もちろんこれは、校長先生を始めとする女子校全教職員の理解と協力の賜物であり、特に訓導的立場におられた佐々木暁秀(社会)と渡邉恵美子(音楽)両先生が、楽友会顧問として強力にバックアップしてくださったお陰と思います。ただし、女子校としては何事も初体験で、参加者も多数であったことから管理監督は厳重を極めました。
楽友会創立初年度の男女合同合宿は許可せず、翌年の翁島合宿は許可したものの、風紀取り締まりの監督教諭付きでした。神川ときよ(5期/旧姓:土屋)君は「練習を遅くまですると校長先生から注意され、楽友会員の成績が落ちると部に対して文句が出て、筑紫さん(1期)が一々弁解にいらしたりして、あの頃は厳しかった」と述懐しています(「楽友」18号「第10回定期演奏会・記念座談会(61年9月)」から)。
したがって、楽友会1期を中心とする男声の女子高指導陣はかなり苦い体験をされたことでしょう。しかし、それに動ぜぬ貢献は、女子高団員たちの一致した対応と協力によって報われました。彼女らは学業と混声合唱修練の両立にいそしみ、大学進学後も数々の他からの勧誘をはねのけ、1期生の創設した「楽友会」活動に加わり、その発展に献身したのです。
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「発表会」から「定期演奏会」へ
かくて女声・男声間のアンバランスに対する、指揮者と男声側からのクレームは鳴りをひそめました。しかし、絶対数の不足が解消されたわけではありません。女声は名簿上でほぼ均衡を保ってはいたものの、実働人員は変動が激しく、かつ声量も乏しかったため、しばらくは男声受難、つまり混声合唱で間引きされる男声がいる時代が続きました。
一方、女声にはヴォイス・トレーナーとして長谷川洋也(1期)君が付き、コンコーネやコーリューブンゲンの特訓が課されました。これは女声の人員不足を、個人各人のパワー・アップでカヴァーしようとする涙ぐましい努力です。何しろ女子校は、その創立を祝う音楽会(ハイドン「四季」の全曲演奏/50年)以来、全校をあげて混声合唱に参加することを奨励していたので、必ずしも音楽的素養のある合唱好きの人たちだけが集まっていたわけではありません。譜が読めない、よく歌えない、だから小さな声しか出さない、という人たちも結構いたのです。
このような事情を背景とし、初期の練習成果は「発表会」の名で披露されました。それは「演奏会」ではおこがましいという自覚、あるいは自分達を支えてくれている人達への感謝の念で行われたつましいものでした。従って客席は家族や友人、それに学校関係者といった内輪の人たちのみで、プログラムも親しみやすい小曲、少人数編成の「グループ発表」、あるいは舘野泉君(4期相当)のピアノ独奏を含む、ごく家族的な集いだったのです。
それが、いわゆる「演奏会」風になったのは3回目の「発表会(54年)」からです。会場を大ホールに移し、グループ発表はやめて「男声合唱」「女声合唱」および「混声合唱」の3本立てプログラム構成を、少しオーヴァーにいえば世に問うこととなりました。
そして、創設者の1期生が大学の最高学年に達した時、いよいよ満を持して「発表会」を「演奏会」と改称しました(55年)。これは人員的にも質的にも、女声の実力が向上して「女声問題」が解消し、演奏の質を追求する時代になったことを意味します。この時既に女子校1期=楽友会2期の女声陣は学部3年生となり、学外から女声の応援をよぶ必要はなくなっていたのです。
メイン・ステージには初のオケが付き、晴れがましくモーツァルトの「戴冠式ミサ曲」が演奏されました。これが楽友会史上初めての「演奏会」であり「第1回」と称すべきものではありますが、通常は前3回の「発表会」も含めて「第4回定期演奏会」と呼びならわされるようになりました。
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(高校)音楽愛好会と(大学)楽友会との分離
それ以後5年間は、高校と大学が一体となった3本立てプログラムの「定期演奏会」が毎年の恒例となりました。ところが「第10回記念定期演奏会(61年)」で異変が起きました。その時のプログラムは次の通りです。
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指 揮 者 |
出 演 |
曲 目 |
1 |
伴有雄(1期/OB) |
大学生 |
古典合唱曲集(パレストリーナ、バッハ他) |
2 |
同上 |
同上 |
間宮芳生「混声合唱のためのコンポジション」 |
3 |
岡田忠彦 |
高校生+大学生 |
モーツァルト「レクィエム」 |
注: 1,2はア・カペラ曲,3はオケ付き
曲目はすべて「混声合唱曲」のみとなって「男声合唱」と「女声合唱」のステージが無くなり、学生指揮者は出ず、高校生の出番がメイン・ステージだけに限定されたのです。
学生指揮者が登場しなかったのは、この演奏会が10回記念であることを配慮した格別の措置でした。しかし、高校生の出番減少はその後も続く慣例となり、問題となりました。
この改変は7期から13期までの総員が、6回の幹事会と総会を経て決議したとのことですが、当時の幹事長・佐野康夫(7期/大4年)君は「楽友会が目的としていたものは混声合唱であり、従来の伝統的形式を続けることは非常に難しくなったので、名実共に混声合唱に特化することとした(「楽友」18号/61年11月)」とのみ記し、それ以外の言及はありません。
従って「混声合唱に特化する」ことと「高校生の出番を減らした」こととの因果関係は明らかでありません。しかし、前記の「楽友」誌には、高校生側からの相当感情的な反発文が載っており、それには大学生が先輩である立場と数の上での優勢を利し、高校生を圧倒した様子が書かれています。何が原因でそのような確執が生じたのかつまびらかではありません。が、高校生の出演制限に問題があったことは確かでしょう。
その2年後、時の幹事長・中村脩(9期/大4年)君は次のように記しています。「・・・63年4月3日(水)の総会において楽友会の新規約が承認され、大学楽友会と高等学校楽友会(男子校、女子校を含めた)はそれぞれ主体性をもったブロックとなり、楽友会は両者の提携活動の形で行われることが実質的にも制度的にも認められ、発足以来12年目をもって新たな形態へと脱皮しました・・・(「楽友」21号/63年5月)」。
これを読むと、2年前の高校生出演制限は、高校と大学楽友会の分離を前提とした布石であったように思えます。そして、もしこの仮説が正しければ、楽友会発足当初は高校側で問題となっていた「楽友会分離案」が、皮肉にも、11年の曲折を経て大学側からの逆提案で決着したことになります。
かくして、従来のユニークな高校・大学一体型の組織はついに瓦解することになりました。瓦解ということばは穏当を欠くかもしれません。しかし、この時点を境として高校と大学は、単なる「分離」ではなく「断絶」へと向かったのです。(オザサ記)
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