追悼文集
若杉 弘さんを偲ぶ

塚越 敏雄(8期)

若杉さんの訃報が届く2,3週前、ふと思い立って昔のアルバムを整理していると、1枚の写真が出てきた。若杉さんとのツー・ショットである。こんな写真があったかと思い出を辿ると、私が高校2年の1957年の夏、伊豆下賀茂温泉の楽友会夏合宿で撮ったものだった。

若杉さんの健康状態が優れないということはOSF合唱団で聞いていたが、TVのニュースで訃報が流れた時は愕然とし、この写真を見つけたのはなにか虫の知らせだったかと感慨深かった。

当時、若杉さんはまだ芸大在学中で、楽友会女声合唱の指揮をしていた。中田喜直女声合唱曲集の美しいハーモニー、流れるようなメロディを聞くのは楽しかった。第1集第1曲「ブランコ」が「ひっそりと」始まるとぞくぞくした。私は彼の指揮で歌う幸運には恵まれず、女声陣がうらやましかった。第2集の「きんきんきんぎょ」の指揮も印象的で、唄い出しの「きんきんきんぎょ。どこへいくの」というところで、彼の両手が金魚がゆったりと泳いでいるようにゆらゆらするところがとても愉しかった。

人間の声の素晴らしさに目覚めたのも、若杉さんのお陰だ。楽友会はフォーレのレクイエムを1959年の定演で取りあげたが、日本青年館のホール一杯に響いた若杉さんの豊かなバリトンが歌いあげたLibera Meは驚きに満ちたものだった。その後、若杉さんは、指揮科に転向し、指揮者として大成されたが、オペラや声楽から離れることはなく、最晩年は新国立劇場の芸術監督として生涯現役を貫かれた。


若杉さんと筆者(57年夏)
伊豆下賀茂温泉合宿で

私の手許に1枚のCDがある。「日本の合唱曲」というタイトルで1994年にリリースされたものだが、中身は1967年5月杉並公会堂における日本合唱協会演奏会で若杉さんが指揮をしたものだ。懐かしい清水脩の「月光とピエロ」が入っている。オーケストラの曲を指揮したCDも持っているが、私には、若き日の若杉さんの情熱が感じられる「月光とピエロ」が宝物である。

彼の指揮では歌うことは無かった私だが、一つ自慢にしたいことがある。後の大指揮者若杉さんの伴奏でソロをするという経験をもったことだ。時は1958年の夏、冒頭の写真から1年後のことだ。

この夏、私は、若杉さんから大きなプレゼントを二つも頂いた。一つは指揮者の松原千秋さんの郷土デビュー演奏会のお手伝いでアルバイトをさせてもらったこと。もう一つが、若杉さんが持ってきてくれた合唱曲集「学生王子」の演奏をできたことだ。

夏休みで退屈している私に、斉藤さんからだったか三戸さんからだったか忘れたが、一本の電話が入ってきた。青森県出身の芸大卒業生(松原さん)が、郷土デビュー演奏会で青森県に演奏旅行をする。合唱を女声はビクター女声合唱団、男声は芸大の学生が受けもつがテナーが足りない。お前行かないかというのだ。若杉さんからの話だという。怖いもの知らずでOKの返事をして、練習と本番3回(青森、八戸、田名部)をやった。これが音楽で稼いだ最初の体験だった。今考えてみると松原千秋さんという方は、合唱指揮者では有名で、若杉さんの先輩になるわけだ。


青森演奏旅行

「学生王子」の本番演奏はこの年9月初めの3高校合唱サークル定期演奏会(目黒公会堂)だった。指揮者は私と同期の鈴木光男。夏休みの高校音楽室で若杉さんの弾くピアノで練習した。ロンバーグのミュージカル“The Student Prince”の抜粋を伊藤榮一が編曲したもので、「セレナーデ」がテノールソロであった。後にロンバーグの代表曲の一つと知ったが、その頃は「きれいな曲だな。本番でGがちゃんと出るかな」と思ったくらいだった。若杉さんのピアノも上手だなと思ったが、本番では故大野洋が弾いたと思うがはっきりしない。この曲は1961年に宇部の演奏会でも取りあげているが、さっぱり記憶にない。やはり、若杉さんの伴奏という最初の練習の印象が強いのである。

というわけで、楽友会の生活のなかで、若杉さんには、随分お世話になった。音楽の楽しさ、幅の広さ、深さを教えて頂いた。留学後の若杉さんの活躍はステージやTV、CDで触れるだけだったが、先輩の活躍は至らぬ後輩には誇りであった。今はただ若杉さんのご冥福を祈るのみである。(2009年8月17日)