リレー随筆コーナー

信時潔先生との出会い
 

伴 博資(11期)


本文記載の新保祐司氏の著書「信時潔(構想社刊)」表紙

1962年当時の慶應義塾楽友会の活動は、毎年4月から定期演奏会迄は大学と高校が合同で行い、定期演奏会から翌年3月迄は大学と高校とが別々に行っていました。高校楽友会のその時期の最大のイベントは、3月下旬の「3高校合唱サークル定期演奏会」でした。

このサークルは、慶應義塾高等学校・女子高等学校楽友会と早稲田大学高等学院グリー・クラブ、そして共立女子高等学校音楽部の3校で構成されたものです。人数は慶應が52人、早稲田が68人、共立が93人の計213人でした。その第6回定期演奏会が62年3月31日15時から神田共立講堂で開催されたのです。
 

●何十年ぶりかでその時のプログラムを本棚からひっぱり出して読み返してみました。中に日比野隆哉6期さんからの寄稿があり、それによると3高校合唱サークルは6期生が3年生の時に、日比野さん達が中心になって結成されたようです。従って、私が高校3年生の時の定期演奏会は第6回にあたります。当日のプログラムは次の通りです。
第1部:
学校
指揮
ピアノ
曲  目
早稲田
関谷 晋
ロシア民謡5曲
慶 應
伴 博資
森村真澄(9期) 信時潔作品集
共 立
藤村晃一
田辺 融 信時潔作曲「沙羅」

第2部:

学校
指揮
ピアノ
曲  目(独唱者)
早稲田
前原雅勝
清水脩作曲「月光とピエロ」
慶 應
伴 博資
森村真澄(9期) S. ロンバーク作曲「学生皇子」より7曲
(テノール・ソロ:守谷精太郎/11期)
共 立
藤村晃一
田辺 融 ☆B. バルトーク作曲「四つのスロヴァキア民謡」
☆J. シュトラウス作曲「ウィーンの森の物語」
第3部:

合同演奏・ヘンデル作曲「メサイア日本語訳」より8曲
指揮:藤村晃一/ピアノ:田辺 融の両氏

●第1部で「信時潔作品集」として私が選んだのは「大寺の」「阿蘇」「深山には」「銀の目抜きの太刀を」「春の弥生」「子等を思ふ歌」の6曲です。私が慶應高校に入学して楽友会に加入した59年4月、当時の楽友会全体大学、高校の混声合唱担当の学生指揮者は大学4年の中濱信生さんでした。そしてそのころ練習していたのが信時潔作品集で、上記作品以外に「あかがり」などもありました。そのようなわけで私にとって信時作品は非常に印象に強いものだったのです。

●この演奏会終了後、共立講堂2階のロビーで当時女子高校楽友会部長の渡辺恵美子先生から信時潔先生をご紹介頂き、ご挨拶申しあげることができました。渡辺先生は信時門下生で、その関係からこの日の演奏会に信時先生がご来聴くださったわけです。

先生からは当日の私たちの演奏が「堅実で結構でしたね」、また「大学へ進んでも音楽を続けてください」といわれたことを覚えています。先生は短く刈り上げた半白髪でしたが、黒々とした長い眉毛と半白の口髭が印象的で、その快活なお話と手振りから、失礼ながら私は大工さんの頭領を感じたものでした。その3年後の65年8月1日、先生は77歳で亡くなられました。

●上記以外の先生の作品中、私は「海行かば」と「クンスト・デル・フーゲ」が大好きです。「海行かば」は終戦後何となく歌うのが憚られるようですが、この歌は一生忘れられません。曲の由来については、新保祐司著「信時潔構想社/05年」に詳しく記されていますので、ぜひこの書をご参照ください。

Kunst der Fuge は、1937年、廣田美寿々の詞に信時先生が作曲された「バッハ讃頌」で、タイトルはバッハ自身の最後の大作「フーガの技法BWV.1080」にちなんだものです。バッハの一生を歌ったその詞をご紹介します。

人 生まれ よろこび 悲しみ いかり あきらめの
世の すがた すばらしい わざ もて ゑがいた バッハ、
老いて めしいて ペン 擱いた
とはに 終らぬ 小節から 涙が わく

ご承知の通り、これは晩年視力を失って作曲のペンを擱(お)いた大バッハに対する讃頌です。私が個人的に大好きなバッハと信時潔先生が、一つの詞を元につながったと思い、非常に感銘を受けたものです。(09年2月15日)