随筆コーナー
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明治学院大学白金キャンパス
− 港区郷土歴史館(旧公衆衛生院)
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田中 博(20期) |
2023年4月2日(月)久しぶりの東京滞在、夕刻までフリータイムができたので高輪や三田のミニウォークを楽しみました。高輪発のウォーキングは2017年12月3日に開催された”歩こう会”で高輪から三田、そして渋谷というコースを楽しんでから、もう五年が経ちます。 今回は、最初に学生時代から気になっていた明治学院大学の資料館を訪れました。三田に在学中、渋谷に出る場合や魚籃幼稚園(魚籃寺内、ナツカシイ!)の練習場に向かう場合、都バス、田87を利用することが多かったのですが、都バス田87は白金高輪から恵比寿方向に向かうため、清正公前から明治学院方面は、あまりなじみがありませんでした。 明治学院は島崎藤村が学んだところです。藤村は三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身、福沢諭吉先生の門下生である矢野文雄が開いた学校であり、矢野文雄氏は大阪、徳島の慶応分校の校長も務められた。)そして明治学院で学び、後に慶應義塾で教鞭をとったとされています。 藤村の『若菜集』、「まだあげ初めし前髪の」や、中央大学の『惜別の歌』で知られる「高楼、とほきわかれにたへかねて このたかどのに のぼるかな」、など日本の、日本語のロマンチシズムを極めた詩人でした。 明治学院のOBには、兵庫県に暮らしている私として、生活を維持できている恩人として賀川豊彦氏(1888年−1960年)がおられます。氏は生活協同組合、今でいうと”コープ”の創設者です。阪神間の住民は”コープこうべ”(生活協同組合コープこうべ)という正式名称ではなく”灘生協”と親しみを込めて呼んでいる総合スーパーマーケットは明治維新から現代にいたる日本の社会問題を克服したうえ、社会の進歩のなかで市民の生活と文化の向上を支えてくれています。 学院構内にある歴史資料館を見学のうえ、次に向かったのは白金台4丁目にある港区立郷土歴史館(旧公衆衛生院、1938年竣工)です。
旧公衆衛生院は”内田ゴシック”といわれる、東大の安田講堂を設計した内田祥三(ヨシカズ)氏の設計による素晴らしい建物です。安田講堂のある学校では学ぶ機会がなかった私ですが、会社員時代に安田講堂の修復工事において清水建設の下で、内部装飾の復元にわずかですが関係したこともあり、この建物がある場所は時代を超える荘厳さを持つ建物の魅力に接することができる東京という街の力を感じることができる建築物が残っている数すくないところです。 港区の歴史がわかりやすく展示されているなかで、特に目を引いたのが東京湾の埋め立ての歴史と、漁業の変遷でした。 ”江戸前寿司”といわれるだけあり、数多くの種類の魚が生息している東京湾です。もちろん水が清ければ魚が住まないこともあるのですが、難しく言えば輪廻転生、食物連鎖、今風に言えばSDGsという観点からすれば、日本の近代化のために東京湾が埋め立てられてきたことの是非について、これ以上の人口土地(マンメイド・ランド)は明らかに不要だと誰もがわかる展示がされていました。
特にJR田町駅に近接する本芝公園(港区芝四丁目15番1号、JRの線路に面する、田町駅を東京方面に、すぐ目の下)がある、昔の雑魚場(ざこば)と呼ばれた場所の説明が目を引きました。 ”ざこば”といえば、落語家の方の名前にもなっており、また、よく覚えていないものの過去に何店か経験した寿司屋の名前にもなっています。展示されていた資料などでは現在の本芝公園の場所が、ちょうど海岸線の船着き場になっていたとのことです。 1968年(昭和43年)頃までに堀として残っていた船着き場も完全に埋め立てられ、東京湾の陸地化が進んでいます。
の2番にある「窓を開けば海が見えるよ」ですが、私の三田時代(昭和47年ごろから)には、すでに田町駅の海側も市街地が広がっており、そのあたりが埋め立て地であるとはわからない状態でしたが、当時も今も、「丘の上」が作られたときは、きっと海岸線がすぐ近くにあったのだろうと思い込んで歌っていました。こうなると本芝公園まで足を延ばすことになります。 JRの電車の音は都会だから許容されるのでしょう、公園は隣接する高層マンションに住む多くの子供連れのファミリーの憩いの場となっていました。JRの線路の下をくぐる陸橋は”雑魚場架道橋”とよばれ、昔、このあたりに魚市場があり、落語「芝浜」でも当時の魚売りの生活が描かれているところです。
田町駅まで来たのですから、三田の学舎にご挨拶となります。まだ春休み中でしたので中庭を散策したにとどまりましたが、警備員の方などが親切に立ち入りを許可していただきました。
たしかに、三田の山、 丘の上、である。 今年は桜が早かった。 以前から気になっていたことを一つ確かめたかったことがあります。季節は覚えていないのですが、春か秋、ある日の正午過ぎ(旧)図書館にいた私の視野に、当時の佐藤朔塾長と西脇順三郎のお二方が塾監局の建物から出てこられて、たぶん敷地外へ昼食に出かけられるところを目にしたことがあります。西脇順三郎ご本人のスマートな姿を目にしたのはこの時が最初で最後でした。背筋を伸ばして談笑されていた姿は、モダンながら日本の文化を大切にされていた稀有な詩人の姿そのものと受け止めたものです。記憶ではブルーの無地のワイシャツ、そして少し濃いブルーの無地のスーツを着ておられました。ネクタイの色はよく覚えておりませんが濃紺色だったと思います。佐藤塾長は少しグレーかかった無地の紺色のスーツに小豆色のネクタイをされていたと記憶しています。このお二方が談笑しながら歩かれた20-30-メートルの姿、私にとっては、これぞ慶応の文化そのものだと見つめていたことを今でも覚えています。
西脇順三郎の詩はあまりにも難解です。言葉、単語、音が頭の中でからみあい作られる世界ですから読むほうの知識も感受性も必要です。リズムや抑揚という音楽をつけるとなると、さらにわかりにくくなります。無理に詩の世界と融合しようとすればするほど、聞き取りにくく言葉が作るところの世界が生まれてきません。 私が確かめたかったのは、佐藤朔と西脇順三郎のお二方の姿を、旧図書館のどこから目にしたのか?でした。1Fの入り口の階段からだと、塾監局からの俯瞰的な位置・高さが記憶にある像とマッチしません。 では2Fの窓からだったのでしょうか?多分そうかもしれませんが、見える範囲が少し違うようにも思えました。当時の目に焼き付いて記憶として残っている映像の印象があまりにも強く、どこの場所から見ていたのかはわからずじまい、見ていた場所は重要ではないということに落ち着きました。
日を改めて、「丘の上」の作曲者、菅原明朗(1897年‐1988年)が出身地である明石市で眠っている、生前に建立した墓がある西林寺(兵庫県明石市大蔵町11-22)を訪れました。今は国道28号線が海岸際に通っていますが、すぐ目の前が大蔵海岸公園である”海が見える”場所にある寺です。
奥の方向は海岸線。 この場所は「三田文学」の編集主幹で慶応義塾の教授もつとめた永井荷風が戦火を逃れ、菅原明朗の実家を頼り、実家の近くにある西林寺で数日間過ごしたことでも知られる寺院です。このあたりの事情は荷風の日記である「断腸亭日乗」の昭和20年の記述として、「山の手省線にて品川を過ぎ東京駅に至り罹災民専用大阪行の列車に乗る。・・・・・午前六時過京都駅七条の停車場に安着す。夜来の雨もまた晴れ涼風和し郎うたり、直に明石行電車に乗換へ大阪神戸の諸市を過ぎ明石に下車す。菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す。」の記載があります。 (参考:今でも東海道線・山陽本線<神戸線>の近距離通勤用電車は、西方向への運行では”西明石行き”が多く設定されており、JR西日本が誇る”アーバンネットワーク”、即ち、東は敦賀、米原あたりから西は、姫路、赤穂あたりまでを15分毎に運航されている”新快速”などが設定されています。あまり報道されていないのですが、この鉄道路線周辺は日本の基幹産業、自動車産業を支える主要な工場が数多くあります。)
荷風と明朗の関係といえば、浅草オペラ、歌劇《葛飾情話》(昭和13年の初演)があり、永井荷風の台本、作曲は菅原明朗、そして楽譜は戦争で焼失したとのことですが、ピアノのスコア版が明朗の妻でありソプラノ歌手永井智子の遺品から発見され、1999年にオーケストラ版に編集されて荒川区民会館で上演されたとのことです。 在学時代は、あまり深く考えることもなく歌っていた「丘の上」ですが、近代から現代への日本の文学、それも多くの詩作における日本の本流を生んだのが”三田の山”に象徴される”我らが母校”であり、開かれた社会性と自由と個性と個人を尊ぶという先人が育ててこられた学風が曲に込められていたからこそ、塾の関係者が皆、レゾン・デートルを感じながら歌う「丘の上」となっているのだと思います。 (2023/4/27) ■ ■ ■ ■ ■ |
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