追悼文集

若杉 弘君と久保木 徹君を悼む

 

菅野 友一(3期)


今年に入って4月に久保木君、7月に若杉君が相次いで亡くなった。我々同期生としてはかけがいの無い人達を失って痛恨の極みである。彼らは51年4月に慶應義塾高校に入学し、創成期の楽友会を担っていたメンバーの中の2人である。

● 久保木 徹君は、高校卒業と同時にコーラスを止めたのでご存知ない人も多いと思う(但し楽友三田会には入っていた)。パートはバリトンで、普段しゃべる声も良い声だった。性格は温和でどちらかといえば静かな人だったが、スポーツ好きでよく日吉のグランドでソフト・ボールをやっていたのを想い出す。

大学卒業後京王電鉄に入社し、後に京王グループが保有する土地の再開発事業を推進する仕事を担当していた。私も自分の仕事(建物の空調関係)の営業をするために久保木君の会社をよく訪ねたが、彼は常に親切で、色々と便宜を図ってくれ、受注に結びつけることができた。私は今でもその事を感謝している。また、彼の音楽に対する並々ならぬ情熱は定年後に開花したと思う。住んでいた地域にある「調布市民オペレッタ協会」(名前が間違っていたらすみません)に所属し、そこが上演する数々のオペレッタに合唱団の一員として出演していた。写真を見せて貰ったことがあるが、「蝙蝠」か「メリー・ウィドウ」で燕尾服を着ており、なかなか様になっていた。


久保木君(後列中央セーター姿)と楽友会時代の仲間(53年秋頃・於:日吉のグランド)

楽友会で経験したコーラスの魅力を彼なりに見事に昇華させたのは立派だった。後年癌を患い、最初は手術に成功してオペレッタにも戻り、楽友会の会合にも時々出席していたが残念ながら病には勝てなかった。ご葬儀に同期の佐々木 高君と参列したが、お世話になった病院に献体されたということで、ご遺体が無かったのがいかにも律儀で真面目な久保木君らしいと思った。

● 若杉 弘君については、私などよりよっぽどたくさんの人がその人となりをご存知だと思うし、また、このホーム・ページにも長谷川洋也先輩が書いておられるのでそちらを読んで頂くとして、私は今まで誰にも話していないことをご披露したいと思う。

彼は高校卒業後、大学の経済学部に入ったが音楽に対する情熱が覚めやらず2年生になる時東京芸大へ転校したことは周知の事実だが、大学1年生(54年)の秋頃に彼から電話があり、「音楽学校へ入学したい。ついては準備をしたいのだが親には内緒で、家ではできないのでお宅のピアノで練習させて貰えないか」との事だった。私もビックリしたが、普通部以来の親友の願いなので快諾した


若杉君と筆者(53年8月)
於:楽友会初の翁島天鏡閣合宿で

彼は月に何回か午後の時間にわが家にやって来て発声練習をやったりピアノを弾いたりしていた。発声練習の際にはおこがましくも私が伴奏をしたのだが、各小節の最後の4分音符などで延ばす時に、私がキーから指を早く離し過ぎると、だいぶ文句をいわれたのが印象に残っている。しかし今、私は時々キーボードを弾くのだが、その際にその事が頭に残っていて「なるほど、彼のいう通りだな」といつも思う。また、親に内緒と彼がいったことに私の母が心配して「若杉さんのお母様にいった方がよいんじゃないのかしら」といっていたのも思い出す。もちろん、若杉君の母上にはいわなかったけれど、後年彼が成功して大変有名になった時、私と母は「世界の若杉が生まれたのは、わが家にも大変僅かながらその一因はある」とちょっと得意になったものである。もっとも、他の人の家でも入学準備の練習をやっていたかもしれないが・・・

● 若杉君も久保木君も2,3年前の恒例の初夏の「岡田先生を囲む会」で、日吉の中華料理店に来ていて、とても元気だったのを覚えている。楽友会にいて、その後それぞれのやり方で音楽に人生を捧げた二人のご冥福を、心からお祈りしたい。(2009年8月12日)


編集部注:楽友会初の翁島合宿での記事や写真は、渡邉恵美子先生が2009年1月に亡くなられて、古い「楽友」に寄せられた先生の寄稿文などを、記念文集内の「渡邉恵美子先生追悼」に再編集し掲載させていただきました。⇒記念文集目次へ