リレー随筆コーナー

ピルゼンでのちょっとした「事件」


阿部 誠(21期)


楽友会での思い出の場所はいくつもある。その一つは「ピルゼン」である。そう、銀座の交詢社ビルにあった、あのビアホールである。木の椅子とテーブルが置かれ、いかにも中欧風のビアホールという雰囲気にあふれていた。ここには古い世代の人たちには共通した思いがあろう。演奏会のあとの打ち上げは、いつもピルゼンであり、そこには多くの思い出が詰まっていた。とくに定期演奏会のあとの打ち上げは、卒業する4年生との最後のコンサートの余韻を分かち合い、別れた場でもあった。

いま考えてみると、学生が、ビアホールとはいえ銀座のお店を借り切っていたとはちょっと信じられない。貸し切りといっても、はじめはお店の構造がわからなかったが、中央にあるキッチンをはさんで2つの部分でできている細長いお店であって、我々が借り切っていたのは、その一方である。もう一方のホールでは通常営業をしていた。当時の我々は、ピルゼンでビールを飲むよりも合唱することに熱心だったように思う。いつもコンサートの第二部になっていた。銀座のお店で、大声で歌い、騒ぐことが許されていたのも不思議であった。いまは「管理社会」化が進んでいて、従来は大目にみられてきた学生の行動が、非難されることも多くなった。昔はよかった、である。

交詢社ビルが建て替わったときに、ピルゼンも閉店した。いまはブランドショップばかりなのではないだろうか。ときどき近くを通ると覗いてしまうのだが、当然、そこには昔のビアホールはない。我々の世代には忘れがたい、思い出の場所がなくなったのは寂しい。

ということで、ある日思いついた。そうだ!ピルゼンに行こう! といっても、ビアホールのことではない。ピルゼンの街を訪ねようというわけである。「ゆけ!旅にいまこそ」

よく知られているように、ピルゼンはチェコにあるビール醸造で有名な街の名前である。ピルゼンは、おそらくドイツ語読みで、原語ではプルゼニュ。人口16万人のチェコ第四の都市だそうである。ビールの種類であるピルスナーは、ピルゼンの街の名に由来する。ピルスナーというのは、黄金色のすっきりしたラガービールのことであり、今日、世界的にみてもっとも一般的なビールだろう。ビールといえば、ドイツを思い出す。ドイツはビールの種類が多く、私の好みはホワイトビール(ヴァイスビアー)であるが、全体としてはピルスナーの系統が多いように思う。ビールの醸造ではベルギーも有名だが、ベルギービールはピルスナーとは大きく異なる。

ピルゼンのビールは、「ピルスナー・ウルケル」として世界的に知られており、日本でも輸入されている。その本場のピルスナーを求めて、いざピルゼンへ!

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私は、コロナ騒動前まで十数年ヒマさえあれば、海外に出かけてきた。このところの私のヨーロッパへの旅には、目的地のない旅が多い。というのは、各地のコンサートやオペラを検索して、面白そうなところに行くので、あちらこちら回るけれど、どこが目的地なのかわかないといったものである。今回も、ピルゼンは、目的地というよりも、折り返し点といってよいだろう。

調べてみると、ピルゼンはプラハから電車で1時間半程度のところにある。ドイツのドレスデンからプラハはICEで2時間。ということは、ドイツから3時間半で行ける。そういうことで、ピルゼン行きを思いついたのである。

前日は、ドレスデンでティーレマン指揮の「グレの歌」を聴き、そこからICEでチェコ入りすることにした。はじめはピルゼンに直行して、宿泊することを考えたが、小さな都市なので、ホテルは少なそうである。しかも、ドイツからピルゼンに直行する列車はない。いずれにしてもプラハでローカル線に乗り換えとなる。そこでプラハに泊まってピルゼンに日帰りすることにした。これは結果的に成功だった。というのは、ピルゼンは、一回りしても2時間もかからない小さな街なので、泊ってもあまり楽しいところではなさそうである。
ドレスデンから入ったプラハは土砂降りだった。予約したホテルは数年前に泊ったことがあり、場所はわかっていたが、中央駅から微妙な距離である。そこで、ともかく歩くことにしたが、これは失敗!ずぶぬれになった。その晩はプラハに泊まり、観光名所の旧市街広場、市庁舎などに出かけたが、雨のため早々に退散した。

翌日もプラハは雨だったが、ともかくピルゼンへ出かけた。ピルゼンは、晴天とはいかないものの、雨は降っていなかった。ヨーロッパではこの天気なら上出来である。さっそく街の中心をめざして歩いた。街の中心は共和国広場で、ほかの都市と同じように教会(聖バルトロメイ)が鎮座している。ここの塔は、チェコでもっとも高いそうである。この広場をぐるりと中欧らしい建物が囲んでいる。ファサードが美しいが、中欧ではどの街にも同じような景色が広がっている。教会は工事中のようで、なかに入ることはできなかった。観光案内所で地図をもらって、お目当てのビール醸造博物館をめざした。それは広場から数分のところにあった。

ピルゼンビールの歴史をみると、ピルゼンには古くから小規模なビール醸造所が数多くあったが、質の悪いビールも多かった。そこで、質の高いビールをつくるために地域の醸造家たちが合同して1842年にはじめたのがピルスナー・ウルケルである。Webページをみていたら、ウルケルは最初、ミュンヘンから醸造技師を連れてきて、醸造技術を学んだとあった。ドイツから技術を盗んだわけであるが、そのピルスナー・ウルケルは、いまも高品質のビールを同じ場所で伝統的な製法によって生産し、世界中で飲まれている。

ここのビール醸造博物館は、古いビール醸造所のモルトハウスの跡で、そこには醸造で用いられた道具類、ビールのラベルやビアホールの装飾などが展示されていた。昔、ベルギーのブルージュに行ったときに、ベルギービール博物館を訪ねたことがある。そこはガイドツアー回ることになっており、説明を聞きながら実際の醸造工程がわかるようになっていた。しかし、ピルゼンの博物館は、ただ展示があるだけで、醸造や街の歴史はわかるが、あまり実感はわかなかった。そして、最後にビールを試飲できる。もっともビール代は入場料に含まれているわけであるけれど。

ピルゼンのビール会社は、いまは有名なピルスナー・ウルケルだけのようだが、そこはビール博物館とは別の場所にある。そこでウルケルの工場に行ってみた。最初は気がつかなかったが、それはピルゼン駅の近くにあった。大規模で近代的な工場である。工場も見学できるようだが、私が行ったときは見学時間ではなかった。しかし、ゲストホールがあって、いくつかの展示をみることができた。別の建物にはレストランとビアカフェもあったが、食事の時間でないため、レストランは営業時間外。そこで、カフェでつくりたてビールを再度味わった。まあ、美味しかったが、感動するまでには至らなかった。ピルゼンは落ち着いた、いい街だけれど、わざわざ観光客が訪れるところでもないなという結論めいた感想をもちつつ、雨が降り出さないうちにプラハに戻ることにした。 

さて、ここまで読んでいただいた方には恐縮であるが、ここまでは長々とした前置き=前奏曲!である。話の本題は、その帰路での出来事である。しかし、前書きだけで読むのをやめていただいても一向にかまわない。「フィンガルの洞窟」のように「序曲」だけの曲もあるのだから。

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さて、ピルゼン駅でプラハ行きの電車に乗り込むと間もなく発車した。あとはプラハでもう一泊して、翌日はベルリンへ戻り、ラトル指揮のベルリンフィルでベリオとバルトークなどを聞けばパーフェクトなどと考えていた。

そこへ車内検札がきたので、プラハ中央駅で買った往復切符をみせた。すると若い車掌がIDカードをみせろというではないか。外国人観光客なのでIDカードはないというと、それではパスポートを、という。私は、普段パスポートはホテルの金庫に預けて外出するのだが、念のため、パスポートのコピーを持ち歩くようにしている。しかし、この日はたまたまコピーも持っていなかった。そこで、パスポートはプラハのホテルにあると答えると、車掌クンは説明をはじめた。この切符は、高齢者割引になっており、規則ではIDカードか、パスポートを携行し、求めに応じて提示しなくてはならないという。しかし、切符を買った際にそうした説明はなく、これが高齢者割引になっていることも知らなかった。そもそもチェコ語で書かれた切符の規則を読むことができない。当然、駅の窓口でパスポートの提示も求められなかった。

そこで、プラハ中央駅で切符を購入したきにはそんな説明を受けなかったし、割引のことも聞いていないというと、車掌クンは、これは規則である。書類の提示できないならば、この切符は無効だから片道切符を買い直せという。この車掌クンは、30歳くらいの、ちょっとイケメンで、私よりもきれいな英語を話す。しかし、やたらに規則、規則と官僚的なことをいう。思い出してみると、往路も車内検札があった。その際は、おばさんの車掌さんであったが、何もいわれなかった。何だ、この違いは!

私も、この若い、官僚的な車掌の口調が気に入らなくなり、パスポートといっても持っていないものは出せないと答えて、言い争いになった。すると、何と!この車掌クン、この国では外国人はパスポートを常に携帯しなくてはならないことになっている、いま、警察に通報してもいいのだぞと脅してきた。国家権力をカサにきた言い方をする官僚はどこにでもいるものである。売り言葉に買い言葉!警察に連絡するなら連絡しろと言おうかと思ったが、こちらは高齢の日本紳士である。さすがに、それはやめた。

しばらく言い争ったが、この若い車掌はガンとして言い分を変えない。埒があかないので、抵抗をあきらめ、仕方なく切符を買い直すことにした。冷静に考えてみると、切符の規則をタテにされると、最終的に非はこちらにある。クレジットカードで切符代を支払うと、最後に彼は、「お買い上げありがとう。明日はパスポートを持って出かけた方がいいよと」というので、こちらは「明日は、もうこの国にはいないよ」と答えて、イタチの最後っ屁の打ち合い! 腹のたつ車掌であった。

ところが、帰国後にクレジットカードの支払い記録を確認したところ、何と追加支払いはわずか133コルナ、637円である。もともと高齢者割引の切符は、往復で何と!62コルナ、297円に過ぎなかった。チェコの鉄道は、高齢者割引を使うとものすごく安いのである。驚いた。帰路の切符代はムダとはいえ、こんな金額をめぐって言い争うとは!ただ、官僚的な車掌クンの言い方が気に入らなかったので、口喧嘩になっただけのことである。

ヨーロッパを一人で歩き回っているとこうしたトラブルはしょっちゅうである。とくにヨーロッパは車内検札のシステムなので、乗車前に切符や経路の間違いに気がつかないことも多い。また、切符の規則は比較的厳格で、学割を使っている学生などは、常に学生証の提示が求められることをみている。それでも、多くの車掌さんは、柔軟に対応しくれる。行きの車掌さんは、そうであったし、以前、スイスでも、同じように車内検札で切符のルートと乗車しているルート・路線が違うことを指摘されたことがあったが、その車掌さんも、それ以上は何も言わなかった。事情がよくわからない外国人観光客に、もっと柔軟に対応してもよいのではないか。それがhospitalityというものであろうというのが、私の言い分である。ヨーロッパでは通じないことは、わかっているのだが。

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さて、この旅では、こんなくだらない話ではなく、実はもっと重要なことがあった。パンデミックである。プラハに入った、その日にWHOのテドロス事務総長がパンデミックを宣言した。このピルゼン行きの翌日にベルリンに戻ったのだが、この日以降ドイツでは、すべての劇場が閉鎖され、コンサートも、オペラも中止になった。ウンター・デンリンデンの州立劇場でみる予定のオペラも、ベルリンフィルも、そしてライプチッヒでのトリスタンもすべて中止。ガッカリである。早めに帰国しようかも思ったが、ホテルのキャンセルや航空券の変更などが面倒で、そのまま数日ドイツに滞在し続け、予定通りに帰国した。このときのベルリンの街の変化なども面白いが、それは、また別の機会に。

これ以来、一歩も海外に出られない状態が1年半も続いている。イライラする毎日で、ストレスもたまるばかりである。イライラしたチェコでのやり取りをこうした文章にして気を紛らわせている。

写真は、ピルゼンの聖バルトロメイ協会、共和国広場周辺の風景、ビール醸造博物館、そして、現在のピルスナー・ウルケルの工場である。当然のことながら、銀座のビアホール・ピルゼンを思い起こさせるようなものは何もないのである。残念!


ピルゼンのラートハウス


ピルゼン共和国広場


聖バルトロメイ教会


ビール醸造博物館


ビール醸造博物館正面


ピルスナー・ウルケルの醸造工場

なお、リレー先は、後日ご連絡いたします。

(2021/7/30)

バトンは大志万公博君(22期)に渡りました。

(2021/9/20)

    


編集部 阿部 誠君(21期)からリレー随筆の原稿が届きました。銀座のピルゼンを懐かしく思い出す楽友とは何期生ころまでなのでしょうか。新年会などよく楽友会の集まりがあった店です。交詢社は福澤先生の提案で出来た塾員の倶楽部です。

2次会や3次会に連れて行かれたトリス・バー「BRICK」や「ドンファン」を思い出します。60年以上前のことです。当時は資生堂ビルの隣にありました。トリスのハイボールが150円でした。

(2021/7/30・かっぱ9期)


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