追悼文集

金井 宏君への追悼文


山内 彦太(9
期)


軽井沢バロック山荘建設予定地にて・・・30歳のプロジェクト
藤吉憲太郎    大野 洋    金井 宏

  

昨年10月6日に朋友藤吉を亡くしたのに続き、今度は55年間兄弟以上の付き合いをしていた金井を失った。10月4日の夕食時に金井の娘婿さんから電話があり、金井が2011年10月3日午後5時49分に亡くなったとの訃報を聞かされた瞬間、絶句してしまった。

ここ1年以上、色々メールを出したり電話をしたりしたが、全く返事もなく連絡が取れない状態だったので、「もしかしたら体調を崩して今は人に会うのがつらいのではないか」と憶測していたが、正に真実であり最悪の結果となってしまった。

金井とは塾高時代音楽愛好会(現在の楽友会)で知り合い、大野・金井・中村脩・私でクァルテットを組んで日吉祭での音楽喫茶などで歌った仲間である。彼は甘いマスクにも拘わらず、思ったことはズバズバと言い、実行していくタイプの好男子であった。楽友会では渉外として活躍し、具体的なことはこの場では差し控えるとして、楽友会の従来の慣例を覆すようなことを成し遂げた男であった。私は彼のそうした実践能力に強く感銘を受け、大学時代も大変親しい付き合いをさせていただき、毎年彼と一週間くらいの旅行をしていた。

特に印象に残っているのは、1年の時に能登半島の曽々木海岸で海岸線のトンネルを歩いている時、突然近くで発破をかけられ慌ててトンネルから脱出したことや、卒業旅行を称して、4年の11月、お互いにゼミでの卒論発表を終えてから九州一周の旅である。この時は熊本県杖立温泉での国民宿舎以外はすべてユースホステルを利用した。熊本市内では「少年の家」と言うユースホステルに泊まったが、そこは寺でペアレントは坊さん、宿泊費は素泊まり30円という極安の所であった。夜、坊さんの講和をいやいやながら聴き、いざ寝ようとしたら、与えられた夜具は何と座布団7枚のみ、いくら九州と言っても11月下旬の熊本は冷えて寒く、とても座布団7枚だけでは広い寺の部屋では寝られたものではなく、2人ともほぼ夜を徹して起きており、翌朝坊さんが起きてきたと同時に退去した次第。阿蘇の大観望ではバスに乗り遅れ、仕方なく内牧温泉まで山を歩いて下りる始末。その晩は別府のユースホステルに予約していたのでそこまで行ったが、着いたのは門限の10時をはるかに過ぎ、ペアレントにこっぴどく怒られたことが良き思い出となっている。

卒業後も東京バロックコーラスで一緒に合唱を楽しんだり、お互いが時期こそ違うものの海外駐在や頻繁に海外出張をしていた関係上、行く先々で良く会っていた。寧ろ、二人とも日本国内に落ち着いた後の方が会っていなかったであろう。

大学を卒業する時、以前「楽友」リレー随筆コーナーで「音楽愛好会・楽友会そして軽井沢バロック山荘のこと」と言う題で投稿した折に記したが、30歳になったら何かやろうということで、現在私が居住している場所に「バロック山荘」を建てた訳だが、金井はその推進役の一人である。建設の計画から地鎮祭・竣工まで中心となってやってくれたのが大野・藤吉・金井の3名である。大野は約20年前に故人となり、藤吉は冒頭でも述べたが昨年故人となり、そして金井も他界。何ということであろうか。しかも、金井の通夜の日は藤吉の命日(一周忌)ということで、これも何かの因縁のような気がする。

大野は7月25日に、藤吉は今月の24日に、金井は9月5日に70歳になったばかりである。今年は皆70歳になる年であった。30歳を期して「何か成し遂げよう」と約束したが、70歳になったらあの世で会おうなどと約束した覚えはないのに......

金井のために一つだけ良いことをしたと思う。それは、楽友三田会合唱団が一昨年11月の演奏会で、我々が大学4年の時に共立講堂で若杉弘先輩の指揮で歌ったシューベルトのEs Durミサ曲をやるということだったので、彼に一緒に歌おうと言って強引に引きずりこんだことである。彼との合唱を通じての付き合いの最後のステージであった。また彼にとっても学生時代から愛し続けていた楽友会最後の舞台でもあった。その後、体調を崩して10月3日を迎えてしまった。私が心残りに思うことは彼がこんなことになろうとは思いもよらなかったので、連絡がつかないまま放っておいて彼を失ってしまったが、今となってみれば彼の家を訪ね見舞ってやるべきであったと後悔していることである。

合掌

(2011/10/7)

  


編集部大野は指揮者の道半ばにして1992年8月に早世した。藤吉は2010年10月に急いで逝ってしまった。モーリと「100まで生きよう」と約束していたくせに。そうしたら、金井の訃報が飛び込んできた。

山内の送ってくれた追悼文の原稿を読みながら、また掲載しながら、涙がこぼれてくる。

5年ほど前のことである。金井は私のフランチャイズ、赤坂のリトル・マヌエラにジャズ・ボーカルの練習に通いだした。小川理子という塾の電気工学科から松下電器に勤め、その傍らジャズピアノと弾き語りを会社公認で音楽活動するという、20年ほど後輩が金井をマヌエラの店主、中田に紹介したのだという。毎週、水曜日の午後3時から4時頃まで中田のピアノで本気になってジャズ・スタンダードをおさらいしていた。

金井は私には内緒でマヌエラに通っていたのだが、店主が私に「BSの金井さんが来ています」とばらしてしまった。それで、金井に会いに出かけた。マヌエラの客は夜な夜な半分酔っ払ってジャズをうなる人がほとんどといってよい。だから、金井は我々のように遊びに来ているのではない、ちゃんとレッスンの積もりで来ていたのだが、パーティなどでも歌うことなく、1年ほどしていつしか来なくなってしまった。

「ちゃんとしたジャズ・ライブがやれるようになりたい」が金井の目標だったのだ。「必要なら、日本一の先生をいつでも紹介するからな」と話していたのだが、そうなる前に身体の具合が悪くなったのであろう。私は金井が怖い病気だったことをまったく知らなかった。

あの世でマヌエラで仕込んだ歌を藤吉とデュエットで歌うに決まっている。大野がそれを聴いてゲラゲラ笑うだろう。(2011/10/7カッパ)


土井章  池田龍  金井  若山

昔の写真をほじくり出したらこんなのがあった。八ヶ岳清泉寮での合宿での余興。記憶にありませんが記録には残っているのです。このカルテットにはバリトンもバスもいません。金井がバリトン、私がバスを歌っているはずです。でも、何を歌っているのじゃろう。(10月31日)