リレー随筆コーナー

「私と楽友会の縁」


市村 正明(9期)


リレー随筆の執筆依頼が舞い込んだ。題材自由という。

「楽友」に相応しい題材はと考えてみたが、音楽に造詣が深いわけでもなくむしろ関心が無かったので音楽関連の随筆を書くような題材は見当たらない。

楽友会との縁は、大学1年の時に楽友会に所属していただけで、その後は武蔵小金井の工学部に移ったので、在籍わずか1年であった。

その後、小金井では自動車等工学等に関心が向き、こと音楽に関することはぷっつりと切れてしまい、40年以上も楽譜とは縁が無かったのである。

それが、思いもかけなかい話から、私は、現在、楽友三田会合唱団、男声合唱団「羅漢」にお世話になっているし、種々の楽友三田会関連の活動にも参加している。

今思うと、高校時代にひょんなことから「合唱」に出会い、その細い糸が色々な場面を繋ぎ、今日に至っていたのである。この不思議な繋がりについて、私事で恐縮だが過去の縁続きで振り返り、題して「私と楽友会の縁」として纏めてみた。

0.高校時代 
@思いもかけなかった合唱との出会い 
高校2年生の時である。私が朝の登校時、教室前で音楽の先生に呼び止められた。先生曰く「今年、県の合唱大会に出るのでメンバーに入らないか」と、先生はわざわざ教室前で待っておられ、勧誘された。先生の熱意に押され私も合唱練習に参加した。幸い、合唱の出来が良くいきなり県大会で3位入賞となったのである。

これが私の合唱との出会いである。

1.大学時代(1960年4月〜1961年3月) 
@楽友会との出会い 
大学に入り何かサークル活動をと物色していた時に、混声合唱団楽友会が目に付いた。高校では男子クラスで女性には縁がなかったので、混声合唱も悪くないなと、当時思ったかどうだったか忘れたが、高校時代に合唱で良い思いもしていたので、まずは入会する事にした。入ってみると、同期が50人近くもいて大所帯であった。


大森  藤吉  市村  三沢  山本, 1960/5(1年生)

大勢の同期がいたお蔭で、後に楽友三田会に所属しても違和感はなく、長続きしたのだろう。

A湯田中の夏合宿での高校生との出会い 
1年の夏休みの長野演奏会に続いて湯田中での合宿に参加。合宿は慶応高校の生徒と合同での合宿であった。この時に出会った高校生が3年生の市川君、2年生の伴君、池田龍亮君である。この縁があったので、後の楽友三田会合唱団で親しく付き合ってくれている。お蔭で私は合唱団をなんとか続けられているのである

B春休みの中国地方の徳山での演奏会 
大学1年も終る頃、私は武蔵小金井の工学部に行く関係で楽友会は1年で終了と考えていた。ところが、楽友会が春休みに中国地方に演奏旅行に行くという、その候補地の一つに山口県の徳山が上がっていた。私が徳山高校出身であったので、徳山公演を引き受けてくれと工藤先輩から頼まれた。春休みが終わったら小金井に行くので,楽友会とはこれで終わりと思っていた私はとまどった。しかも、経験のない1年生の私が遠い地元での演奏会を引き受けるのは大変な負担である。暫し悩んだが、高校同期の慶應大学在籍者が幸い7,8名(この年は何故か慶應が多かった年である)いたので、彼等に相談したら、快く協力をしてくれるという。難題だが、在籍記念の置き土産として思い切って引き受けることにした。

徳山市民館 1961年3月27日

我々が在京であったので、我々の親の助けを含めて大勢の地元の人にお世話になった。同期では地元の商工会に顔の効く人もおり宣伝ポスター、広告取りを、その他プログラムのデザイン等は私が作成、渉外等手分けして進めた。入場券の販売も順調で、皆さんに協力してもらったお蔭でこの演奏会は成功裏に終わった。私は地元出身ということで良い思いをした記憶がある。

こうして私の春休みは地元公演というおまけ作業を終えて、武蔵小金井行きとなったのである。

こんな徳山演奏会という大仕事を1年の時に頼まれたのも、今の私に繋がっているのかもしれない。

2.その後 
小金井時代⇒サラリーマン時代⇒定年退職の約40年全く音楽に縁なし、関心なしだった。その私が突然だが楽友会同期会の存在を知ることになる。

3.同期の楽友会仲間の存在を知る 
我々が定年間近になった頃から機械科の同期会も年1回定例となっていた。

ある年の機械科同期会が終了し、帰宅時のエレベータの中で同期の堀君が何を思ったか、「市村君は1年の時に楽友会にいただろう」と突然声をかけてくれた。その時、私は夏合宿の時の堀君の格好いい姿を思い出した。彼が楽友会同期の仲間は時々集っていて、藤吉君がその世話役をしているという。楽友会という言葉すら頭になかった私だったが帰宅して、40数年前の昔のアルバムを引っ張り出して眺めて、昔を思い出してみた。私は家内を亡くした直後だったので何故か仲間を求めていたのだろう、思い切って世話役の藤吉君にアプローチすることにした。

堀君のこの一言が無かったら、私は楽友三田会や同期会の存在を知らず、合唱とは無縁の別の道を歩んでいただろう。

4.楽友会同期との再会 
堀君の紹介で藤吉君に連絡、たまたま秋に同期で安曇野周辺の旅行に行くという。顔合わせを兼ねて参加する事にした。何せ在籍1年その後40数年も会っていないので、私の最近の写真を添付。それでも皆さんピンとこなかったようだったが。旅行参加当日、顔合わせしたら数人が思い出してくれた。しかし、共通の思い出話は少なく、ただただ皆さんの話を聞いていた。

別れ際に、OB/OG合唱団があり毎週練習しているので一度聞きに来ないかとの誘いがあった。リタイヤ後、何か趣味をと考えていた時に頭の隅に「合唱」という文字はあったので一度聞きに行くことにした。

5.楽友三田会合唱練習会場へ 
皆さんがどんなことをしているのか興味あり、練習会場へ出かける。藤吉君、中濱君、他同期以外ではベースに市川君、伴君、先輩の舟山さん、豊岡さんの顔が見える。早速、モツレクの譜面を渡されるも40数年縁がなかったので、当たり前だが音は取れず、声は出ず、リズムに乗れず。見学に来ただけなので気楽に聴かせてもらった。何度か行っているうちに、市川君が「3年辛抱するから・・・」と言ってくれた。これを救いに図々しくも歌い始めたのである。

6.藤吉君のリタイヤ 
何かと面倒を見てくれていた藤吉君が病に倒れたのである。彼には世話になっているし、彼のアシスト役として同期の世話を始めた。歌以外なら何とかなるという心境であった。

藤吉君がリタイヤしなかったら、私は会員の一人であっただろうが、今は同期のまとめ役になってしまった。

7.その後 
60の手習いの歌は進歩せず、音は取れず、声は出ず、リズムに乗れずの3重苦は続いているが、皆さん辛抱強く付き合ってくれているので、有難い。お蔭で「MMC」、「羅漢」で図々しく歌っている。

合唱以外の活動では在籍が長くなってきたので色々と仲間が増え、楽しみも増えた(歩こう会、ゴルフ、田園都市沿線会等々)。

現在は、リタイヤ後の生活の半分が楽友会がらみと退屈しない日々を送っている。楽友会在籍1年だった私が、各節目でキーマンと出会い、今ここに、皆さんと合唱がらみで深く付き合っている私がいる、不思議な縁である。

(2017/6/1)

バトンは佐良土雅文(16期)さんに渡しました。(6/4)

    


編集部より  9期の世話人、市村正明にリレー随筆のバトンが渡された。何時もいつもご苦労様な幹事である。9期には藤吉憲太郎という名幹事がいた。その藤吉ががんを患い2010年10月に他界した。皆が藤吉の死を悼んだ。市村は藤吉が体調を崩した後、代表幹事を継いで我々9期の世話人を一手に引き受けてくれている。

それに留まらず、楽友三田会のいろいろなイベントの幹事役を務め、そのレポートをせっせと編集部に送ってくれる。皆さんも「市村紙芝居」はお馴染みだと思います。

市村を楽友会に戻したのは、彼と同じ機械科の堀 佳一だった。堀の大功績である。

昔の工学部、武蔵小金井の田舎の学生は普段の練習には出られませんでした。日吉や三田に行っても練習が終わっています。焼きそば食いながら麻雀くらいしか出来ません。それでも、何人かの工学部生は楽友会をやめずに卒団まで残り続けました。第10回定演のモツレクには、夏休みに特別練習をしてステージに乗りました。岡忠先生のご配慮でした。

現在の理工学部は日吉矢上キャンパスですから、理工系学部の団員も何の不自由もなく楽友会活動をしています。武蔵小金井から矢上キャンパスに移転し、時代が変わったのは昭和47年(1972年)でした。

ちなみに、小金井には何も残されていません。すべて、売却してしまいました。行っても面影さえありません。(2017/6/1・かっぱ)


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