追悼文集

故若杉 弘氏 没後10年に思う

赤松 清7


若杉 弘(1935-2009)

東京都交響楽団の定期会員として、夫婦で毎月上野の東京文化会館に出かけるのだが、9月3日の定期演奏会の曲目は、

・ベルク作曲    ヴァイオリン協奏曲
・ブルックナー作曲 交響曲第9番

であった。

ベルクは言わずと知れた12音音階を主にした作曲家だし、ブルックナーの9番はブルックナー最後の交響曲で終楽章が未完の曲である。
 

それぞれ近代の曲で、現「都響」の音楽監督である大野和土氏の指揮で演奏も素晴らしかったが、私の目を引いたのは、演奏会で配られる月刊「都響」の小雑誌である。

内容は勿論当月の演奏会のプログラムや曲目解説、ソリストの紹介が主なのだが9月はその他に「渡辺暁雄生誕100年と若杉弘没後10年」の特集記事であった。

渡辺暁雄氏の記事は省略するとして、「若杉弘没後10年」の項では若杉氏が日本の音楽界、楽壇、そして日本の交響楽団やオペラ活動に多大な影響を及ぼし貢献したかが書かれています。

若杉氏は慶應義塾高校から大学経済学部2年まで慶應にいて楽友会で活動されていたので、楽友会の同期や先輩、後輩等多くの方々に影響を与えたし、亡くなった当時、「楽友」HPでも多くの方々が追悼文等で彼の死を惜しみました。

そこで、音楽界への影響や貢献の話を「都響」の記事を参考に簡単に触れたいと思います。

若杉氏は、外交官であった父君の仕事の関係で、幼児期はニューヨークで過ごしている。
慶應義塾高校から経済学部2年まで慶應に在籍し、芸大の声楽科に進み、後に指揮科に転科している。1960年指揮科を卒業。
1963年ニューヨーク・フィルが主催したミトロプーロス国際指揮者コンクールに入賞している。
ちなみに同コンクールはクラウディオ・アバドがスニュク・コシュラーと1位を分けたそうだ。
指揮者として楽壇に認められた若杉氏は、日本楽壇が顧みなかったレパートリーに挑戦している。
「初演魔」とあだ名され、近現代の作品を多く日本初演している。
シェーンベルクの大作「グレの歌」を「読響」で1967年に日本初演している。
その他ベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」、ワーグナーの「ラインの黄金」、ヤナーチェック、Rシュトラウス、メシアン、ブーレーズ、ブリテン等多くの作曲家の日本初演を果たしている。
また新しい作品の紹介に留まらず、演奏会のプログラムにもこだわっており、「新ウィーン楽派とマーラー」、「メシアンとブルックナー」等、プログラムにストーリー性を与える等アイディア満載であった。

またオペラ指揮者として主にドイツの歌劇場で活躍し、日本では現代音楽の古典と呼ばれるオペラも日本初演している。

2007年新国立劇場オペラ芸術監督に就任して、日本人作曲家のオペラも取り上げたが健康悪化で2009年他界した。

音楽界における若杉氏の功績を紹介してきたが、私は若杉氏のもっとも得意の分野は近代および現代の作曲家の紹介であろう推察します。

それは無調音楽から12音音楽そして今後音楽はどこへ行くのか、音楽の行く末に不安を感じていたからではないでしょうか。

私は若い時、若杉弘氏の指揮で日本の現代作曲家の作品を取り上げたコンサートを聴いたことがある。

若杉氏の指揮棒は拍子を取る指揮ではなく、「眠狂四郎」の「円月殺法」のように時計の右回りの如く円を描いた指揮でびっくりしたことがある。

おそらく拍子を超越し、無限の音のつながりを円で描く指揮で表現したのだと思っている。

音楽界に与えた音楽領域の拡大という事で偉大な指揮者であったと今再認識している。

  


編集部 若杉さんが没後10年とは、時の過ぎるのの速さを感ずるばかりです。若杉さんが亡くなったのは、2009年7月21日です。確かに10年です。

赤松さんから、月刊「都響」に掲載された「渡邉暁雄と若杉 弘」のコピーがFAXで送られて来ました。そのまま「楽友」に載せることはできません。そこで、赤松さんにこの記事の紹介と感想などを書いていただきました。

若杉さんは、クラシック音楽の中心であるドイツ語圏において、コンサート指揮者・オペラ指揮者としての地位を確立されました。追記しておきます。

1977年 ケルン放送交響楽団首席指揮者就任。

その後 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、ボストン交響楽団、モントリオール交響楽団などで客演指揮。

オペラ指揮者としては、ドイツのダルムシュタット歌劇場、ドルトムント歌劇場を経てバイエルン国立歌劇場指揮者、ライン・ドイツ・オペラ音楽総監督(GMD)、ドレスデン国立歌劇場およびドレスデン・シュターツカペレ常任指揮者を歴任。

(2019/9/8・かっぱ)