自慢ではないのだが、慶応歌集の中で最もポピュラーな「若き血」は、私の在学した当時(昭和2=1927年)の予科会が制作したものだ。何人かの私のクラス・メートがこの曲のために、大活躍をしたのだった。そしてこの歌を、神宮で声の限りに歌ったら、負けていた早稲田に見事勝ったのだから、嬉しかった。
つづいて、翌年「丘の上」ができた。この曲も私には因縁が深い。「丘の上」を作曲した菅原明朗先生は、昭和2年、私が応募して入賞した作曲コンクールの審査委員であったのだ。そういう関係で、この歌を塾生に宣伝するために、菅原先生を三田の山までひっぱってきて、慶応マンドリン・クラブのための編曲を、あのきたない白亜館のルームで作っていただいたりした。その歌のできた昭和3年に、私はやっと、慶応マンドリンクラブの指揮者になったばかりだったが、お昼休みの時に、当時の大ホールで、この歌を演奏して大いに得意になっていた。 |