追悼文集

楽友会の誕生と岡田先生ご夫妻

長谷川洋也(1期)

撮影:橋本 曜(1期)

 私が塾高3年生の確か初秋(1951年)。いつも通り校舎2階の音楽教員室の一画にある音楽愛好会員のたまり場で、仲間たちとガヤガヤ騒いでいたところ、岡田先生が自席から皆を呼ばれ、次のようにおっしゃった。

「音楽愛好会を大学生になっても、そのまま続けられる混声合唱団にしたいと思うがどうか」

実は私は大学進学を間近にして、入りたい混声合唱団が大学にはなく、ワグネルは愛好会と方向性が違うし、どうしようかと迷っているところだった。そこに先生からのこのご提案。<渡りに船!>とばかりに皆と一緒にすぐ賛成し、話はアッという間に決まった。すると先生は「合唱団の名前は『ウィーン楽友協会』にちなんで『楽友会』としたいがどうか」といわれた。忘れもしない!音楽愛好会が楽友会に脱皮した瞬間である。
 

 男子高校と女子高校、それに大学生も加えて一つの混声合唱にする。合宿も一緒に行うという事、それは岡田先生のリーダーシップをもってしても単独では実現が難しかったことだろう。おそらくは当時の初代女子高校長:中村 精先生の強力なバックアップがあってのことだったと思っている。 岡田先生の音楽歴は、福山市の旧藩校・福山誠之館中学に在学中、ブラスバンドの指揮を務めたことにルーツがある。以来音楽にのめりこみ、独学でピアノを始めた。駅前の楽器屋さんの好意で、お店のピアノで練習を続けることができた。本人のお人柄のせいか、その後先生は不思議なほど良い人たちとの出会いに恵まれた。ご親戚がピアノを貸してくださることになったり、音大を目指して上京した際は作曲家の成田為三先生に師事できたりし、成田先生の没後は岡本敏明先生のもと、国立音楽大学にトップで入学し、有馬大五郎先生の知遇を得たこと。卒業時は慶應義塾高等学校の設立と重なり、設立準備委員長のお嬢さんが先生の音大の後輩と知り合いだった関係で紹介され、音楽教師への願書を出したら合格した等の幸運が重なり、そして、極め付きには謎のお嫁さん、茂子夫人との出会いがあったのである。


岡田先生ご夫妻(2014/11)

 お二人はお見合いだから特にドラマはないが、私にとって奥様は長い間謎の女性だった。 尾道市とはいえ田舎から上京してきた女性でしょ。こっちは生意気盛りの大学生。ところが話がかみ合う。バッハだ、モーツァルトだと言っても相手はびくともしない。会話が進んでいく。この女性、そも何ものなりや、と思ったけど先生の前でそんな失礼なことは聞けない。先生が亡くなられてから奥様に疑問をぶつけ、やっと多年の謎が氷解した次第です。 奥様はご母堂の影響で、若くから羽仁もと子先生の自由学園に入学したいと強く望まれ、キリスト教に入信し、洗礼も受けて時を待っていらした。戦後、学校が再開されるとすぐ、満員列車を乗り継いで上京し、寮に入って学ばれた由。自由学園は生徒が卒業後どの道に入っても対応できるよう、料理・裁縫はもとより、絵画・文学等に一流の講師を配しており、奥様は音楽も学ばれた。こっちは趣味のコーラス、敵は学問としての音楽、おまけにクリスチャンときては、これは駄目・ギブアップせざるを得なかった、というわけでした。

 奥様は卒業後帰郷。やること無いから家事手伝い。しかし、機会があれば上京したいと思っていらした。片や岡田先生、春休みに実家に帰り、東京に来てくれる嫁さん探し。岡田家と奥様の実家・内海家は共に旧家だし、父親が同じ高校出身、おまけに幸運を背負った岡田先生の事である。皆さんご存知のメデタシ、メデタシと相成りました。先生!本当によかったですね!!長い間、本当にお世話になり、ありがとうございました!!!

(2016年6月)