追悼文集

谷口博子さんとの50年


粟根 潤子(9期)


谷口博子さん
9期伊豆旅行(2008/3/2)

2010年5月20日の夜、私はあるコンサートに行っていました。その会場で耳からは音楽が入ってきても、頭の中はなぜか谷口さんのことばかりが浮かんできました。不思議に思いながら帰ってきました。そして翌朝、お嬢さんの京子さんから電話で、

「母がお世話になりました」

「えっ、なりましたということは?」

「はい、昨晩亡くなりました」

本当にびっくりしました。そして悲しい知らせでした。

谷口さんとのお付き合いのはじまりは、1960年、楽友会に入会して同じアルトで歌い始めた時からでした。練習や合宿、演奏旅行など一緒に活動するのと共に、2年生になると美学のクラスでも一緒になって、そちらでのお付き合いもずっと続きました。

卒業後の彼女は、すぐに結婚して京都に行かれましたので、なかなか会う機会がなくなりましたが、かわりに文通が続きました。その結婚に際しては、ご主人がカトリック信者でしたので、勉強をして彼女も信者になられました。

結婚生活はご主人のご家族と同居でしたが、お嫁さんとして立派につとめられていました。ちょうどその頃、東京オリンピックがあり、2人ともそれまで見たこともなかった「重量挙げ」の競技の話題で盛り上がったのも懐かしい思い出です。

お嬢さんの京子さんと私の長女が1日違いで生まれ(1967年3月25日と26日)、節目、節目で同じ体験をしてきました。

楽友三田会合唱団の練習にも参加されるようになり、また近いお付き合いになりました。地元の女声合唱団でも活躍されていました。

一方、ご家庭の中ではお嬢さん、そして2人のお孫さんを大事にされ、上海在住だったお孫さんのバレエの発表会をご主人と観に行かれたり、入学式に出席したりと本当に楽しそうでした。

ご主人の長い闘病生活(白血病)を支えて頑張られ、多分辛いこともたくさんあったと思いますが、私達にはそういう素振りは見せられませんでした。そして、ご主人を見送られて数年が経ち、京子さん一家がお住まいの横浜に引っ越して、これからという時に病魔に侵されました。2009年7月、体調の変化を感じられ、いろいろ検査をしても原因がわからなかったそうですが、インターネットで調べ、「多分、膵臓がんだと思う。それしか考えられない」と仰っていました。9月になって病名が確定した後で、彼女の言葉が忘れられません。

「どうしても生きたいから、できる限りの治療は挑戦して受けるつもり。主人も、後の人のために参考になるように、そういう考えで、できる限りの治療を受けて病気と闘ってきたので、私もそうするの」・・取り乱すことなく冷静に言っていました。

「けれど、今年の定演のステージにはのりたかった。体調がよくなったら、すぐにでも練習に出て出演できるように8月には『Es Dur』も『良寛相聞』も暗譜したのよ。本当に悔しい」

最後に谷口さんに会ったのは、2009年12月7日、定演のCDとDVDを9期のメンバーからのプレゼントとして、持ってお宅に伺い、お渡ししたら、とても喜んで下さり、お嬢さんの家で見ると言って下さいました。その時は多少やせてはいましたが、顔色もよくクリスマスの飾りがいっぱいのお部屋で楽しくお話してきました。

谷口さんは文章を書くことが好きで、新聞の投書欄に掲載されたこともありました。この追悼文も彼女に書いていただきたいと思うのですが、それは叶いませんので、50年のお付き合いを思い出しお人柄を偲びながら書かせていただきました。
                                          粟根潤子(2011/2/19)