数年前の紀伊半島を襲った豪雨の時に、古座川が氾濫して、周囲が洪水に見舞われたときに電話をしたら、電話口では普通だったが、足が不自由で上京は無理だと言っていたので、デイケアでリハビリでもしていたのではないかと思う。
突然の報を切っ掛けに、遠い昔の回想の世界に引き込まれて懐かしい逍遥をすることになった。社会人になって、遠隔地の別の世界で長く過ごしてきたので、多くを忘却してしまっているが、それでも時には接点があって旧交を温めた。思い出すままに辿ってみたいと思う。
富田の楽友会在籍は、私より古い。パートは男声ではセカンドテノールだったが、練習にはめったに出て来ない。でも人懐こく、人には安心感を与える何でも話す、田舎人丸出しのような飾り気のない人だった。実家は林業で、大きな山持ちだったが、学生時代に父親を亡くし、長男の彼はそのころから社長であったので、キャンパスでは常に胴巻きに大金を入れて持っていたという伝説がある。
楽友会では歌声はあまりはっきりと聞かなかったが、和歌山の富田と言えば誰でも知っていた不思議な男だった。特技は手品で、マジック研究会にも入っていたらしいが、それを披露させるのもなかなかであった。腕前はといえば、大学2年(昭和32年)の夏合宿が猪苗代湖畔の天鏡閣で行われたとき、同室で見せてもらったのが初めてであった。ネタ用の道具も持って来ていたので、見せる気持ちがあったのであろう。最終日の前日の夜の懇親会で、全員にけし掛けられて、やっとカードマジックを見せたが、その後に彼のマジックを見た記憶は一切ない。マジシャンとしての矜持か根性か、種明かしなどは絶対にしないのであった。
4年生の夏、同期の中濱、谷口、福井と4人で九州旅行をして、帰途に和歌山の富田の実家に廻り、一泊させてもらった。川沿いの巨大にそそり立つ岸壁、夜の潮岬などを見て翌日は新宮から熊野川を遡り、瀞峡をめぐる観光に出かけた。当時は、船尾に巨大なプロペラがついた屋形舟で、推進はスクリューではなく、このプロペラでする。しかしこれが強烈な轟音を発し、船内ではうるさくて会話などできるものではなかったが、それだけに瀞峡の奥深く、両岸の岩と緑と静水の美しさの中でしばらく舟を止めた静けさは、また格別であったのを覚えている。また、その時に富田の母さまが、当地の名物といって、めはり寿司を握ってくださり、弁当に持たせてくださった。ご存知と思うが、めはり寿司は、海苔の代わりに、高菜の大きな葉の漬物を巻いた大きなおにぎりである。それにつけても、想えばこのようにして同期の者たちは、お互いの家庭には大変お世話になりながら育った時代であった。「遊びに来るなら寝間着と枕を持って来い」と言い合いながら友情を育んだものである。瀞のプロペラ船は、その後ウォータージェット船に代わり、昭和40年代の前半には役目を終えて廃止されたと聞く。やはり懐かしい時代の話である。
卒業後、上京の折には突然電話を掛けてきて呼び出された。東京駅の地下にレストランカフェを持っていて、そこを起点にして飲みに出かけた。そのたびに意外な状況にお目にかかる。へーあの富田がねーと驚いたのは、クラシックな社交ダンスのホールにけっこう馴染みを作っていたこと。学生時代には、学内の各サークルは部費の捻出にダンスパーティーを開催することがしばしばだったので、社交ダンスの機会はあった時代だったが、それに関する富田の話は聞いたことがなかったのである。またある時には新宿の文化村、ここは将棋愛好者が集まるバーであった。店の一角に将棋盤があり、一部の常連はそこで楽しんでいた。私もかつては将棋をやったことがあるので、上京の際、富田と私の家で将棋を指したことがあるが、何度挑戦しても勝てなかった。道理でこんなところへ出入りしているのでは、適わないはずである。
林業は1世代2世代にわたるサイクルで継続させる息の長い仕事で、現状では成長の速い外国材の価格にはとても勝ち目はないので、伐採後の再生継続は難しい。この地方では2世代後のことは考えられず、山は切り株ばかりなので、町興し策としてこの切り株を何とかする知恵はないかというので、木彫り職人を連れて和歌山へ行ったことがあった。何かこの地方独特の置物でも出来ないかということである。しかしその話は実らなかったが、雑談の中では、都会の人間には、過疎地の厳しさは分からないだろうという話を屡々していた。そのようにして林業の町の活性化に心を配り、貢献していたのであろう。十数年ほど前になるが、業界の推薦で勲5等の栄に叙された。その時には、神田の砂場に同期の男子が集まってお祝いをした。富田に会うのはその時が最後になった。いろいろと思い出を残してくれてありがとう。
電話の奥様は、声も若々しくお元気そうだった。皆さんによろしくお伝えくださいとのことだった。故人のご冥福とご家族の平安を祈る。
(2020/3/7)
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