追悼文集

畑(旧姓 泉)喜美子さんのこと

日高 啓子(15期)

畑 喜美子さん

姫路で生まれ育ち、現役時代はソプラノ・副幹事長として活躍。学生時代には奈良・高山など一緒に旅行しました。

50歳を前に、懐かしい思い出がたくさんある清里の清泉寮での同期会を予定していた1997年7月に、「喜美子さんが脳幹出血で倒れ意識不明」の連絡を受け、同期会は中止。意識不明の状況が2ヶ月ほど続いた後奇跡的に意識が戻り、体の障害は残ったものの頭はしっかりしていました。

7ヶ月の入院中リハビリに励みましたが、左半身に色々な障害が残ったまま退院。横浜市青葉台のご自宅での車椅子での生活が始まりました。二人のお嬢さんはまだ小学生。住み込みのお手伝いさんはいたものの、ご主人様のご苦労は大変なものでしたが、いつも明るく前向きに頼もしく喜美子さんを支えていらっしゃいました。
 

1999年、ご自宅に伺った時、喜美子さんが「楽友三田会合唱団で今何を歌っているの?」「聴きに行きたいなー」とおっしゃいました。定演のチラシができ、ホールが車椅子対応になっているかを確認後、ご主人様に電話。「ぜひ誘ってやってください」というお返事でチラシを送りお誘いしました。喜美子さんは「行きたい」とおっしゃり、「何を着ていこうか」「美容院に行きたい」と前向きになり、初めて外へ出るようになったと伺いました。

演奏会当日、車椅子で、後遺症のためにゆがんだ顔の目には眼帯をかけ、涎掛けをした姿で、同期の私たちに花束を持ってきてくださいました。障害にめげず前向きに進もうとしている喜美子さんの姿に、私たちが感激。頑張らねばと思いました。

リハビリのためにと発声の個人レッスンを受けたり、1998年12月から亡くなられるすぐ前まで短歌を作られ、同人誌に投稿したりしていらっしゃいました。体が不自由な分感性を働かせ、心に沁みる良い歌をたくさん作られました。

2001年の楽友会50周年記念演奏会で「モーツァルトのレクイエム」を歌うという企画を知った時、喜美子さんが「私も歌いたい」とおっしゃいました。実行委員でいらした筑紫武晴先輩に相談。「特別扱いで責任をもって預かる。一緒に歌おう」という快諾で、サントリーホールの舞台に車椅子で登壇し、一緒に歌うことができました。練習にも車椅子で参加され、皆様の協力で実現した晴れの舞台。感激の思い出です。

その後、2003年11月にくも膜下出血で倒れましたが、4ヶ月の入院で復帰。とはいえ腎臓結石をしたり色々な病気で時々入院を繰り返したりしながらも、優しいご主人様の介護で幸せに暮らし、2008年には今後の暮らしを考え、横浜市青葉台から千葉県一宮の海に近いのどかな環境へ移転。車椅子での生活がしやすい素敵な明るいお家での、ご主人と二人での生活が始まりました。

2009年11月に同期の仲間たちで訪問し、広いお庭でバーベキューをしたり(喜美子さんは健啖家でした)、皆で歌ったりして本当に楽しいひと時を過ごし、私たち仲間にとても良い思い出を残してくれました。

2010年5月31日、腎盂炎で入院していた病院で誤嚥性肺炎を起こし、突然亡くなられてしまいました。それまでにいくつもの重病を乗り越え、優しいご主人様との新しい生活のペースができて来ていた時でしたのに、残念です。ご葬儀では、ご主人様の希望で楽友会の仲間で塾歌を歌い、出棺の時には(お坊様の前ではありましたが)「神共にいまして・・」を歌ってお送りしました。

音楽を愛し、楽友会を大切に思っていた喜美子さんですので、喜んで聴いてくださった事と信じています。 (2011/4/7)

― 生きかえり 人の手を借り長らえる 私に返せるものを探しぬ(2003年10月)
― 曇り日が 続く狭間の日差し浴び 渚はさやか 車いす押す(2008年2月)
畑 喜美子 詠む