福田首相の突然の辞任表明を聞いた時、何か空しさを感じて部屋を出ました。8階からマンションの外階段を降りていくと、その途中でコンクリートの床の上に転がっているアブラゼミの亡骸を見つけました。<なんでこんな所で、ぶざまな死に方をするんだろう>。不思議に思いながらも、3匹を拾い集めて地に埋めていたら、ふと眼がしらが熱くなりました。
<福田とは小学校の同級生だった。学童集団疎開から戻るとすぐ、よく一緒に野球をして遊んだものだ。何もない時代でグローブもバットもボールも、すべて手作りだった。が、自由に遊べるのが嬉しく、陽が沈んでもプレーをやめなかった。しかし、それも今や遠き日の想い出。彼も、いや君も我も、アブラゼミの様にそれぞれの三日天下を謳歌した後、土に埋められていくのだ・・・・・>
そんな感傷に打ちひしがれていると、あたりまえのように伴有雄さんや楠田久泰さんの指揮で歌った「秋のピエロ」が脳裏をかすめました。「・・・月のようなる白粉の 顔が涙を流すなり。 身すぎ世すぎの是非もなく おどけたれどもわがピエロ 秋はしみじみ身に滲みて 真実なみだを流すなり。」
部屋に戻って灯りをともすと、すぐ「リレー随筆」を開き、篠原さんと山野井さんの文を再読しました。偶然ですが、このお二人には50年の隔たりがあります。篠原さんと編者は1期違いなので、お互いに共通する話題があり、気心も知りあっています。しかし、約半世紀を隔てた山野井さんと、単に同じ学校の同じクラブにいたというだけで、話が通じるだろうか。そんな懸念がありました。ところが、数回メールをやりとりするうちに、アッという間に溝は埋まり、快適なテンポで話を進めることができました。お互い顔も知らず、直接会話したこともないのに、あたかも近親者に接するような親しさを感じたのです。山野井さんたちが歌った「春に」の歌詞ではないけれど「・・・この気もちは何だろう・・・」というわけです。
篠原さんの文も、山野井さんの文も、とても気持をひきたたせてくれるものでした。もちろん、その前にいただいた川上さんの「感謝状」にも勇気を与えられました。 相手が「Fさん」で具体的な人物が分からない方も多いかと思いますが、その厳しい闘病生活を知る者にとっては、病苦を乗りこえて同期の同病の友を励ますことばに感動を覚えました。
こうして旧知の、そしてまた、未知だった友との交流ができるようになったことは、編集者冥利につきるというか、「楽友会にいてよかったなー」という想いを、新たにしてくれました。
翌朝、公園の木立では、また無数のアブラゼミが激しく鳴きたてていました。次にはつくつく法師が、さらには松虫や鈴虫が、時の音楽を受け継いでいくのでしょう。(オザサ/08年9月) |