リレー随筆コーナー
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私は中等部では2年からコーラス部に入れていただきました。男子はあまりいなくて、女子が10数名、女声2部の曲をやるのがせいぜいでした。そんな私は女子高では「楽友会」なんかには入るもんか、と思ってしばらく運動部に入っていました。ところが、途中で心電図に異常が出て、「このまま運動を続けたらどうなるかわからない」と言われ、辞めることにしました。さあどうしよう?そこで、たいして深く考えることもなく、中等部コーラス部の先輩がいる楽友会に見学に行きました。そこで歌っていたのは、今まで聞いたこともないようなドイツ語の曲やら、ハモらない曲やらでした。ハモらない曲とは…。それまでハモるというのは、3度音程と信じていた私にとって、2度音程で同時に音を出す曲は衝撃的に「ハモらない」曲だったのです。先輩には「やっぱり来たね。待ってたよ」と言われました。 いつの間にか、楽友会の練習に出るようになっていて、週に何回か日吉まで行く道中も楽しかったし、帰りに自由が丘で先輩たちとお茶するのも楽しい日々でした。 2年生になって女声の指揮者になりました。当時、指揮者は岡田先生のご自宅に指揮法の勉強に伺うことになっていましたが、私のときはなぜかそれがありませんでした。混声や男声の指揮者は岡田先生の許可がないと選曲も自由にはできませんでしたが、女声だけの指揮者は無許可?で選曲をすることができました。 楽友会の3年間でいちばん覚えているのは3年生のときの夏合宿です。 4泊5日の日程で、志賀高原に合宿に行ったのですが、最終日に台風が近づいてきていました。合宿係が手配していた貸し切りバスが暴風雨のために来られないことがわかり、急遽鉄道で帰ることになりました。路線バスも通常のルートを通れなかったので、宿のバスで湯田中駅まで送っていただきました。体の大きい部員はバスに乗りきれず、もう一台のジープに乗せていただいた部員もいたようです。湯田中からは長野電鉄で長野まで行きました。 長野で信越本線の急行列車に乗り換え、東京まで帰ることになりました。当時の急行列車はリクライニングのない、直角な背もたれのボックス席の車両でした。岡田先生が、「東京まで長いから、ちゃんと席を取っておくように」とおっしゃったことをよく覚えています。だんだんひどくなる風雨、遅れながらも急行列車は動き出しました。 軽井沢の駅につくと、2年生の女子が、自分の家の別荘があるからと、「じゃあね」と言って降りていきました。しかし、そのあといつまでたっても列車が動き出す気配がありません。 暴風雨の続く中、先の線路に障害があるとかで、列車はそのまま軽井沢の駅にとどまることになりました。復旧の見込みは立たず、だんだん暗くなるのに電源も落とされました。夕食を持っていないので、列車がまだ動き出さないことを確認してから交代で駅前の喫茶店まで走って夕食を食べに行きました。ほんのわずかの距離だったのに横殴りの雨でびしょぬれになったことを覚えています。 岡田先生と女子高の重田先生は公衆電話で学校に連絡をし、各家庭には学校から連絡がいくから、ということをおっしゃっていました。 夜もふけてきて、真っ暗な列車の中、冷房も効かず、外は暴風雨、高校生男女が数十人、一晩をすごしました。今になって考えると引率の岡田・重田両先生はたいへんご苦労・ご心配をされたと思うのですが、私たち高校生はなんだかとてもウキウキして楽しんでしまったのです。合宿用に持っていったラジカセで、そのときの会話を録音してあったはずなのですが、カセットテープがどこかにいってしまいました。
翌朝は軽井沢駅のホームで地元婦人会の方が炊き出しをしてくださってほかほかの塩にぎりとたくあんを朝食にいただきました。私は生まれて初めて塩だけのおにぎりを食べたのはこのときです。ありがたくてありがたくて、あの味は一生忘れません。 昼前ごろでしょうか、やっと復旧して動き出し、寝不足の眠い目をこすりながら無事に帰京して家路につきました。 今でもこのときのメンバーと集まると「あの軽井沢の台風のときさー」という話題になります。現在の軽井沢駅は新幹線が通ってまったく昔の面影がなくなってしまいましたが、私たちの心の中にはいつまでもあの日の風景が残っています。 (気になって調べてみました。おそらくはこの昭和57年台風10号ではないかと思うのですが、多くの被害を出した台風であったようです) https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1982/19820701/19820701.html http://www.ktr.mlit.go.jp/tonesui/tonesui00048.html (2018/10/6) バトンは市川卓広さん(高20期)に渡りました。 (2018/11/4) ■ ■ ■ ■ ■ |
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