ある晴れた日曜日に、私達は千駄ヶ谷にある声楽家の中山悌一氏のお宅をお訪ねしました。駅を降り、青々とした銀杏の並木を通り抜けて右に曲がると、東京の真中にしてはめずらしい環境の静かな所に、瀟洒な近代的な住宅が並んでいます。5月の快い風にのって、その中の一つからピアノの音が聞こえてきました。私達は中山氏の応接間に通されて、次のようなお話を伺いました。
私がどのようにして音楽家になったか、いや音楽の道を選んだかについて話しましょう。どうしても話が声楽の方に偏りますが、何か皆さんの参考になれば幸いだと思います。
ピアノやヴァイオリンのような楽器は、いわゆる素質さえあれば後天的に色々なテクニック等を身につけていく事ができるのですが、声楽においては先天的なものが大部分を支配しているのです。立派な体格、いい声帯をもたなければ、後からいくら勉強し、練習しても本当にいい声楽家にはなれないのです。体格・声帯の他にもう一つ顔の構造も大切です。声の共鳴体は顔の下部です。
私はその点、地方の田舎に生まれ育ったことを幸せだと思っています。又私は、私の父母が謡曲をやっていましたので大変いい声の持ち主だったのです。その父母の共鳴機構を受け継いできたので、声楽家として先天的に恵まれていたわけです。しかしいくらいい素質をもっていても、音楽を愛好するものが家族の内で自分一人というのではだめです。そういう人はいくら優れていても立派な音楽家にはなれません。その点も私は恵まれていたのです。家族全体何もうまいわけではありませんが、皆音楽を愛していてよく合唱等をしていたものです。しかしその時はまだ私が小さかったもので、ピアノはいつも弾いていましたが、歌の方は歌わないで兄たちの歌うのをよく聞いていました。又兄弟や親類が離ればなれになっても1年に2、3回会う時には皆で合唱をしたものです。
それは何も難しい曲ではなく、ごくありふれた曲ですが、私達はそれだけで無上の喜びを感じていました。
家庭の内での合唱、それが音楽の本当の喜びではないでしょうか。ロシア人は2、3人集まればすぐ歌いだします。何と楽しいことでしょう。
家庭の中に音楽的雰囲気が満ちている時、その中から自然にそれを専門とするものが出て、それでこそ、ほんとうに伸びる音楽家となるのです。
ここで私があなた方にいいたいのは、学校でコーラスをするだけでなく、家庭にそれをもちこみ、貴方の家庭にもそういった雰囲気を作ることです。やがてあなた方が親となり子をもって、その子供達をこのような雰囲気の中で育てたらどんなに幸福でしょう。
あなた方は誰かが歌いだしたメロディーに、勝手にハーモニーをつけて合わせたことがありますか。もしなかったらやってごらんなさい。始めはなかなかうまくいきませんが、だんだん上手になり、上手になると面白いものですよ。
都会で育った人はいわゆる頭でっかちが多いのです。それは都会ではいろいろな書物を読むことができ、音楽会でもいつでも聞ける環境にいるのでしかたがないのですが、シューベルトが「聴けきけ雲雀」を居酒屋のメニューに書いたとか、ベートーヴェンの死ぬ前に雷が鳴ったとか、そんなことを知っていても本当の音楽とはいわれません。私など田舎でレコードを買えばただむさぼるように聞いただけで、それがいい曲だの悪い曲だのという批評はしませんでした。ただそのレコードを聞いて楽しんでいたのです。
知識からの音楽は真の音楽ではなく、それを歌い、それを聞いて得る喜び、それ自身が真の音楽といえるでしょう。
皆さんどうか、家庭で、学校で、いやどこででも大いに歌い、真の音楽の喜びを理解してください。(蔵重・若杉編)
編者注:この文は「楽友」(新)第2号(1951年8月25日発行)からの転載です。今日の朝日新聞・朝刊(2009年10月1日)を読んで急きょ転記しました。
中山悌一さんと楽友会に、直接の関係はありません。が、先日亡くなられた若杉弘さんが普通部時代から心酔しておられた名歌手で、編者などもその影響を受け、随分とそのリサイタルに通ったりしてシューベルトの歌曲に、共に耽溺したものでした。若杉さんと踵を接するかのような訃報に接し<ああ、一つの時代が去ったのだな>と痛切な寂しさを感ぜざるを得ませんでした。
この訪問記を記した頃の若き日の若杉弘さん(3期)の興奮した口調や、「冬の旅」を重厚に歌いきった中山先生の謹厳な面持ちが、いきいきと脳裏に甦ってきます。しかし今の私には、それ等の思い出を胸に「冬の旅」冒頭の“Gute
Nacht”をつぶやくことしかできません。ただひたすらに、お2人のご冥福を祈ります。
なお、次もこの号に併載された玉稿です。おそらくこの号の編集委員の一人だった蔵重久雄さん(2期)と同行の若杉さんが、中山家訪問の際ご寄稿をお願いし、叶えられたものでしょう。今となっては、先生の隠れた一面を知ることのできる、とても貴重な一文です。
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