Editor's note 2008/9

 

秋のピエロ日ましに秋の虫たちの鳴く音が高まり、夏の終わりを感じる今日この頃です。昔の人は「光陰矢のごとし」と時の移ろいを嘆じましたが、今は「矢」を何にいい換えたらいいでしょう。情報が、物流が、総理大臣までもが「矢」を超えるスピードで移り変わっていきます。

福田首相の突然の辞任表明を聞いた時、何か空しさを感じて部屋を出ました。8階からマンションの外階段を降りていくと、その途中でコンクリートの床の上に転がっているアブラゼミの亡骸を見つけました。<なんでこんな所で、ぶざまな死に方をするんだろう>。不思議に思いながらも、3匹を拾い集めて地に埋めていたら、ふと眼がしらが熱くなりました。 

<福田とは小学校の同級生だった。学童集団疎開から戻るとすぐ、よく一緒に野球をして遊んだものだ。何もない時代でグローブもバットもボールも、すべて手作りだった。が、自由に遊べるのが嬉しく、陽が沈んでもプレーをやめなかった。しかし、それも今や遠き日の想い出。彼も、いや君も我も、アブラゼミの様にそれぞれの三日天下を謳歌した後、土に埋められていくのだ・・・・・>

そんな感傷に打ちひしがれていると、あたりまえのように伴有雄さんや楠田久泰さんの指揮で歌った「秋のピエロ」が脳裏をかすめました。「・・・月のようなる白粉の 顔が涙を流すなり。 身すぎ世すぎの是非もなく おどけたれどもわがピエロ  秋はしみじみ身に滲みて 真実なみだを流すなり。」

部屋に戻って灯りをともすと、すぐ「リレー随筆」を開き、篠原さんと山野井さんの文を再読しました。偶然ですが、このお二人には50年の隔たりがあります。篠原さんと編者は1期違いなので、お互いに共通する話題があり、気心も知りあっています。しかし、約半世紀を隔てた山野井さんと、単に同じ学校の同じクラブにいたというだけで、話が通じるだろうか。そんな懸念がありました。ところが、数回メールをやりとりするうちに、アッという間に溝は埋まり、快適なテンポで話を進めることができました。お互い顔も知らず、直接会話したこともないのに、あたかも近親者に接するような親しさを感じたのです。山野井さんたちが歌った「春に」の歌詞ではないけれど「・・・この気もちは何だろう・・・」というわけです。

篠原さんの文も、山野井さんの文も、とても気持をひきたたせてくれるものでした。もちろん、その前にいただいた川上さんの「感謝状」にも勇気を与えられました。 相手が「Fさん」で具体的な人物が分からない方も多いかと思いますが、その厳しい闘病生活を知る者にとっては、病苦を乗りこえて同期の同病の友を励ますことばに感動を覚えました。

こうして旧知の、そしてまた、未知だった友との交流ができるようになったことは、編集者冥利につきるというか、「楽友会にいてよかったなー」という想いを、新たにしてくれました。

翌朝、公園の木立では、また無数のアブラゼミが激しく鳴きたてていました。次にはつくつく法師が、さらには松虫や鈴虫が、時の音楽を受け継いでいくのでしょう。(オザサ/08年9月)


カッパ見参小笹さんから2008年6月10日に一通のメールが届きました。「All Keioの楽友会のためのホームページを立ち上げたい。ホームページ作成は、お前のお手の物だから一緒にやろう」という内容です。

10年ほど前に、私自身も同じことを考え、楽友三田会会報の編集委員に話したことがありますが、時期尚早だったのでしょうか。誰も乗ってこず、提案を引っ込めました。

忘れ去っていたところに小笹さんのメールです。小笹さんがバンドマスター役をやってくれるのです。私はアレンジャー役をすればいいのです。

7月7日七夕様の日に、ホームページ「楽友」は公開されました。バンドマスターのやりたい音楽が見えてきました。その意図を目一杯引き立てるようにアレンジを各ページに施しました。
 

今年、2008年は奇しくも慶應義塾楽友会の創立60周年に当たります。その記念すべき年に小笹さんはホームページ企画を立てたのです。カッパにはよく分かりませんが、楽友会50周年記念の演奏会がサントリーホールで開催されたのは2001年でした。何故、代表幹事会は1998年に50周年を祝わなかったのでしょう。 

話は変わりますが、最近はどこか悪いと「加齢だ」と言われます。還暦からさらに一回りを加齢したオザサが「IBMのホームページ・ビルダーを買ってきた」といいます。ワープロで手紙を書くのとはわけが違います。それを「やろう!」という無謀とも思える勇気には頭が下がる思いです。意気に感じて「何でもやれることは手伝います!」が私の返事です。

一般に、ホームページ作りなど、若い人のほうがセンスもいいし仕事も速いし、何でも上手にこなします。しかし、これは一般論であって「楽友」の立ち上げはオザサのような世代の人以外には出来ません。断言します。編集部の年寄りはだれにも真似のできないことをやります。

今考えると、小笹さんが「おい、一緒にやろう!」と言ってくるのを、私は10年間待っていたかのように思えます。ご注文があれば遠慮なく申し付けください。

そうして、今日、小笹さんの自宅を訪問し、その作業環境やソフトの様子を見て、すこし触ってきました。最新のVistaマシンがスマートにデスクの上にありました。なかなか、慣れない基本ソフトの扱いは思うようにはいきません。でも、はっきりいうとこれは駄目!大学で使い始めて捨てました。

小笹さんは、箱崎の「ジャズ天」・・・ジャズが流れている天ぷらや(つじ村)に連れて行ってくれました。サッチモの古い演奏が流れてきます。さらに、1953年のルイ・アームストロングの直筆サイン入りの額が飾ってあります。浅草国際劇場で開催されたコンサート・プログラムのサッチモの写真に、ここの親方がサインをもらってきたのだといいます。55年前のコンサートです。

右の写真はそのとき、楽屋でラーメンをすするサッチモです。親子2代のサックス奏者の芦田ヤスシさんから「ホームページで使え」ともらったものです。私は普通部の1年生のときで、このコンサートには行っていません。

そうなんです、私は飯よりズージャが好きですから「Jazz天」に連れて行ってくれたのです。そこで、サッチモのAutographを見て感激して帰ってきました。残念ながら、親方は腰痛で休みでした。親方がいたら、天ぷらなど食べている暇はありません。その時の話を直に聞きあさっていたところです

小笹さんが自分のやりたいようにHP作成ソフトを操れるようになるまで、私は「補助要員」として助けていきます。小笹さんが作り上げようとしてるホームページ楽友は生まれたばかりですが、岡田忠彦先生のお元気なうちに公開できて、本当によかったと思います。私も小笹さんに声をかけてもらってうれしいですが、先生の喜びは計り知れません。

今、入院中の杉作が早く帰ってきて、このホームページを見てくれたら立派になったのでびっくりするでしょう。私は2005年に私のジャズサイトに「杉作のうた」というページを作成しました。楽友会の大勢の人たちが心から喜んでくれました。ホームページって人を喜ばせる作用があるのです。小笹さんも大勢の楽友を喜ばせてくれました。 そこで、 カッパからも

「あ り が と う!」

小笹さんは心筋梗塞までしておきながら、タバコもアルコールも昔どおり、節制と言う2文字は見当たりません。ディーン・マーティンが死ぬ5年前に「こんな長生きするんだったら、もっと節制すればよかった」とサミー・デイビスJr.に話していたのが忘れられません。タバコをくわえウイスキーグラスを片手にショーをやっていたのです。「ほら」

6月10日以来9月3日までの3ヶ月足らずの間に、小笹さんと私は318通のメールで連絡しあっていました。そして、小笹さん宅と小生の自宅とHPサーバーとをインターネットを通じて作業をしているのです。冒頭のわたしの肖像写真は、江戸時代の初期に「ほんとにここにカッパがいた」と伝わる深川の「横十間堀川」で、小笹さんが撮影してきたものです。(わかやま/08年9月3日)


FEST