我がクラスには、医学部希望だが点数が足りないと考えた者が3名いた。堀を含めて2人はオヤジがお医者様、もう一人はあの緒方洪庵の子孫だった。3人は後期に入って休学を決意し、もう1年間高校3年生をやり直すことにした。
目出度く医学部に行けたのはその3人では緒方だけだった。彼は卒業後、信州大学付属病院に勤めた。緒方は1年目のテストはすべて白紙で出していたのです。何を考えているのかと思いました。堀ともう一人は、2年目も医学部進学は難しくなったが、堀は工学部機械工学科に進学することになった。もう一人は経済学部に進んだ。
塾高1,2年でかっぱと同級だった土井章男(9期)がいる。土井は3年の時、身体検査で陽転と認定され休学し一年遅れ、堀と一緒に1960年3月に卒業した。我々は高校生の頃からポップコーラスが好きで、よく我が家や新橋の土井の家に集まり歌っていたものだ。かっぱは1年先に高校を卒業したが、大学1年をサボり留級して彼らを待った。堀と土井は大学1年になって楽友会に入った。そこに外部から入ってきた生意気な兄さんがいた。それが土居範久(9期)である。土居はかっぱと同じ管理工学科だった。楽友会に入部した土居のコーリューブンゲンはかっぱが指導した。初見で歌えないので「おい、かっぱ、一寸やってみせて」というので、仕方がなく見本を聴かせると、真似して「ソーソラソラシドーレミ・・・」だった。耳から聞いて覚えてしまう術を使ったのだった。
そんな4人がボーカル・カルテットを組んだ。楽友会の合宿はもちろん、クリスマスや卒業生追い出し会他のパーティではよく歌わされたものだ。それぞれの結婚披露宴では4人でジャズコーラスを出し物にした。しかし、子供が生まれたり、海外に赴任したりで30歳を境にカルテットは消えた。
というわけで、堀 佳一を楽友会に引き入れたのはかっぱだったのです。工学部キャンパスは武蔵小金井ですから練習には出られません。それでも卒業するまで楽友会のメンバーでした。
下は4年最後の定演の写真です。シューベルトのEs
dur(若杉 弘先輩指揮)の年でした。歌わない土居、堀、かっぱには花束は無し。ステマネで裏方のお手伝いでした。
堀は昨年初めから脳梗塞の為に車椅子生活を余儀なくされ、一時は武蔵小金井のリハビリ施設に入っていました。その後は、自宅に戻ったのですが、楽友会の行事には出られなくなりました。今年の初めに1回目の大動脈剥離を起こし手術後静養していましたが、最近、動脈瘤破裂それも乗り越えたのですが肺炎を起こし亡くなりました。そんな状態の中でも家の中で一生懸命に杖で歩く練習も怠らなかったと奥様、豊子さんの話です。
今日の昼前に堀の弟、堀 保夫からの訃報の電話です。
「兄貴が、今日の午前2時29分に亡くなりました」
今週の12、13日(木・金)に桐ケ谷斎場で通夜・告別式の葬儀があります。
丸60年仲良くしてきた親友、堀 佳一を失いました。R.I.P.
(2018/7/9・同級生につき呼び捨て敬称略)
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