リレー随筆コーナー
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1960年の春、楽友会に入部して半年ほどの頃、将来は「音楽活動の指揮を職業に」と志を立てていた大野君の耳に、私が楽友会のかたわらヴァイオリン演奏を趣味にしていることが伝わり、絃楽アンサンブル編成の構想を打ち明けられて意気投合、指揮者は大野君、諸々のマネジャ役は楽友会の中村脩君、そしてコンサート・マスタを浦上が務めることで発足を決めました。さて名前をどうするのかを考える中、絃楽器が今の形に完成される過程で多くの作品が作曲された17世紀頃からの、美術史でバロック様式と区分される名に敬意を表して、といえば美しいのですが正直なところを申せば名を借りて「東京バロック・アンサンブル」と名付けました。 因みにバロックとは「不整形な真珠」を意味するとのことで、大野君が美術専攻の友人に「バロックに想を得たデザイン」を描いていただいて楽団の「旗印/シンボルマーク」としました。資料が残っていれば実物をお見せできるのですが、丸い真珠の周囲には多くの凹凸を付け、内部にはノミか彫刻刀で切り刻んだような沢山の切り欠きを付けたデザインで、楽団の演奏会の入場券やプログラムにはそのデザインを印刷して「バロックを覚えていただこう」と努めました。 こうして構想を練ること一年、楽団員は大野君と浦上の知人、ヴァイオリンの先生、先生の教え子等に声を掛けて15名ほどで編成、切符は楽友会の仲間、教室の面々にも協力願って、第一回の演奏会は翌1961年の秋、銀座の「ヤマハホール」にて開催の運びとなりました。 曲目はモーツアルトの喜遊曲K.136で始め、結びは浦上の学友の姉君プロ演奏者の有松洋子さんを独奏者に迎えて、バロックの中のバロック、ヴィヴァルディの四季から秋・冬で締め、「終わり良ければ全て良し」を狙った訳ではありませんが、お客様に好い印象を持っていただいて終えたいとの思いは抱いておりましたでしょう。 それからの公演はイイノホール、第一生命ホール(お堀端日比谷の第一生命ビルの中)、上野の東京文化会館小ホールなど、その都度使える会場を探し、当時は250円の切符でも課税されるため、印刷が済んだ切符は全部会場管轄の税務署へ持ち込んで一枚一枚税務署の認印を押して帰る。そうした楽屋裏の仕事もありました。加えて、公演日にお配りするプログラムに載せる広告集めには知人のつて、果ては親兄弟が係る会社をも頼りにするなど、そうした皆様のご支援のお陰で成り立つ活動でありました。 ところで、団員メンバーはいつも固定している訳ではなく、折々の都合で出入りがあるため、楽員の知人友人また学友に「楽器を弾く人がいないか」と探し、これは独奏者も同様で身近に相応しい人がいないか目を光らせて、できるだけお金が掛からないように努めておりました。練習場所も、渋谷駅に近いサイトウ楽器を初めとして、青山のカワイピアノ、はたまた目黒や上野のキリスト教の教会ホールを安く借りるなどなど、苦しい台所事情を抱えた活動でもありました。 1963年、指揮者の大野君は指揮法の勉強にドイツへ留学しましたが、バロックの灯は消さないでおこうと思い、知人の指揮者を引っ張りこんで公演を続け、1964年大野君が留学から帰国した後は再び彼の下で活動を始めました。 ここで特記しておかなくてはならない活動は「バロック・コーラス」の誕生です。東京バロック・アンサンブルは元々楽友会メンバーの中から芽生えた楽団ですので、周りには多くの合唱愛好者がおいででした。ただ浦上は絃楽アンサンブルの担当で、誠におぼろげなのですがコーラスは大野君が楽友会員であった(1964年の春に大学は卒業しておりました)津村重人君と力を合わせてメンバーを集めてい たのではなかったかと記憶します。 それ以後の演奏会は絃楽合奏と、絃楽の伴奏で演奏できる合唱曲との両建てプログラムになりました。しかし、どのような曲目を演奏したのか、こちらも記憶がおぼろげなのですが、フォーレのレクイエムからアニュスデイ、モーツアルトのサンクタ・マリアやアヴェ・ヴェルム・コルプスは鮮明に覚えております。また、身近にいらっしゃる作曲者への委嘱合唱作品も演奏した記憶があります。 さて、バロック・アンサンブルの活動は卒業後、働き始めてからも止める積りはなかったのですが、浦上がソニー入社後、研修先の事業所でプレス機を操作していて左手指三本を潰す事故に見舞われ、ヴァイオリン弾きにとっては致命的な怪我で人様の前では演奏できない身となりましたので、自ずから身を引く形となりました。 以下に今では記憶があやふやで完全な記録にはならないのですが、思い出せる範囲で改めて第一回を含め、独奏曲と独奏者を中心に開催した演奏会の記録を残しておきます。
ここで1965年冬の公演は12月24日クリスマス当日の催しだったのですが、この日の曲目モーツアルトのピアノ協奏曲のホルンパートを、独奏鳩山満喜子さんの父君、鳩山道夫さんが務められたことを一言付け加えておきます。 さて、こうした活動のさなか、関係者はしばしば喫茶店に集まり、あれこれ打ち合わせの機会があったのですが、誰一人として会の活動を写真に収めて記録に残そうと言い出さなかったのは、今にして思えば誠に不思議としかいいようがないのですが本当のことで、バロック・アンサンブルの写真は一枚も残っておりません。今ではデジタル写真が主になりましたが、当時は未だデジタル写真がなく、フィルムに撮る写真しかなかったことが一因なのかも知れません。 最後になりましたが、楽友会の三澤驪v君には折々に相談役になっていただき、演奏会の舞台ではしばしば譜めくり役をも務めていただいたことを書き添えておきます。 以上、ご精読ありがとうございます。 浦上拝(2017/12/5) ■ ■ ■ ■ ■ |
東京バロック・アンサンブル 指揮:大野 洋(9期) 1962
ピアノ:森村真澄(9期)
写真撮影提供:須藤武美写真館(9期) |
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バロック・アンサンブルの記憶に 7期の遠藤琢雄さんが、1963年2月28日・3月1日に開催した第四回演奏会のプログラム他お手持ちの資料を2018年楽友三田会総会・新年会にお持ちくださいました。遠藤先輩には心からのお礼を申し上げ、楽友の皆様にはいただいた資料を基に初めの記事の中の誤りを改めると共に、欠けておりました内容を追加ご報告致します。 先ず、プログラム表紙真中の「欠け欠けのついたほぼ丸いデザイン」が、大野君の美術専攻の友人が“バロック”の意味する“不整形な真珠”に想を得て描いてくださった楽団の「旗印/シンボルマーク」であります。 |
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ところで、1963年2月28日・3月1日に開催した第四回演奏会では混声合唱団が参加しており、演奏曲目にも絃楽アンサンブルに加えて合唱曲を載せております〔PROGRAM〕。ということは、東京バロック協会は大野君留学前の1962年に既に絃楽アンサンブルと混声合唱団を擁する大きな組織となっていたのであり、詳細は添付の「第四回演奏会プログラム」と「東京バロックコーラス編成のお知らせ」をご覧ください。プログラムの「ごあいさつ」で大野君が約束しております“帰国後の演奏会での「バッハのマタイ伝による受難曲」の全曲演奏が実現しておらず、一部コト志と異なる展開となった事情がございますものの、当時の関係者が胸を高鳴らせつつ取り組んだ心意気をお汲み取り願えるのではないかと存じます。 プログラムの中の女声合唱「良寛のうたえる」は、初めの記事に“・・・身近にいらっしゃる作曲者への委嘱合唱作品も演奏した記憶があります”と申しました、正にそれに当たる営みでありました。 思い起こせば、この第四回演奏会は二日続きで同じ内容のプログラムであり、大野君の留学に先立つ壮行会に並ぶ公演の趣を呈しておったのでありますが、初めの記事を執筆致しました際には欠落しておりました。謹んでお詫び申し上げます。 附:添付はオリジナル資料のコピーをスキャンしたもので、コントラストが弱く読みにくいのですが、悪しからずご容赦願います。 (2018/1/28・浦上忠之) |
遠藤さんから第3回のプログラムも送ってきました。1962年12月7日のものです。 遠藤さんのコメントには、「バロックコーラス編成のお知らせ」はこの時に配布されたものだろうと付記されています。 |
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