リレー随筆コーナー

ブラひろし 一人で歩く

近江路その2--“近江商人の里を訪ねる--雪山讃歌”


田中 博(20期)


前回に引き続き、引きこもる日々の中から少しだけ開放感を味わっている滋賀県の独り歩きについて、今回は近江商人の里の一部を紹介いたします。

1975年当時、文系学部での就職先の業種として人気があったのは一部のメーカーと銀行と商社でした。当時はまだ”銀行床の間論”、”世界をまたにかけるビジネスマン”という一般論が通用していた時代でした。当時は10大商社とよばれる総合商社以外にも専門分野を得意とする専門商社も活躍していました。その後いくつかの商社は合併したりしましたが”商社不要論”どころか、卸売業としての機能から高度の情報を駆使し幅広い先行投資事業までをおこない日本国のみならず世界の商取引に寄与しています。スーパーマーケット、コンビニで売られる商材の多くが総合商社の力でもって供給、デリバリーされています。チリや南アフリカから安価で品質の優れたワインが日本に輸入されているのも現地でぶどう畑を歩き回ったであろう商社マンとリーファーコンテナ(reefer container 定温コンテナ)のおかげでしょう。

最近では滋賀県出身の商人が創業した商社がダントツと思われていた旧財閥系商社を利益面で追い抜いたことが話題になりました。滋賀県高島郡(現、高島市)を出身地とする創業家による大手百貨店もあります。またT自動車の設立にも近江商人が関係していたことも知られています。自動車産業の一角であるタイヤの主たる構成品であるタイヤコードやシートベルトなどが多く生産されているのも滋賀県です。多くの日本人が人生の三分の一ほどの時間を委ねている寝具の大手メーカーも起源は滋賀県にあるところがあります。女性の下着として誰もが知っているメーカーとなった会社の創業者も滋賀出身です。

昔は御所は京都にあり、日本の商取引の中心は大坂でした。現実の統治機構としては鎌倉・室町・江戸と3時代続いた幕府には武家の最高位である征夷大将軍という官位がありました。現在も使われる四文字熟語がありますが、昔から日本という島国の経済を支えていたのは、海運を担う廻船業も含む商人達でした。ニーズを掘り起こし、物資調達を開拓し、情報を得て整理して伝えるという経済の大動脈、時には循環の静脈と神経を担っていたのが商人です。必要は発明の母であり「三方よし」(売り手と買い手が満足し、第三者の世間にも貢献する)というビジネスモデルの代表が、近江商人と呼ばれる滋賀県を発祥とする商人が営々と築いてきた現代の商業です。
 
現在、私が住んでいる芦屋市には、芦屋仏教会館という建物があります。これは、丸紅商店初代社長、九代伊藤長兵衛が私財を投じて仏教を学ぶために建てた会館です。この会館は現在に至るまで、仏教の宗派を問うことなく、仏教を学ぶための場として、市民に広く門戸を広げて仏教を学ぶ場として公開されています。

余談ですが、個人住宅の立ち退き交渉は永遠に進展することなく、未来永劫貫通するはずがないと住民誰もが思っていた、一般道、山手幹線の芦屋-西宮間の建設予定地は1995年の阪神・淡路大震災によって建っていた住宅の大半が被害をうけました。該当地の建物は簡易補修以外の建て替えは原則として行えず、山手幹線道路工事の開始時までには建物構築物を撤去するという条件を飲んだ住宅(記憶では2戸のみ)を除きすべて、速やかな用地買収に応じ,通称ヤマカンという道路が2010年にやっと完成しました。このヤマカン道路建設のため2003年に仏教会館は少しだけ移設、土台から全体をささえ、レールで移動する「曳家工法」で約2.5メートル南西方向(Wikiでは西となっている)に移動させられました(移設工事、撮影していたのですが、今回は映像なしです)。
 
滋賀に戻り、近江商人の発祥の地域は近江八幡や日野などいくつかありますが、2021年の春に訪ねたのは、東近江市の五箇荘(ゴカショウ)の雛人形めぐりと、犬上郡豊郷町(イヌカミグントヨサトチョウ)の伊藤忠・丸紅関連の現存する家屋など、そして愛荘町というところにある西堀榮三郎記念探検の殿堂の3区域です。

実は、会社に勤めていた時代、短期間ですがGMやFordのオーストラリア・アジアの工場向けや日本の自工メーカーのASEANの生産工場を納入先とする業務に携わったことがありました。その時の国内勤務先の事業所は滋賀県愛知郡愛知川町(エチグンエチガワチョウ、中山道65番目愛知川宿があったところ、現、愛知郡愛荘町)の愛知川という川に接した工場に隣接した事務棟でした。愛知川地区など滋賀県の多くは西武グループの近江鉄道が通っている地域ですが、自動車がないと生活できない地域ですので工場がある場所以外の前記の地域に関しては、本年2021年まで一度も訪ねたことはありませんでした。通勤バスでは五箇荘の近くも通っていましたが、特色のない農業地域が広がっている地域という印象しかありませんでした。

五箇荘
五箇荘は近江鉄道の五箇荘駅から徒歩30分ほどの距離の五箇荘金堂町(ゴカショウ コンドウチョウ)には商人屋敷が多く残っています。あまり目立ちませんがアパレルでも頑張っている超名門の京都の外与(トノヨ)という会社の基になっている外村(トノムラ)家の屋敷などがあり、いまだ街並みが生活の場としても保存されている商家では、春には代々伝わる雛人形をかざり一般に公開しています。


近江鉄道五箇荘駅
財政が豊かでない近江鉄道だが、駅舎は公共のものという観点で立派である

 
外村宇兵衛家に伝わるお雛様 1926年頃製造


五箇荘金堂町へ


五箇荘田んぼの中にもWelcome


五個荘金堂町
素晴らしい商家のならぶ街並み


東近江市立五個荘小学校
立派な門構えの小学校、さすがリッチな滋賀県

伊藤忠兵衛記念館と豊郷小学校旧校舎
別の日に訪れたのは豊郷町の伊藤忠兵衛記念館と豊郷小学校旧校舎です。伊藤忠兵衛は現在の伊藤忠商事と丸紅の創業の基となった人です。残っている邸宅は狭くはありませんが、合理的であり、使用人も住みやすい大家族が寝起きしていた商家と感じました。豊郷小学校旧校舎は丸紅の取締役専務の古川鉄治郎という人が村に寄贈したウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の質実剛健なシンメトリーの建築物で、現在は地域の図書館としてし使われています。近江鉄道の豊郷駅近くには七代目伊藤長兵衛の寄贈による豊郷病院があります(建物は建て替えられています)。


9代伊藤長兵衛屋敷跡
九代伊藤長兵衛家の屋敷跡。長兵衛は芦屋に仏教会館を寄贈している


伊藤忠兵衛記念館お雛様
初代伊藤忠兵衛の本家(旧宅)が記念館として公開されている


伊藤忠兵衛記念館東側


伊藤忠兵衛記念館表札


近江鉄道 鉄道むすめ 豊郷あかね
鉄道で働く女性をモチーフにしたキャラクター


近江鉄道豊郷駅舎


展示資料マルベニポスター
「150年 歴史を積み重ね世界が舞台」

上の図は”天秤千両”の近江商人と、富士山を描いている。欄干の形状から日本橋、三条大橋はではなさそう(不明)。城・天守閣も不明。

下の図は左側のタワー郡が、NY、ドバイ、パリ ノートルダム、自由の女神、新宿、ピサ、上海、ロンドン、パリ凱旋門、右は金門橋、ピラミッド、アモイ、ストーンヘンジのよう。


豊郷小学校

西堀榮三郎記念探検の殿堂
日を改めて、東近江市にある「西堀榮三郎記念探検の殿堂」を訪れました。近江鉄道八日市駅からコミュニティバスで20分ほど、余程興味がない人でないと訪れない場所にこの記念館はあります。西堀榮三郎氏は京都の商家の生まれですが西堀家は滋賀の出です。西堀榮三郎氏は東京電気(現東芝)にも勤務した技術者であり真空管の改良技術で大きな実績を残された人で第1次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長を務めた人です。この記念館の入り口には、南極大陸に取り残されるも生き残ったタロ・ジロの剥製が置かれています。京都大学の通称、人文科学研究所(京都市左京区北白川小倉町)に連なる民俗学や探検に生涯を捧げた学者の方々ほか探検家の偉業を整理して後世に伝えている珍しい学究展示施設です。


Deming Prize


探検の殿堂入り口タロジロ剥製
南極で生き延びたタロ・ジロが歓迎してくれる


探検の殿堂外観ピッケル


近江鉄道八日市駅ストリートピアノ
乗客を増やそうと努力されているが、大都会を除き自動車がないと
生活がしにくいのは日本の大半の地域に共通する問題点

西堀榮三郎さんといえば、誰もが知っている「雪山讃歌」の作詞者です。

そうです、

雪よ岩よ 
われ等が宿り 
俺たちゃ街には 
住めないからに

ヘンリー・フォンダ主演の西部劇映画「荒野の決闘」(My Darling Clementine)で知られる旋律です。もとの歌詞は、

Oh my darling, oh my darling
Oh my darling, Clementine
You were lost and gone forever
Dreadful sorry, Clementine.

日本ではワグネルOBのダーク・ダックスが広めた名曲です。私が好きなのは、

シールはずして 
パイプのけむり 
輝く尾根に 
春風そよぐ

の一節です。

循環器系統を患いタバコを吸わなくなって4年経ちます。美味しい煙草の銘柄とまずい紙巻たばこの銘柄の嗅ぎ分けは今でもできます。美味しいタバコの香りは無条件に許してあげたいと今でも思っています。医療費高騰を招く”非国民”と非難されていた喫煙時代においても、匂いが髪の毛や衣服に染み付くという弊害は認めるも、若いときに体験してしまったパイプタバコの”桃山”(現在は日本での国内生産はされていないようだ)の香りは絶品で賛美するに値するものでした。

”シールを外す”が意味として繋がりにくいのは、seal アザラシ、の皮の防寒具、滑り止めを外すというのが正解なのかもしれませんが、もと愛煙家の私としては刻まれたパイプタバコが入っている長方形の折りたたみ式パックの取り出し口は複数回使用できる、記憶では幅1センチ、のりしろ部分2センチほど、のり付きシールであり、そのシールを剥がし開封し刻みたばこを取り出すという動作を意味していると思い込んでいます。そして指で刻みたばこをパックから取り出し、パイプに詰めるという儀式が続きます。指先には甘い香りが移ります。そしておもむろに着火さすと馥郁たるけむりがたちあがります。山を愛した西堀さんや登山家の煙のひと時は彼らの”青春賛歌”そのものだったのでしょう。もちろん実際の登山中は山火事などに注意されていたはずです。

楽友会には小林亜星さんが私達に作ってくださった、私達の”青春讃歌”があります。素晴らしいことです。

コロナが終わったら、皆で会して歌おうではありませんか!
 
(P.S.)南極探検に使われた砕氷船”宗谷”は、現在、お台場の船の科学館の隣の埠頭、新設された東京国際クルーズターミナルを臨む陸側に保存展示されており、内部には越冬隊での品々などが展示されています。

(2021/5/28)

    


編集部 みなさん、著者欄にある田中 博の写真はこの写真から取り出したものです。ここは皇居の東御苑です。かっぱは驚きました。田中がタバコを止めて4年とあります。これは7年前の三田Salonの花見です。コロナ元年からは毎月の例会も花見も忘年会も中止です。何時になったら再開できるのでしょう。

こんなところで嬉しそうに煙草を吸う3人。

ホントはもう一人いたのですよ。この人が。

次回の田中 博の投稿には、を使います。

タバコでもう一つ思い出したのは、代官山サンローゼにTableaux Loungeというシガー・バーがある。テーブルに葉巻の箱を持ってきてくれる珍しい店だった。

(2021/5/28・かっぱ)


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