記念資料集定演プログラムから)

 

第20回定期演奏会プログラムより

1971年12月3日/於:虎ノ門ホール

 

 



演奏会によせて


慶應義塾塾長(1969-1973)  佐藤  朔

本日はご多忙のところ「慶應義塾大学混声合唱団楽友会第20回定期演奏会」にご来会賜り、会員一同とともに厚く御礼申し上げます。

昭和23年に「音楽愛好会」がその前身として発足以来、ひたすら宗教曲をてがけて地道な活動を続け、若杉弘、伴有雄、林光など楽界の第一線で活躍中の音楽家諸氏を先輩としてもつなど、恵まれた環境のもとで、会員諸君のたゆまぬ努力の積み重ねにより、今日の姿にまで成長してまいりました。合唱音楽に寄せる会員諸君の、内に秘めた熱意と芸術を求めてやまない情熱は、まさに注目に値するものといえましょう。

青年期を迎えた楽友会が今後さらに成長して、日本の合唱界に大きな役割を果たすことを望むとともに、ご来会の皆様の今後にわたる温かきご支援をお願い申し上げます。


演奏会によせて

楽友会会長 小竹 豊治(商学部教授)

我が「慶應義塾大学混声合唱団楽友会」は、今日ここに第20回定期演奏会を迎えることになりました。全国の学生合唱団中でも、この楽友会は、戦後に発足した比較的新しい合唱団に属するものと言えましょう。しかし毎年の定期演奏会は、宗教音楽を中心として演奏され、しかもその曲の中には、我が国において初めて演奏されたものも多く、この点、全国の音楽愛好者から注目され、その開拓者的な進取の気迫には、称賛の辞を惜しまないものがあります。

本日のモーツァルトの「死者のためのミサ曲」は学生合唱団にとっては難曲かもしれません。しかし楽友会の現在籍者と、40名をこえる先輩諸氏を合わせ、百数十余名の合唱が心を一つにし、また我が国学生オーケストラの草分けともいえる慶應義塾大学ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの協演を得て、慶應義塾関係者のみによってこれを演奏するものであります。この演奏が皆様のご期待に答え得るものであることと、本日の演奏会の成功を心から祈るものであります。


楽友会の憶い出

穴沢 養一*1

私と楽友会との出合いは、今憶い出してみると昭和27(1952年)の初夏であったから、もう20年も前のことである。丁度長男が田舎中学からポッと出て慶應高校に入った頃で、今は故人である親友・藤井博士の奥さん、賤恵さんが慶應高校で教えて居られ、又、私の学生時代のセロの先生であった故酒井悌先生も岡田忠彦さんと共に音楽を担当されて居られ、こんな機縁で賤恵夫人からの紹介で楽友会のスタッフと接触をもつようになった次第。

昨晩、当時の楽友会の楠田君から元気のいい声での原稿依頼の電話を受け、改めて自分の部屋に飾ってあった二つの楽友会のペナントを見て、過去20年に近い間に楽友会は3回翁島で合宿されたことを確認できた。その当時、表磐梯にあった旧高松宮別邸は終戦時の財産税の関係で一切を福島県に寄付され、県はその取扱いに思案中のようであった。そこで私はこれを楽友会の合宿に利用しようと、会津に来られた岡田、川島、楠田の皆さんと現地を見た上で、早速私は懇意な大竹知事と再三交渉し、遂に楽友会が最初に使用できるようになり、之がきっかけで、あれ以来色んな団体で10万人近くの利用者になったわけである。

当時物資不足の地方での合宿のため、色んな面倒な事情も多かったが、特に女子学生諸君が不眠を訴えられるケースが非常に多く、その都度睡眠剤を与えることは医者である私の立場からどうかと、川島君たちと相談して「ウドン粉」を睡眠剤といって呑ませてみる事にした。之を呑んで翌朝までぐっすりと眠れたという報告を聞くと、成程、暗示だけでも良く効くものだと独り可笑しくなって仕舞った。或る夜、高比良先生(女子学生の監督)から睡眠剤を呑んだ女子学生が心悸亢進で苦しいと言う、もしや睡眠剤の分量が多すぎたのではないかとの連絡を受けて、ニヤリとして「心配ありません」と返事しても先生なかなか納得されないので、遂に薬の種明かしをして仕舞ったと楠田君から報告を受けた。勿論当人の女子学生はすぐ元通りになったことは当然であり、後々暫らく此の事件は「ウドン粉事件」として我々のゴシップの種になって仕舞った事など、なかなか思い出はつきない。

翁島合宿*2


旧高松宮別邸ホール・1952年


スイカ食い競争

楽友会は翁島合宿中、会津若松市で2回演奏会をもったが、私の主宰する会津市民オーケストラと共に、フォーレのレクィエムの演奏などは未だに忘れられない。昨今、楽友会の昔のメンバーから伴、若杉、その他多くの秀れた新人が日本の楽壇で活躍されて居られるのを見聴きするにつけて、創立時代から、岡田先生を中心にがっちりスクラムを組んで合唱の道を歩んで居られる皆さんの音楽への情熱のしからしめるものと、誠に頭の下がる思いである。果樹の中で、桃栗3年柿8年で喰いものになる年輪の襞があるが、既に20年の大木に成長された楽友会の過去の輝かしい実績をふり返って見ても、皆さんの将来は期して待つものがあると思い、以上昔の雑感を申し上げてお祝いの言葉といたします。


第20回定期演奏会を迎えて

常任指揮者  岡田 忠彦

思えば、昭和23年、音楽愛好会を創立して以来23年、そして楽友会と改名してから20年で、本年は第20回の定期演奏会を迎えることとなりました。ハイドンの「天地創造」を全曲演奏したのが昭和25(1950)年で、その2年後が楽友会と改名しての第1回定期演奏会でした。昭和30年に初めてオーケストラをつけて、モーツァルトの「戴冠ミサ曲」を本邦初演いたしました。その時、今活躍している岩城宏之さんがティンパニーを受持って演奏に参加されたのが、昨日のことのようです。その頃は楽友会出身の伴有雄君は学生指揮者として、また若杉弘君は独唱者としてフォーレ、ドヴォルジャックの演奏に、学生として異彩を放っていました。

昭和36年には、今回と同じモーツァルトのレクィエムを、ワグネル・ソサィエティー・オーケストラとの協演でしましたので、今日は満10年ぶりの協演になりますから、今昔の感ひとしおです。この度の第20回公演は、創立以来のなつかしい先輩の方々をも交えての、合同演奏でありますだけに、創立の目標としました一大家族的楽友会の姿が、20回にして何とかここに実現いたしました。

創立以来、この会を主宰してきた私としまして、この20余年間に、無事第20回定期演奏会を迎える事ができました幸せを、ご支援を賜わりました多くの方々の面影を偲びつつ、噛みしめています。深い感謝の念をささげる次第です。


(特集)第20回定期演奏会にあたって

青春の歌声

第1期生*3 小林 亜星

僕は楽友会の第1期生です。その僕も、もう30歳の終わりに近づきました。懐かしいなあ、モーツァルトのレクィエム――僕に初めてハーモニーというものを教えて下さった岡田先生。当時先生は未だ音楽学校を出られたばかりの烈々たる情熱で、僕らを指導して下さいました。きっと今も変わらないことと思います。そして何よりも青春というものを贈って下さったのです。今僕は売音業になってしまいましたが、当時の僕にとって音楽は、パンであり水でありました。喧嘩も失恋も、青春なるが故にみんな美しい。

僕等にすばらしい青春を下さった、岡田先生、有難うございます。この発表会をとても楽しみにしております。楽友会の皆さん、青春をくれぐれも大切に!


ハイドンとの出あい

第3期生 中野 博司

楽友会が、はやくも20年の歴史をきざんだときく。慶應義塾で音楽を学んできた私にとっては、ひときわ感慨が深い。ふりかえってみれば、私のハイドン研究は楽友会と歩みをともにしてきたからだ。1950年、音楽愛好会時代に岡田忠彦先生の指揮でうたった<天地創造>が、ハイドンとの、音楽との出あいなのである。<四季>そしてベートーヴェンの<ミサ・ソレムニス>。私を音楽学の研究にみちびいてくれたのは、楽友会であじわった音楽するよろこびに他ならない。青春時代に今昔の名曲の世界に耽溺する。若者になんとすばらしい体験をあたえるクラブであろうか。楽友会が今後とも、真の音楽愛好家を、そして楽人を育てることを信ぜずにはいられない。


楽友会の皆さんへ!

第1期生 林   光

楽友会合唱団が第20回定期演奏会を迎えるという。早いものだ、という常識的な感想が出て来にくい世界で私は仕事をしている。一つの芸術運動は3年からせいぜい5年で一つのサイクルを終える。解散するか存続するか、どちらにしても生まれかわらなくてはならない。和やかに10年続きでもしたら、どこかにタイハイの影がみつからないほうが不思議という世界だ。そのような現場から、さて皆さんにどんな言葉をかけたら良いのか、ただただ迷ってしまうのだ。強いて言うなら・・・・・サークルの憶い出など過ぎ去ってしまえばはかないものだ。それが消えさったとき、私たちは現実世界で生きはじめる。


第20回定期演奏会に思う

第2期生 伴  有雄

20数年前のこと、九州の田舎者が突如として慶應高校生となった。やがて音楽愛好会員となり、上級生たちに少しでも近づこうとはじめられた私の努力は、しばしば虚無感となってはね返ってくる空しい徒労のようであった。意地だけが脱落から己を守る唯一の支えであった。誰一人手をさしのべる者なき暗中模索の中で、何かが私のうちに芽生えはじめていたようであるが、それを自覚するまでには数年の歳月を要し、そして更に長い屈折の重き流れを経てやっと今私はスタートしたばかりである。想えば、音楽家としての将来など夢想だにしなかった当時の徒労の日々が、長く苦しいわが人生行路への船出をひそかに準備しはじめていた時だったのである。


レクィエムの思い出

第4期生 若杉  弘

もう何年も時が経ってしまったのに、今でも懐かしく想い出すのは高校の入学式のことです。教室から聞こえてくる美しい歌声にさそわれて扉を押したぼくに手渡された譜面は、ほかでもないモーツァルトのレクィエムでした。それまで手のとどかぬほど遠く、高いところにそびえていた音達がすぐ身近に響いていることにどれほど興奮したかしれません。その日から楽友会の仲間入りをし、岡田先生のすばらしい手引きでハイドンやベートーヴェン、シューベルトと識り合いになりました。こうして学園で歌いついだ歌声が20回目の定期演奏会を迎え、あのモーツァルトが再演されると聞き、成功を祈るとともに心からのお祝いを申し上げたく存じます。

    


編集部注:
*1 穴沢養一氏は、このHPの「記念資料集」中にある、岡田先生の「『楽友会』命名の由来と歴代会長」という記事で<草創期、特に楽友会初の男女合同合宿や、会津若松市での演奏会開催について、一方ならぬお世話になった方>と特記されている塾高生のご父兄のお一人で、会津の内科の開業医さんです。

*2 2枚の写真はホールでの集合写真と夜の親睦会での「スイカ早食い競争―手を使ってはいけません」の情景です。奥で笑っているのは右から順に伴さん、岡田・高比良両先生と渡邉先生とそのお子さんたちです。とても広く、明るい素敵な館と庭園で、楽しい初合宿でした。

*3 この「特集」記事の氏名の前にある第X期の記載数値は原典からそのママの転載、掲載順についても同様、プログラムには「順不同」と記載されています。

*4 この会のプログラム表紙と当日の演奏曲目・指揮者・会場等については、このHP「年代記」コーナー中にある「定期演奏会の歴史」の項をご覧ください。

*5 当日の出演人員は楽友会員が岡田先生にソプラノ:19名/アルト:13名/テノール:20名/バス:19名の合計72名、他にソリスト4名、ピアニストとオルガニスト各1名、それにワグネル・ソサィエティー・オーケストラの合計55名の客演を加えた総勢133名でした。 

*6 当年度のスタッフは会長:小竹豊治/常任指揮者:岡田忠彦/顧問:有馬大五郎、安西英太郎、岡本敏明、中野博司、村田武雄/ヴォイス・トレーナー:沢田玲子、沢田文彦、築地利三郎の各師と、塾生が幹事長:丸尾誠太郎(以下井上君まで全員17期)/副幹事長兼会計:柏瀬充子/渉外:庄司裕三、上野和子/会計:浦上薫/庶務:横山和夫、堀田邦子/学生指揮者:草野奏、井上幸治、窪田俊郎(18期)とパート・リーダー7名で構成されていました。

*7 有馬大五郎顧問のご祝詞「抜け出る気持ちを」は当HPの「記念資料集」中の「有馬大五郎語録」コーナーに別掲してあります。

*8 当日の会員券がありました。A席用の金額をマジックで消して「招待券」としてありますが、よーく見たら500円と印刷されていました。

(2015/1/20・オザサ)


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