追悼文集
若杉 弘「先輩」の思い出

小林  章(10期)

7月22日の日経朝刊を見て「アッ」と声を出してしまった。あの若杉「先輩」が、多臓器不全のためご逝去された記事を見て驚いたのだ。

昨年、私は新国立劇場のジ・アトレ会員になったが、「先輩」が芸術監督を務める2010年までの間に、偉大な「先輩」のオペラを鑑賞する機会を求めたものでもあった。その会員情報誌の中でも体調不良が伝えられたりはしたが、その後リハビリに励まれて、公演復帰のお名前を拝見して「よし、よし」と思っていた矢先の突然のことであった。

残念としか言いようがないのと同時に、45年前、大学3〜4年生の2年間にわたって大変なご指導をいただいた思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

  
 

若き日の3期の面々―手前から小高根正義、小島(現姓:篠原)初子、若杉弘、佐々木高
伊豆・峰温泉での合宿で/佐々木高提供

  

1 大学3年生の時(1963年)
楽友会小史に「若杉弘氏
(OB)が定期演奏会で、シューベルト『Eb-Dur』を指揮」とある。当時の学生指導者であった中浜さん(9期)に聞いたが、「Eb-Dur(曲目)」が先だったか、「若杉先生(指導)」が先だったかは定かでない。渉外担当だった金井さん(9期)からは「幹事会方針決定後『若杉先生をお訪ねして、直接お願いすること』のため、他の役員と共に喫茶店で若杉先生にお会いした」と聞いた。その1年間私と滝沢君(10期)は先輩方の扱(しご)きを受けながら、山本さん(9期)をチーフとする3人組みでバスのパートリーダーを経験した。

図らずも、今11月7日(土)の楽友三田会合唱団第17回定期演奏会メインステージはシューベルトの「Eb-Dur」で、私も45年ぶりの再会である。お陰様で、久しぶりに山内さんや金井さんともご一緒できて懐かしさでいっぱいだ。練習中も、初章の3/4拍子、Basseの荘厳な前奏で始まる10小節後の「Kyrie eleison」の重厚、でも柔らかいハーモニーは、今だからこそ余計に応える。そして、終楽章「Dona nobis pacem」で長い長ーい静寂のうちに終曲、今でも「先輩」の顔が浮かぶ。いずれにしても、今年の「Eb-Dur」は私の生涯忘れ得ぬものの一つになることは間違いない。

2 大学4年生の時(1964年)
2-1:
同じく楽友会小史に「東京六大学混声合唱連盟以下単に『六連』と略記に加盟」とある。我々新年度幹事会が発足、岡田先生がフォーレの「レクイエム」、「先輩」の引き続きのご指導ではブラームスの「愛の歌」、そして学生指揮者は市川君(10期)の中田喜直作品で年間体制をスタート。岡田先生からは「若杉君を常任指揮者として位置づけるように」とのご指示があった。私は渉外係を担当した。

間もなく六連から、当時の幹事校・青山学院大学グリーン・ハーモニー合唱団を通じて「ある事情で法政大学混声合唱団が脱退したので、その代わりに加盟しないか」という打診があり、幹事会がそれに応じた結果、私がその担当窓口となった。

六連は新年度早い時期に定期演奏会を開いていたので、早々にその準備に取り掛かることになった。早速「先輩」を訪ねて経緯と出演をお話したら、二つ返事でOK。「よーし、どうせならオール慶應でいこう」ということになり、演目は林光先輩の「ゴオルド・ラッシュ」、ジャズコンボ・ピアノを三保敬太郎氏という超豪華ステージが東京文化会館で実現した。その反響たるや改めて言うに及ばず、逆に「慶應のための演奏会ではない、・・・・」と言われるくらいのデビューとなった。その時の(全六校)合同演奏の指揮者は岩城宏之氏、これも我々にとって申し分ない経験であった。

つけ加えると「ゴオルド・ラッシュ」は97年6月、松田ホールで行った楽友三田会合唱団第3回カジュアル・コンサートでも、寺田さん(5期)の率いるジャズバンドにより再演した。

2-2: 「先輩」は定期演奏会演目にブラームスの「愛の歌」を選曲されたが、ここでもビックリするようなことがあった。

ピアノ2台での演奏と協演することになり、ピアニストは当時バリバリの徳丸聡子さんとそのお弟子の鈴木由美子さん。ほとんどの記憶は薄れてしまったが、恐る恐る諸々のことを交渉したような気がする。一つだけ「先輩」に大目玉をくらったことがある。それは演奏会プログラムにピアノ伴奏としたところ「学生の分際で伴奏者とは何事か!ピアノ演奏にしなさい」と。今でもこのことはよく覚えているし、忘れられない。

また、演奏会間近の練習で突然「男声・女声バラバラに並ぶ」の指示と「4年生は胸に赤いバラの花をつける」ことになった。今、振り返るとこれはオペラ風演出だったかな、とも・・・。編注:「記念文集」→「第13回定演プログラムより」の写真参照

この並び方は、現在、楽友三田会合唱団でも池田君(11期)や福井君(12期)が時々用いる方法、東京都合唱祭などでこれをやると、必ず他の合唱団から新鮮な驚きの反応を聞く。

2-3: 第13回定期演奏会場を文京公会堂に定めて着々と準備を進めていたところ、ある日深夜に「先輩」から電話。「優先スケジュールと重なりどうしてもダメ。日を変えて、可能な会場を探してほしい」と。翌日から室伏君幹事長と汗だくで走り回りやっと見つかったのが虎の門ホール。確か本番3ヶ月くらい前のことだったと思うのでギリギリのセーフ。今でも霞が関附近を通るとそのことが頭を過る。

2-4: メインステージは岡田先生のフォーレ「レクイエム」。よくよく楽友会演奏会史を見ると、この曲は第2回定演(53年)、第8回定演(59年)、第13回定演(64年)に繰り返し上演されている。一方、50周年記念演奏会のプログラムに掲載された「先輩」の寄稿文によると、「先輩」はこの第2回定演の時、高校3年生でソロをなさっている。第8回定演では「先輩」訳詞のロッシーニ「三つの聖歌」が併演されている。さらに第13回定演は「先輩」指揮によるブラームスの「愛の歌」との併演である。

つまり、フォーレ「レクイエム」が定演プログラムに載った時、そこには必ず「先輩」の名も併記されているのである。このローテーションは、まさに岡田先生のご配慮と拝察、そういう中で我々のステージが成り立っていたのだと一人頷いている。

3 楽友会渉外係という役目上「先輩」とは正面からお付き合いさせていただいた。ご活躍のこと故、連絡時間は当然のことながらしばしば深夜に及んだ。練習、演奏会等移動時はカバン持ちでピッタリと付いた。演奏会終了後はご自宅に泊まり「先輩」の部屋で寝た。夜中なのに母上に出迎えていただき、初対面電話では幾度となく渉外係・小林と名乗ってはいたがにもかかわらず、色々なお話を聞かせていただいたことを思い出す。

4 卒業後は「先輩」が構成されたNHK音楽番組で、そのご活躍ぶりを拝見していたが、当方も業務多忙となり、次第に接点がなくなってしまった。

ただ楽友会上級生となった2年間で、「先輩」を通じて得た密度の濃い経験全体が、今の私の音楽体験への大きな拠所となっていることは間違いない。

過日、NHKで放映された若杉弘追悼番組で拝見した時の表情や語り口、指揮ぶりは、私がずっともち続けていた45年前の「先輩」のイメージと少しも変わっていなかったことに安堵した。そして、楽友会の一つの転換期に身を置き、偉大な先輩と緊密に接することができたことを誇りに思い、心から感謝している次第です。

若杉「先輩」の突然のご逝去にあたって誠に哀惜の念に堪えないところであり、今はただ、深くご冥福をお祈りするばかりであります(09年9月9日)。 合 掌