随筆コーナー
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「夏の思い出」や「雪のふる町を」などは、今の若者でも口ずさめる中田喜直の名曲だが、今年2023年はその中田喜直の生誕100年にあたるということで、東京、横浜ではそれを記念した催しがいろいろあった。横浜市営地下鉄「センター北駅」に近い横浜歴史博物館では、特別展「生誕百年中田喜直展」が開催された。
その関連イベントの一つとして横浜混声合唱団によるミニコンサートが博物館のロビーで開かれ、私も団員の一人として参加した。9月にはその横浜混声合唱団の定期公演でオール中田喜直プログラムが組まれ、神奈川県立音楽堂はほぼ満員の1000人が入場、中田喜直の人気を再認識させられた。 |
中田喜直は1923年8月1日に「春は名のみの」で始まる有名な「早春賦」の作曲家中田章を父として東京に生まれた。太平洋戦争では出征して陸軍の戦闘機パイロットとされたが生還し、1968年から亡くなるまで30年間、横浜(旭区)に住居を構え、作曲家として活動した。またフェリス女学院大学で音楽科の教授となり、奥さんの幸子さんはその教え子でもある。横浜市の小学校の校歌も数多く提供したという。 私の高校、大学時代、12月の県立音楽堂の楽しみは神奈川県合唱連盟のメサイア公演とフェリス女学院の日本女声合唱団のクリスマス公演だった。中田喜直の女声合唱曲の多くがこの合唱団のために作られ、初演された。まだ学生だった故若杉 弘さんが楽友会の女声を指揮した。中田喜直女声合唱曲集Tの「ブランコ」で「ひっそりとぶらんこが庭の木陰です」を聞いた16歳の時の感激を、80を過ぎた今でも思い出すことができる。「夕方のお母さん」の「ご飯だよー」も耳に残るフレーズだった。高校1年に出会った中田喜直の女声合唱は、まぎれもなくその後の私が合唱をつづける動機の一つとなった。 その中田喜直の合唱曲を生誕100年の今年、歌うことができ、中田幸子さんの指揮でも歌った。 歴史博物館の中田喜直展の出口には、それとなくピアノが飾ってあった。中田喜直は手が小さくてピアニストになる夢をあきらめたが、日本人の手に合う鍵盤の幅を狭めたピアノを提唱した。特に書いてはいなかったが、どうやらそうしたピアノのようであった。 (2023/12/16) ■ ■ ■ ■ ■ |
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