私達共通の楽しみである合唱も続けて、毎年のコーロの榛名演奏旅行にも参加出来ていました。打ち上げの久呂保温泉では、男性全員で君を担いでお風呂に入り、君の裸に群がって、シャンプーと石鹸で全身を泡だらけにしましたね。その挙句に、大マグロになった様な君を担いで、お風呂の中に、ドボンと放り込む事が、この旅行の大事な行事にまでなっていました。あの時の君は、半泣きの笑顔で何度も「もう止めろよ」と怒鳴っていたけど、半分は「止めるなよ」と言いたげな顔で、とても幸せそうでした。同じ事を、私達2夫婦で行ったハワイ旅行でやろうとしたら、周りのアメリカ人の女性連が、優しく君の体に手をかしてくれて、どうも君はそちらの方が、荒っぽい男仲間の扱いよりも、もっと嬉しそうで、少しばかり、男同士の友情にひびが入りました。
未だ、君が元気だったころは、コーロの母体となった、スコラの合唱団を、今日も来ている5人の仲間で立ち上げて、折々の季節の呑み会を、ビア・アーベントと称して、洋子さんの大活躍の下、君の家で楽しく長い夜を、過ごしました。
あのような、平穏な普段の生活が続くと思っていたら、8年前、スコラの練習で気分が悪くなり、2度目のクモ膜下出血がありました。丁度、練習の休憩時間だったので、手際よく救急搬送が出来て、この時も、大手術を頑張り通して、無事、家に戻る事ができました。さすがに、2度目の後は強気の君達も、多少は控えめな生活を、と考えた様でした。とはいえ、永年続いてきた仲間同士の付き合いに変わる事はなく、合唱の練習見学をした後は、必ず呑み会に出席して、真っ先に自分の好きな食べ物に手を出して、皆の顰蹙をかっていました。
年に何回かは、2夫婦で小旅行もできていましたが、君の衰弱が目に見えて進んでしまい、最後の住まいとなった蒲田の介護ホームに入ってからは、楽しい時間を一緒に過ごす機会も少なくなりました。この間、16年間に亘り、君の看病と介護をしてきた最愛で最強のパートナー、洋子さんは、常に明るく、前向きに、変わらぬ愛情とパワーで、君を支え続けてくれました。
思えば、君と僕とは、大学の楽友会に入会した18歳の頃からの付き合い、洋子さんはその1年後に入会して来て、淑子はその又1年後、2夫婦の間で、全員が50年を超す、濃密な交友を続けてこられた事について、心から感謝しています。
楽友三田会が出来た頃 伴有雄さん(1期)もお若い
第46回東京都合唱祭 1992
君の穏やかで優しい性格は、私達夫婦だけではなく、周りの多くの合唱や慶応の仲間、麻布のラグビー仲間、教会の仲間、その他、君と関わった大勢の仲間達から人望と尊敬を集めていました。加えて、社会人・経営者としても、立派な人生でした。思うに任せなかった経営環境の激変の中、親子2代で心血を注いだ、みくに製菓を廃業するという、苦渋の英断を行い、自分の愛した事業を粛々と閉鎖するという苦労を、立派にやりとげられました。その過程で、会社が無くなる社員の転職に、何よりも一番頭を悩まして、苦労していた様子には、心から頭がさがりました。普段の穏やかで幸せそうな様子からは想像出来なかった、君の深い哀しみと、社員に対する深い愛情を思い、私まで粛然とさせられました。
泰雄さん、君は16年間、立派に病気と闘って、生き抜かれました。73年の豊かな人生を、周りの皆を愛し、愛されて、生き抜かれました。素晴らしい奥さんと、3人の子供達、4人の孫たちに恵まれ、君達2人から、輝かしい未来を築く、頼もしい若い命と精神が生まれました。もう充分頑張りました。この後は、天国で神さまから「ご苦労様」と、やさしい労いのご褒美を頂きましょう。安心して、お休み下さい。君が下さった、愛情と不屈の魂、そして、「もう止めろよ」という、あの嬉しそうな半泣き顔も、永遠に私達の心に残っています。有難うございました。そして、お休みなさい。
平成28年11月15日
友人代表
池田龍亮
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