随筆コーナー
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大阪の 慶應義塾分校跡記念碑 を尋ねて
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本日2022年12月19日よりコロナワクチンの大阪自衛隊会場での接種ワクチンがオミクロン株BA,4-5対応品に切り替わるとのことで、第五回目の接種を受けてきました。自衛隊を選んだ一番の理由は、いざという時は自らの生命を捧げる職業を選んだうえ、然るべき訓練をされている自衛隊員の運営は、文字通り国民ファーストで気持ちがよいからです。 自衛隊の接種会場は大阪証券取引所ビルがある大阪の北浜という地区にある日本経済新聞社大阪の隣のビルを借りて行われています。今から40年ほど前、大阪の淀屋橋(地名)の日銀大阪支店や(旧)三菱大阪ビルが近くにある事業所に勤務していたことがあり、東京でいうところの、大手町から日本橋、神田などと対比される、大阪のビジネス街は一通り頭に入っていました。そして福沢諭吉先生が学ばれた緒方洪庵が開いた適塾も、近辺を歩いたことはありました。
1971年、日吉の教養の一年生の時、季節は忘れましたが、ある日、胸が痛くなり、タバコの吸いすぎで「肺病か?」と心配になり、詳しくは憶えていないのですが、塾生は信濃町の慶応病院での受診に割引があったようで、慶応病院で一度だけ若い先生に診察していただいたことがあります。肋骨にヒビが入っているというのが痛みの原因でした。酩酊状態で転倒した記憶もなく、何故、肋骨が損傷したか原因不明でしたが、医学部と病院がある学校の総合力を若いながらも評価させていただいた次第です。 さて緒方洪庵の「緒方」姓には日本でも多くのお医者様がおられるはずです。その適塾の近くでCOVID−19ワクチン接種となった以上、本日は冷え込みが厳しいものの青空が広がる天気でしたので40年ぶりでしょうか、道修町(どしょうまち、製薬会社が集まっている)や高麗橋(地名)まで足を伸ばしました。 「大阪」というのは、現在はあまり良いイメージを与えない地名になっています。『ナニワ金融道』、「大阪湾に浮かぶ」という怖い表現から始まり、「悲しい色やね −OSAKA BAY BLUES−」、「酒と泪と男と女」などは少し社会の底辺をイメージさせますし、「雨の御堂筋」は「津軽海峡・冬景色」のような国民的愛唱歌にはなれませんでした。そして大阪は現在はある政治団体の本拠ともなっています。もともと大阪は日本の物資・交易の中心地であり、物流においても北前船のように北海道までつなげる日本の物資の心臓だった地です。(京都生まれの私から言わせると、「天皇様は何かのご都合で東京にいらっしゃるが、また京都にもどってきてくださる」訳で、経済と政治が同じ地域に同居するという不自然な形を解消すれば<官僚・政府機構の過度な産業界への支配の弊害>、関西経済、大阪の復権もあり得るのですが、言葉だけの意味不明の「都構想」などで夢を追いかけている間は、大阪の地盤沈下は止まらないと思います。) 適塾は現在は後継の位置にある国立大学法人大阪大学(阪大)の管理下で維持保存されています。月曜日は適塾は公開の休日でしたので、周辺を散歩した後、近くにある「大阪慶應義塾記念碑」を初めて訪れました。なぜ初めてかというと、このような記念碑ができているのをきちっと認識していなかったからです。記念碑の建立は2009年とのことですから知らなかったことは仕方ありません。
適塾からそう遠くないところにある「大阪慶應義塾分校跡記念碑」は写真にある通りですが、上から見ると交差するペン、設計は住友系と言われる日本で有数の設計ファームの鞄建設計が担当したとのことです。高さは136センチメートル、材質は白色の施釉された陶器とのことです。
写真を撮っていたら、この碑があるビル敷地(小寺プラザビル )の管理の担当と思われる方がリーフレットを持って来てくださいました。偶々なのでしょうが、熱心に写真を撮っている私の姿が目にとまり、「じっくり見て心に刻んでいってください」とのニュアンスで温かい言葉をかけてくださいました。パンフレットには、大阪慶應義塾、京都慶應義塾、徳島慶應義塾それぞれの記念碑と、記念碑を建造に協力した大阪慶応倶楽部、京都慶応倶楽部、徳島慶応倶楽部が紹介されていました。
戴いた資料によりますと、この大阪の記念碑は慶應義塾当局の建立によるもののようです。大阪慶應義塾は開校が明治6年(1873)11月、場所は丸屋善控屋敷(現、大阪安堂寺橋通3丁目)、その後、北浜二丁目へ移転、学科は英書、訳書、洋算、和算。塾生は80名(86名との説明もある)で明治8年(1875)に閉校された、とあります。そして大阪の塾は徳島に開設された徳島慶應義塾に引き継がれたということです。
経営が不振で長続きしなかった理由は、大阪以外の学生にとっては、東京で学ぶのも大阪で学ぶのも費用や手間の点で、特段、大阪を選択するだけの理由がなかったことや教授陣が定まっていなかったこと、何より商都大阪では商人に学問は不要とする気風があったことが挙げられると解説書には記されています。 学ぶことの大切さ、学ぶ場を設けること、維持することの大変さ、先人のご苦労に思いを馳せ、コロナと格闘されている医療関係者に感謝することが出来たブラ大阪散策でした。 (2022/12/19) ■ ■ ■ ■ ■ |
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