追悼文集

昔の「津村重人」

若山 邦紘(9期)


津村重人(9期)

「津村重人」という珍しい性格の男がいた。高校からの楽友会人間だった。ご覧の通りのハンサムボーイだったのだが、大学を卒業してから楽友会関連の集まりに顔を出していない。その津村が、4年前2013年6月26日に大腸がんのため亡くなってしまった。

訃報をくれたのは高校楽友会時代からの同期で、卒業後も同じ日本ユニバックに就職したN.O.である。最後までO.は津村と付き合っていたはずだ。私は「楽友」編集部としてO.に「津村の追悼文」を書くように頼んだ。快諾した。彼以外に追悼文を書くにふさわしい人間はいない。

仕事が忙しいことは分かっている。頻繁に海外出張していることも分かっている。しかし、津村の想い出を書く時間がないとは言わせない。あんなに仲良くしてきたのに、3年も放っておいて「おれは書かない!」と断ってきた。

「仕方がないか」と私も放っておいた。が、津村の顔が浮かんでくる。わたしが最後に津村と会ったのは1984年3月、9期の大学卒業20周年の同期会のときである。その後、33年も会っていない。消息も分からない。
  

津村が高校生時代、津村家は目黒東山のお屋敷に住んでいた。そこに楽友会の仲間でシーズン・シーズンに集まって遊ぶのが恒例だったが、彼の同期の者は1人もいない。津村の1年上、2年上の者と遊ぶのが好きで、琢ちゃん、ヨっちゃん、ノモチン、ミケ、オサヨ、あっちゃん、村っちゃん、けっけ、かっぱなんていう顔ぶれだ。津村の同学年の楽友会の者と一緒になったことが一度もなかった。年上の兄さん、姉さんと遊ぶ実に不思議な男だった。そして、ご両親には本当にお世話になったものだ。

ご両親も、そのスタイルが当たり前になっていて、一緒に飲み食いをして、社交ダンスの練習をしたり、最後は麻雀が始まるのが常だった。ギターを弾きながらポピュラーソングを歌うのが好きだった。

卒業後は、コンピューターの日本ユニバックに入社し、大手町の物産ビル内に本社があったが、赤坂福吉町の丘の上に本社ビルが出来て移転した。その後、孫 正義のソフトバンクに転職したことは知っている。

われわれの時代は卒業しても楽友三田会は存在していなかった。楽友会OB/OG組織が出来てクリスマス会だったか新年会だったかを始めたのは1966年(昭和41年)ころだったか。定かではないが、五反田TOCのホールに集まったのを記憶しているが、その頃に津村が参加してきたかどうか憶えていない。古写真を見る限り津村の顔がない。

それが、1984年に卒業20周年の同期会が上野の花山亭で開催されたが、そこには津村が参加している。その後は同期の集まりの写真の中に彼の顔は見られない。

手許にある1998年の名簿には住所不明となっている。2002年の名簿には「津村重人」の名前は削除されている。おそらく脱会扱いになっているのだろう。

古い写真から津村が写っているものを探し出した。津村をご存知の楽友には、この写真を眺めて彼のことを想い出してやってください。(2017/11/1・わかやま) 

  


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夏合宿


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6期生追い出し会


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最後の第12回定期演奏会(↑クリックで拡大)


9期卒業20周年同期会


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