り抜かれた男声合唱の名曲をそれぞれ素晴らしい指揮者のもと、毎回の練習で音楽しているとの気持ちにさせてもらっています。瞬時の美しさを感じる感性は、若い頃とは程遠いかも知れませんが、いつまでも美しいものを美しいと感じる感性を持ち続けたいと思っています。(2010年9月6日)