随筆コーナー

遠くて美しい街 ブエノス・アイレス


田中 博(20期)


アルゼンチンは日本にとってほとんど地球の真裏にある国です。2007年の12月から1月にかけアルゼンチンの首都ブエノスアイレス(Buenos Aires スペイン語できれいな空気の意)に約三週間滞在しました。

何故ブエノスアイレスか? 音楽から言えば日本とも縁が深くなったマルタ・アルゲリッチの出身地です。彼女はフリードリヒ・グルダ、ディヌ・リパティに教えを乞うために欧州に移住するチャンスを得たとのことです。グルダの Concerto for myself はジャズをクラシックと融合させようとして、少しクラシックがジャズを手玉に取るように展開しながら、さらなる発展の可能性をジャズにつなぐ楽しい曲です。リパティは半透明の赤いLPレコード Angel Records でシューマンのピアノコンチェルトを何十回も聞いたと記憶しています。

アルゲリッヒが後に開花する才能、幼少のときに西洋音楽の基礎を身につけることができた文化があったであろう南米の街がずっと気になっていました。そして中国系フランス人ヨーヨー・マのリベルタンゴ Libertango の煽情的とも言える哀愁を帯びたともいえる旋律とリズム(サントリーの広告に使われた)は魅力的でしたが、わかりやすく言えば皆川おさむの「黒ネコのタンゴ」(原曲はイタリア語の童謡 Volevo un gatto nero、黒い猫が欲しいの)での切れの良いリズムから日本には少し馴染みのないアルゼンチンという国に魅力を感じていました。


幅の広い大通りに面したコロン劇場


  セルバンテス劇場

旅行の目的は大きくは3つありました。

1つ目は、二十世紀前半の美しきヨーロッパの街並みの姿がまだ残っているといわれるブエノス・アイレス市の建物や道路など街づくりを自分の目で見ることでした。
 
2つ目は、現地で牛肉を味わうことでした。

3つ目はミュージカルと映画エビータ Evita で知られるペロン大統領夫妻の出現など、資源大国であり南北アメリカではUSAに続く大国になれたはずのアルゼンチンが政治の混乱などで先進国になれなかったことがあったのですが、イギリスが誇った客船クィーン・エリザベスIIがフォークランド紛争(マルビナス紛争)で英国軍に徴用され兵員輸送の人にあたったり、アンドリュー王子がヘリコプター操縦士として従軍したり、エグゾゼミサイルなど西洋の武器を戦う双方が使用しての英国領となっていた島の争奪戦がおこなわれたり、大英帝国の現在に至るまでの領土(世界の海)拡張、支配主義を具体例として触れることでした。

    

1番目のブエノス・アイレスの街並みについては、2番目の目的の牛肉とも関係するのですが、見る統計によって少し異なるのですが、二十世紀初頭のアルゼンチンは主に英国向けの冷凍牛肉や小麦の輸出で世界の国のトップクラスの富を得ていたとのことです。牛肉などの欧州への輸出代金により世界有数の貿易収入が南米の一つの国の一つの街に集まった結果、湯水のように建設費を使い豪華な建築物が造られました。地震がないこと、WWIIでは戦地にならなかったこと、都市づくりにおいて、片側7車線X2+2=16車線=幅140メートルという壮大な大通りにみられるように街の中心部はゆとりある都市計画で造られています。

そして得られた外貨で輸入した主品目は建築資材など現代国家を造るためのインフラ構築に使われています。アルゼンチンはパンパなど広大な国土を有していますが、人口はブエノス・アイレスに集中しています。全人口が約4千6百万人のうち約1千5百万人がブエノス・アイレス都市圏、次が1.6百万人のコルドバ市となっており、ブエノス・アイレスは二十世紀前半では新興の都市ではあるものの世界でも一二位を争うリッチな都市であったと言われます。土地の余裕もあるため、スクラップ・アンド・ビルドではなく美しい街並みが、そのまま現在まで残っていて、美しい様式美を持つ建築物の多くが取り壊されてしまっているヨーロッパの都市では味わえない、古き良き時代のヨーロッパの街並みが南米のブエノス・アイレスでまだ残っていたのです。

スペインの植民地ではあったもののイギリスの支配下にあったこともありますが、その後はイタリアやヨーロッパからの移民などの増大でブエノス・アイレスは周辺部へ拡張を続けて広大な都市圏となりました。一方で貧富の差が拡大し先進国になりそこねた国の見本のようになっています。日本とのつながりでは鉄ちゃんならご存知の、営団地下鉄とブエノス・アイレス地下鉄は昔から協力関係があったとのことで、訪問時には丸ノ内線で使われていた赤い車両がブエノス・アイレスの地下鉄で活躍していました。


この建物は宮殿ではありません。ブエノスアイレス市内へ上水道を供給するポンプが設置されている建物です。外壁に使われているのは英国産のタイルということです。公共事業にお金をかける=社会の永続性のための費用は惜しまないという考えがないとこのような水道局はできないと思います。

 


ゴシック様式の大聖堂と見えてしまうのですが、この建物はCentral Puertoという会社の発電プラントです。(空撮)
 


現代日本からすれば、戸建て住宅が並ぶ大都会のきれいな街並みなのですが、プール、テニスコート付きの住宅もあり、外国人には簡単にはわからない複雑な社会構造が積み重なっているようです。
 


営団地下鉄(東京メトロ)丸ノ内線の車両が輸出されて使われていました。ブエノス・アイレスで使われていた赤い車両、4車両が数年前に日本へ里帰りしたとのことです。


車社会がやってくる時代に街づくりが行われ、当時、既に限界に来ていたオスマンのパリなどを反省材料とした、思い切った余裕ある、平地に恵まれた街となっています。パソコンゲーム、シム・シティもびっくり。ここでは大きいことは良いことが通用するところです。ただし、歩いてこの道を横断しようとすると、少し大変。

    

2つ目の牛肉ですが、商社マンなど世界各地を知っている人に言わせると、アルゼンチンの牛肉生産高は大きいのは承知するも、味は美味しくないというのが通説みたいになっています。訪問する数年前TVでアルゼンチンの労働組合活動のレポのTV番組をみたのですが、その中で、討議の間の食事時間に組合員がビーフステーキを普通の食事として食べているシーンがありました。

現在の日本では、ブランド牛、等級、熟成など付加価値を付けて価格を高くし、食べる方も高い値段のものをありがたがるというマーケティングができていますが、アルゼンチンの牛肉生産高は世界で第六位、飼料穀物の生産高では大豆が第三位、とうもろこしが第六位と世界の牛肉の消費を支えている国なのです。”美味しくない”という話は間違っています。現地で冷凍・解凍を経ていないで調理される肉は調理法にもよりますが、不味くなる理由はありません。何故誤解が通説みたいになってしまったのか?私の個人的推論ですが、アルゼンチン産の牛肉の主たる輸出先である英国への一昔前の冷凍技術を含む物流、それと食材に恵まれないため調理法がいまいちだった英国で食される牛肉が良い評判を得ることは難しかったはずです。それが今日まで英国の料理はまずいという根拠のない定説にもなっているのだと思います。現代では食材はいかようにも入手できるわけで、ロンドンで修行経験のあるフランス人のシェフがスターシェフになることも出てきています。ボルドーワインやシャンパンの大消費地はイギリスです。

アルゼンチンで輸出される牛肉は集散地のブエノス・アイレスから冷凍船で英国へ運ばれました。冷凍技術はフランス人 Charles Tellier(1828-1913) という人が確立したもので、フランスの船“Le Frigorifique”は1876年に初めてブエノス・アイレスから牛肉を冷凍で欧州へ運んでいます。冷凍するときの技術、保存する温度、解凍する技術などが物流とともに関係してきます。ジャガイモ飢饉のアイルランド当時は英国でした。ビールやウィスキーのもとになるのは麦でワインとなる葡萄は英国ではほとんどとれません。フィッシュ&チップスが国民食の地域で牛肉はどれほど歓迎されたことでしょうか。羊肉にミントソースという英国の定番料理の美味しくないこと。産業革命で世界の工場となった英国は、工業の原材料、製品の販売先を世界中に求めるのとともに国民が生きるための食料の確保も確実におこなっていたわけです。

アルゼンチンのバーベキューであるアサード Asado、そしてソーセージであるチョリソ Chorizo にくわえメンドーサ州などで生産されるワインが安価に口にできるとなれば労働者も絶対に飢えません。インターナショナルの歌詞にある”飢え”は少なくともアルゼンチンでは左翼運動の絶対的理由にはなっていないはずです。過去に何回も起きている政情不安とインフレは主に貧富の差と政治の不手際が原因と思われますが、”貧しくても食べることができる自然の恵がある国”の数字に現れない豊かさが近隣国からの不法移民の流入が続く理由の一つかもしれません。

滞在期間中、夜はタンゴを聴きに行くこともあり、街のレストランや、ショッピングモールの中にある一般向けのレストランで、肉料理とボトルワインでの早めの夕食を取りましたが、当時の価格ですが、一人前、税サ、込み込みで約2千円弱、デフレが進んだ日本では最近は高級な和牛にこだわらなければステーキは安く食べられますが、それよりもさらに安かったと記憶しています。晴天の日は気温が40℃になる日もあったのですが、空気が乾燥していて過ごしやすく、気温と同じ温かい赤ワインが肉料理にマッチすることも体験しました


一般家庭の庭に設置されていた炉。炭火で焼く。時々、水を炭にかけ温度を調節する。
 
レストランの輻射熱でアサード  
レストランでのメンドーサ産、品種はマルベックの赤ワイン。日本では三千円以下で入手できる。

    

3つ目の、欧米諸国から見捨てられたアルゼンチンという国についてです。フォークランド(マルビナス)紛争の際、欧米諸国が基本的にはすべて英国側についたことで、ヨーロッパをマザーカントリー、発祥の基とするアイデンティティーを自覚していたアルゼンチンの人々はユーラシアと北米大陸の国が世界を動かしていることを思い知らされ、孤立感を抱いたとのことです。

アルゼンチンタンゴは流入した移民や港湾労働者などが集まる地区の酒場で生まれた音楽ということになっていますが、現在のブエノス・アイレスのボカ地区(河口の意味の地名)は派手な色の家屋などで写真を取るための外国人向けの観光スポットに過ぎません。滞在中はほぼ毎日、日中は街を歩き回り、ダンス教室を見学したり、レストランやナイトクラブでタンゴを聞きました。

日本でレコード化、CD化されてきていた典型的なタンゴも観光客向けに奏でられることはあるのですが、地元の人などが通う酒場などで演奏されるタンゴはバンドの構成も、演奏形態もバラバラで、どちらかというとジャズのインプロヴィゼーションのように演奏家のその時の気分で展開される曲が多かったように記憶しています。

また舞踊としてのアルゼンチンタンゴやミロンガなのですが、いくつかの基本パターンはあるのですが、教える先生によって、教え方が違うだけではなく、教える足のステップなどが、かなり異なることを発見しました。日舞での流派の違いどころではありません。音楽のタンゴが自由裁量度が高いのと同じく、その音楽に合わせて踊る舞踊ですから、いくつかの定形パターンのステップ以外は自由に踊る、教科書的な組み立ては必要ないことが、タンゴの魅力であると思えました。


観光客向けのカフェバー
 

タンゴが踊れる社交倶楽部

    

日本-KL(乗り換え)-ヨハネスブルグ-ケープタウン-ブエノス・アイレスの航路は乗りごたえがあり、地球が大きくもあり小さくもあることが実感できました。帰路においてケープタウンで降機し、品質の向上が著しい南アワインの産地をいくつか訪問しました。

生きている間にもう一度、遠いアルゼンチンを旅行することはもうないと思うだけに、目に焼き付けてきた映像を大切にしておこうと思います。



 

 



ブエノス・アイレスは建築を勉強する人にとっては最高の教材です。もっぱら伝統的な様式から20世紀のアール・デコ、そしてポスト・モダン、最新の高層ビルなど、それぞれの時代背景をもった建物が建築美を競っています。タワマン一つとってみても、経済的合理性を求めながらも、建物としてのアイデンティを現すことを忘れていない、温かみのある建物が大都会での生活に潤いを与えています。

街歩きには文化庁Secretaria de Cultura 発行の GUIA PATRIMONIO CULTURAL DE BUENOS AIRESほかを持ち歩きました。

(2022/11/11)

    


編集部 国際通、料理通、ワイン通の田中 博君からの「遠くて美しい街 ブエノス・アイレス」のフォト・エッセーです。

「ブエノス・アイレス」とは、博君が言うように「よい風、よい空気」という意味で、船乗りにとって「順風」という意味らしいです。南米のパリと呼ばれる美しい港町です。博ちゃんの写真には掲載されていない建物の絵があります。

アルゼンチンの国会議事堂です。35年前の姿です。その頃のアルゼンチンは超インフレ、1週間に30%も上がりました。だから、ドルのままで両替はしない方が賢かったのを憶えています。現地の人もドルでもらう方が喜んでいました。(2022/11/11・かっぱ)


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