若杉弘君と楽友会
岡 田 忠 彦(元慶應義塾高等学校教諭、楽友会名誉指揮者、名誉会長)
この7月、慶應の楽友会から巣立った我が国を代表する指揮者、若杉弘君が逝かれた。大変悲しいことである。
昭和23年、まだ三の橋仮校舎に新設の慶應高校が誕生して間もない頃、私はこの高校に音楽の教師として赴任した。そしてすぐに楽友会の前身となる「音楽愛好会」が林光君(作曲家)や峰岸壮一君(フルート奏者)らの大変な熱意により発足、私は部長に就かされた。他に小林亜星君(作曲家)や安東伸介君(元慶應義塾大学文学部教授、故人)、小森昭宏君(作曲家)など、初期の音楽愛好会、楽友会のメンバーには多彩なメンバーが並ぶが、そのようななか、第3期のメンバーとして若杉君が入ってきた。
若杉君は小柄でどちらかといえば目立たない子だったように思う。が、飲み込みが早く、一度聞けば4声の流れなどもすぐに覚えてしまうといった風で、同輩の友達からもその才能を認められていた。私の目からみても、その感受性の豊かさは抜群だった。しかも練習熱心でコツコツとよくやる。とにかく音楽が好きという印象だった。
その頃のことを若杉君自身が書いた文章が残されている。
「まだ天現寺の幼稚舎に通っているころから音楽が好きで、ボーイ・ソプラノをはりあげてコーラスをしていた私は、高校に進学するや、入学式の日に、もう楽友会のメンバーになっていました。始めての練習は、たしか<モーツアルトのレクイエム>だったと思いますが、生れてはじめて、こうした名曲を歌える嬉しさにすっかり興奮して、家に帰っても、
一晩眠れなかったものでした。
今から思えば、楽友会で音楽にふれあった時期が私の音楽生活の第一期にあたるようです。バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ハイドンなど、巨匠達の名作にじかに親しめたことが、今日の私にどれほど血となり、肉になっているかしれません。」(昭和38年、楽友会第12回定期演奏会プログラムより)
まるで若き日の若杉君の姿が目の前に見えるようである。
高校時代の若杉君はバレエもとても好きだったことを思い出す。バレエの体の動きに関心があったようで、合宿などで<白鳥の湖>などを披露するのだが、それがとても上手かった。
高校卒業後、若杉君は経済学部に進学するも、音楽への道を目指す心己みがたく藝大へと進む。この藝大受験(当初は声楽科)のとき、家族に大反対された若杉君は私のところに相談に来た。私は即座に是非行きなさいと勧め、それで彼も吹っ切れたようだつた。
藝大の途中から指揮科へ転向、卒業後は指揮者の道を歩み始め、時々楽友会でも振ってもらったりしていたが、やがてその活躍ぶりに拍車がかかるようになった。60歳を日前にしてNHK交響楽団の常任指揮者となるが、そのとき彼からもらった手紙がある。
「先生憶えておいででしょうか、ぼくが高校1年生のとき、N響にマルチノンさん(ジャン・マルティノン、フランスの世界的指揮者)が初来日され、日比谷公会堂の定期を聴いて来られて、どんなにスバラシかったかをぼく達に話して下さった時のことを・・・・・! 今でも、あの教室での感動を忘れられません! そこで来年4月の曲目は、そのときのままドビュッシー<牧神の午後>、ラヴェル<スペイン狂詩曲>、ベルリオーズ<幻想交響曲>と致しました!……」。(N響の指揮者就任の慶びの書面の一部)
40年以上も前に私が教室で語った指揮者の話をこんなにも深く受け止めて、それを再現してくれようとは! 若杉君の感受性の豊かさを表すエピソードに思える。
オーストリアのザルツブルグ音楽祭に行ったとき、ふいに当時ケルンから若杉君が訪ねてきてくれたことがある。理由を聞けば、カラヤンのオーケストラ・リハーサルを見学のために来たとのことだった。
若杉君の急逝は、楽友会はもとより、日本の音楽界の多大な損失となった。今は、天国で素晴らしい音楽を奏でられておられることでしょう。ご霊魂の永遠のご安息を、心よりお祈り申し上げるのみである。
(「三田評論」09年11月号より
、塾広報室の許可を得て転載)
注A参照 |