リレー随筆コーナー
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1 岡田忠彦先生(以下「先生」)の指揮に初めて接したのは夏合宿、清里の『清泉寮』でのAVE VERUM CORPUSだったと思う。
普段の練習では腕を組んだまま練習を見守っていただけだった先生が、おもむろに立ち上がり指揮棒を構えると、その鋭い目に合唱団全員に緊張が走った。構えた指揮棒は一番先の部分まで微動だにしない。 そして前奏のピアノに続いて合唱が始まると、先生の指揮棒は静かに予め決められた軌道を正確になぞるように動き、曲の高まりと共に両腕を大きく広げ、一段と大きなジェスチャーで合唱をリードする。同じ合唱団とは思えないような、色彩にあふれた音色の音楽が流れだす。正に魔法のような指揮。 指揮棒一本でどうしてここまで音楽をコントロールできてしまうのか。そして曲の最後には、指揮棒を持つ手首を360度、ゆっくりとくるりと回し、一瞬パッと両手を握る。合唱はピタッと揃って切れた。 他の人がどう感じたかわからないが、これには強烈なインパクトがあった。これが本物の指揮者なのかと唖然とした。全ては指揮棒一本で指示が出ていたのだ。 そんな凄い先生であったが、当時ポピュラー性の高いバート・バカラックや『ラマンチャの男』を歌いたかった生徒に、楽友会本来のバッハ・ハイドン・モーツァルトなどを指向する先生は厳しくダメを出し、数年来、生徒と先生の関係はうまくいっていなかった。 先輩と話をしても、岡忠は頭が固くて話にならない、と悪口しか出てこなかったのである。 ● 2 昭和50年4月、高校3年になり私は高校楽友会の責任者(総務)となり、初めて先生の元住吉のご自宅を挨拶方々訪問した。歴代総務から引継がれていたノートには「お酒の好きな先生のご自宅訪問時には黒の剣菱を持参すること」と書かれており、引継ぎ通り黒の剣菱の一升瓶を担いで緊張して訪ねたことを今でも覚えている。 始めのうちは緊張していたが、先生が楽友会の創立当初の話、小林亜星さんと林光さんが同級生だったこと、若杉弘さんも楽友会だったこと等、懐かしそうに話されているうちに打ち解けていった。先輩から言われていた先生の「怖い」イメージは薄れていった。 その後、先生の発案で学生指揮者に指揮法を教えて頂けることになり、毎週日曜日にチーフ・サブ6人の指揮者と私と女子高の責任者で何度もお宅を訪ねるようになった。課題曲はベートーベンの『ワルトシュタイン』第一楽章。練習台になるピアニストは「高階くんが弾くように」と言われ、自宅で練習し準備した。 何度か練習が進むと、先生は「来週からはベートーベンの3番ソナタ第一楽章をやろう」と言われた。この曲は私自身弾いたことがなかった。練習期間は次の日曜日まで一週間しかない。しかも三度の和音のトリルなんぞがついている。練習ピアニストとして指揮者の足を引っ張ってはならない、と結構焦って自宅でさらったことを覚えている。指揮法の練習というよりは、私にとってはピアノの稽古に通っているような錯覚に陥っていた。 ●
3(青春讃歌初演) 先生から渡された楽譜は小林亜星さん自筆の楽譜のコピーだった。当時、大学の楽友会は先生の指揮でオケ付きの合唱曲を本割で必ず演奏していたので、青春讃歌もオケ付きだった。しかし大学楽友会の諸先輩、及び伴奏のオーケストラとの練習はステリハの1回だけだったと記憶している。 『青春讃歌』の初演は、昭和50年12月11日、場所は芝の郵便貯金ホール。大学楽友会の定期演奏会の最後、アンコールで演奏された。 アンコールの直前、私は塾高の学ラン姿で舞台に出てスタインウェイの前に座った。場所はオケの横、一番下手寄りだった。この曲にはピアノ伴奏も全曲を通して付いており、一生懸命弾いたが、音はオケに消されて出だしのピアノソロ2小節だけしか聞こえていなかったのではあるまいか。演奏中は「このピアノ、タッチが重いなあ」などとあらぬことを考えて弾いていた。 今思い返せば、今だに愛唱されているこの曲の初演に高校楽友会として私が参加させてもらえたのも大学と高校のオール楽友会、ということを先生が意識した意味合いがあったのかもしれない。 ●
4 4月、大学入学。クラブはどこに入るか。これまでの先生のご恩を考えれば、当然楽友会に入部すべきだった。しかし、ここで私にはもう一つの選択肢が存在した。ワグネルソサィエティ男声合唱団だ。私は高校2年の時ワグネルの定演を聴きに行っていた。後から考えれば、それは今も歴代ワグネルの中で名演中の名演との呼び声高い、伝説の第99回定演であった。その時受けた強烈な印象が脳裏に焼き付いていた。どちらを取るか。悩みに悩み抜いた。 出した結論はワグネル入部。私は先生のご恩を仇で返す形になった。会わせる顔がない。同じようにワグネルを選択した同期が4人いた。男声8人の半分がワグネルに入部した。 そんな中、先生から電話が掛かってきた。 ヤバい、どう言い逃れしよう…。 しかし用件は全く予想もしないものだった。 アルバイトの紹介。塾監局に早くにお父さんを亡くした小学三年生の男の子を持つ方が勤めていて、家庭に男の人がいない(未亡人とおばあちゃん)中、お兄ちゃんがわりに男の子の面倒を見てくれないか、というもの。 二つ返事で引き受けた。私が大学楽友会に入部しなくても、それでも私にバイト先を紹介してくれたのだ。何という優しさ。心の広さ。その時受けたご恩を私は生涯忘れない。厳しいがんこ親父という印象はみじんもなかった。 バイトは1時間、算数を教えたり、ピアノを教えたり、一緒に遊んだりして、おやつを御馳走になり帰るというもの。先生とも時々電話でバイトの様子を報告した。バイトは大学2年秋、ワグネルの練習がきつくなり、お宅に伺えなくなるまで続けた。 ワグネルに没頭するうちに先生との繋がりも次第に薄れ、ついには連絡もとらなくなってしまった。 今思えば何という不義理をしたのだろう。ずっと連絡を取り続けていればと今つくづくそう思う。 お亡くなりになった今、改めて先生のご恩の深さが身にしみる。 その後、私が初演に関わった「青春讃歌」は高校楽友会の定期演奏会のアンコールでピアノ伴奏により途切れることなく演奏されてきた。 今年9月29日。藤原洋記念ホールでの高校楽友会創立70周年コンサートに参加し、初演以来43年ぶりに青春讃歌をオーケストラとピアノのフル伴奏付きで歌うことができた。それは自分でも驚くほどの感動体験であった。 60歳を過ぎた今、青春を思い出すとき、この歌はなんと心の琴線に触れる歌詞・フレーズなのだろう。先生の指揮する凛々しい姿、指揮法のレッスン、青春讃歌の初演、先生との思い出のすべてが昨日のことのように思い出される。 これからも後輩たちには「青春讃歌」をいつまでも歌い継いでいって貰いたい。 (2018/11/14) リレーエッセイの次の当番は、高校楽友会12期(私と同期)の久布白兼行くんです。 ■ ■ ■ ■ ■ |
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