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追想:40回の定期演奏会

 

岡田 忠彦


第1回定期演奏会の頃
楽友会は、1948年の学制改革により創立された慶應義塾高等学校の「音楽愛好会」を母体として、1952年に誕生しました。

その「音楽愛好会」は葉山雅章、十合啓一、林光その他の諸君によって結成され, この時私は彼等に部長を依頼されて、今年(91年)度定年を迎えるまで44年間の歳月を数えるにいたりました。私の音楽生活大半がこの楽友会にあったと思います。

この創立時代の音楽愛好会から、偶然とはいえ、次々と音楽家を輩出しています。作曲の林光君、小森昭宏君、小林亜星君、フルートの峰岸壮一君、チェロの伊東毅君、その1年下からは指揮者の伴有雄君、さらにその1年下から指揮者の若杉弘君、音楽美学の中野博司君、ピアニストの舘野泉君といった錚々たる顔ぶれです。在学中はごく普通にクラブ活動を楽しんでおりました。この時代はまだ戦後の貧困な衣食住の生活ではありましたが、音楽への情熱と厳しさには格別のものがありました。

1950年に女子高校が創立され、その記念となる作品を演奏してほしいとの要望で、ハイドンのオラトリオ「天地創造」をとりあげ、その年の11月10日に読売ホールで全曲上演しました。それが塾内唯一の混声合唱団誕生の機縁となったわけですが、その練習用に男の上級生たちは全合唱曲の楽譜をガリ版刷りで仕上げて皆に配りました。この曲への彼らの情熱が偲ばれます。

その2年後の52年5月。一貫教育の利点を生かした高校と大学一体の活動を目指して「楽友会」が発足し、「音楽愛好会」は発展的に解消しました。そしてその成果を12月26日にYWCAでの第1回定期演奏会として披露したのです。初代会長には、N響の要職にあってご多忙な有馬大五郎先生に、あえてお願いしてご就任いただきました。先生は揺籃期の定期演奏会の度毎に聴きに来てくださり、学生たちに励ましの言葉をかけ、時にはN響演奏会のティケットまで配ってくださいました。一同大喜びしたものです。

音楽愛好会創立の頃から、N響演奏会には度々出演しておりました。敗戦から58年頃までの音楽学校(今の大学)の男子学生は、女子に比べはなはだ少数なため、ベートーヴェンの第九交響曲などの大合唱は男声を補充してバランスをとらなければなりません。こうした事情でN響の第九はもとより、ベートーヴェンのミサ・ソレムニス、バッハのマタイ受難曲などには、有馬先生より男声の応援依頼があり、尾高尚忠、山田一雄、クロイツァー、K. ヴェスなどの指揮するN響の演奏に出演しました。現在では全く考えられないことです。

●画期的な第4回定期演奏会
55年の第4回定期演奏会は、楽友会演奏史上、画期的演奏会といえます。

一つには、わが国初演のモーツァルトの戴冠式ミサ曲であること。

二つには、そのために皆川達夫先生(当時、高校の音楽担当講師)の監修のもとに、学生たちが対訳を作り、セノオ楽譜の協力で対訳付き楽譜を作ったこと。

三つめは、N響コンサート・マスターであった日比野愛次氏(6期の故・日比野隆哉氏厳父)をはじめ要所にN響の方々でかため、その間にワグネル・オケの学生を配し、ティンパニーは当時N響研究員であった岩城宏之氏というオーケストラの編成で、この演奏会以後メイン・ステージはオーケストラの登場ということになりました。(以下中略*1))特に、31回から第40回の定期演奏会までは、N響団友オーケストラ(代表者:西村初夫氏、佐藤誠氏)の10年間にわたるご協力により、今日に至っています。

●最も心に残る演奏会
76年、第25回定期演奏会。アントニオ・カルダーラ:聖ヨハネ・ネポムークのミサ曲こそ、最も私の心に残る演奏会でした。そのきっかけとなりましたのは、66年に何枚か購入したレコードの内の一枚で、スメタチェック指揮するチェコ・フィルハーモニー合唱団、プラハ交響楽団のレコード(フランス・シャルラン製)であす。このレコードを聴くなり、その虜となってしまいました。早速種々の出版目録を調査して楽譜を取り寄せようとしましたが、全く見当たりません。そこで、ある人を通して、チェコから楽譜原本の写しを入手するための交渉を始めました。ところが折悪しく、その頃のチェコはソ連軍の侵攻で連絡がとれなくなっており、その先10年間、この交渉は暗礁に乗り上げたままとなってしまいました。

さて、この曲について簡単に述べますと、1383年5月、プラハの宮廷と教会を護るため殉教したネポムーク神父を、ローマ教会は1714年に聖人とする旨の報を、当時ボヘミア王をもかねていたカール6世のもとに伝えました。その頃ヴェネツィアからバロック音楽の指導者として、ウィーンに招かれていたアントニオ・カルダーラにカール6世はミサ曲の作曲を命じ、それを1726年5月16日(殉教の日)プラハ聖グイ司教座聖堂における列聖式の典礼で初演しました。よく知られている「プラハの春」音楽祭の源泉は、ここにあるとの説もあります。

ところが、いつの間にかこの曲が忘れ去られてしまい、紛失したとも言われていましたが、ようやく20世紀後半の1962年、ラディスラフ・ヴァフルカ教授により、プラハの図書館の書庫にあることがつきとめられ、同教授は2年間かけて現代の書法でスコアを書きあげられて、64年スメタチェクの指揮のもとに蘇演され、それをフランスのシャルランがレコードにしたという次第です。

●ヴァフルカ教授との交流
さてソ連の侵攻により、貝のごとく堅く殻を閉じたチェコも、年月の経過と共にわが国との文化交流も再開され、プラハ駐在日本大使館の熱意とヴァフルカ教授、プラハ交響楽団のご好意により、すべての楽譜が76年5月に送り届けられました。但しコーラスの楽譜はそれぞれのパート譜で、ヴォーカルスコアーではないのです。そこで当時の学生責任者の高瀬君、金尾君達がオルガンパートを基軸としてヴォーカルスコアーを作りあげました。これは前述の「天地創造合唱譜全曲」に比肩しうる労作でした。こうして四人のソリスト、オーケストラ他この上演のためにご尽力頂いたすべての皆様のご支援により、76年12月21日、芝郵便貯金ホールにおいて、日本初演に漕ぎつけました。

この演奏会に、ヴァフルカ教授より私にメッセージが贈られました。その本文は簡潔なラテン語で次のように書かれていました。この言葉こそ、この曲を端的に物語る言葉といえましょう。

ラッパの響きは鳴りわたり、
太鼓のとどろきが相和す。
全ての世界は、平和なる民の
大いなる栄光のために歌う!

ご成功を心より祈ります。

1976年12月6日 プラハにて
ラディスラフ・ヴァフルカ

●終わりに
1965年より、大学・高校の学事日程の相違にため、それぞれ別個の活動をとっていることを付記します。

次に、第40回演奏会までご出演いただきましたソリストのお名前をかかげ、心より謝意を表します(中略*2)。本文中、有馬先生をはじめ、公私ともにご懇篤なご指導ご鞭撻を賜りました多くの方々がお亡くなりになりました。末筆ながら謹んでご冥福をお祈りいたします。

終わりに、楽友会は今日まで、ほぼ四年毎、モーツアルトの「レクィエム」を演奏してきました。どの学年も在学中に一度はこの曲の洗礼を受けておりますから、すべての会員の共通の心の歌となっています。

この伝統をいつまでも守ってください。今日までご支援を賜りましたすべての皆様に、心より御礼申しあげ、楽友会の限りない発展を祈りつつ筆を擱きます。

ありがとうございました。 


編集部注: この一文は「第40回定期演奏会プログラム(91年)」から転載したものです。
*1 この後に、演奏会毎の8団体におよぶ協演オーケストラの履歴が紹介されていますが、誌面の都合で割愛させていただきました。

*2 この後に、第40回定期演奏会迄にご出演いただいた55人の独唱者、2人のハーピスト、4人のオルガニストおよび1名のチェリストのご氏名が紹介されていますが、誌面の都合で割愛させていただきました。編者の個人的想い出では、その中から特に、大森多佳子、中沢桂、鮫島有美子(以上ソプラノ)、アルトの長野羊奈子(後の若杉弘氏令夫人)、藤田みどり、重田敦子(14期)、テノールの中村健、バスの友竹正則、若杉弘(3期。当時は声学専攻)および池田直樹といった方々の、若々しいお姿とすばらしい歌声が、強烈な印象として脳裏に刻まれています。なおチェリストの伊東毅氏は、音楽愛好会創設時貢献者(会友)のお一人で、当時は日フィルのチェロ首席奏者として活躍しておられました。


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