その他の趣味・同好会

コーロ・エスプレッシーヴォ 2014 年福島復興支援演奏会
お茶っこうたごえコンサート 演奏旅行記

2014/9/21-22

池田 龍亮(11期)


3.11の東日本大震災からの福島の復興を祈り、2012年から現地へ赴きチャリティ演奏旅行を行ってきました。今年も9月の連休の時期に「お茶っこうたごえコンサート」を南相馬市と二本松市において、現地の合唱団や合奏団の皆様の参加もあり、意義ある支援コンサートを開くことができました。

いつも「楽友」の場を借りて、コーロ・エスプレッシーヴォの活動通知・報告を掲載させていただき有難うございます。今回のチャリティ旅行にサポーターとして参加してくれました鈴木涼太さんに旅行記の編集をお願いしました。鈴木涼太さんは、私達夫婦の通う、カトリック鷺沼教会の教会員で、 今春のスペイン・ポルトガル巡礼旅行に一緒に行った際、旅行団の深夜ボーイズ・クラブ飲み会仲間として親しくなり、今回のコーロ演奏旅行に参加してくれました。

楽友三田会の皆様に、20年以上にわたって続けてきたコーロのチャリティ活動の一端でも知っていただきたく、よろしくご掲載をお願いいたします。(2014/10/25・池田龍亮)


2012 年 7 月に始まって以来、今年で3回目となるコーロ・エスプレッシーヴォの福島復興支援の、「お茶っこうたごえコンサート」演奏旅行記です。


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第 1 日 2014 年 9 月 21 日・日曜日

出発は日曜日、やや早朝の 6 時 40 分、都立大学駅北口の目黒通りからチャーターの大型バスで出発。各自の最寄り駅までの始発バスが未だ走ってない時刻に、自宅を出ねばならない方々も多かった事と思います。私もご近所の蓑田さんに Pick Up して頂き、最寄りの鷺沼駅に着きました。皆様、それぞれ早い集合に合わせてご苦労さまでした。待機していたバスは、後部にサロン席がついた大型バスで、運転手さんは、昨年夏の榛名山麓の新生会訪問の時と同じ佐藤さんで、コーロの活動・行動形態については良く分かっているので何かと安心。

今回の参加者は、コーロ合唱団員が 26 名(女性 16 名、男性 10 名)、サポーターが 12 名(女性 6名、男性 6 名)である(1 日目と 2 日目で日帰り参加の方もおられ、多少の数の出入りはあった)。車内では、分刻みのリハーサル予定を含む詳細な旅程表と、サポーターの役目も記入された全員の名簿が配布され、綿密に事前準備をされた池田さんや佐良土さんのご苦労に多謝。何度も事前に現地で打合せもされた事でしょう。それに今回は、菊名教会から中村ドクターもサポーターとして参加されており、ボランティア保険にも加入済み、何の心配もなくコンサートとお茶っこに集中できる。

天気は台風 16 号が西に居座っているので、若干の心配はあったが、当日は文句無しの快晴。目黒から高速に上り、箱崎を経て順調に進む。スカイツリーが右手に眩しく見える。右側の席はカーテンを引く程の快晴。1 週間前に、福島第一原発付近の帰還困難地域に指定されている国道 6 号線の道路封鎖が解かれ、一般車輌通行が可能になったので、今回は常磐道を一路北上、常磐富岡までを高速道路で、そこから大熊町、双葉町等の、通行止めになっていた国道区間を真っ直ぐに北上する事が出来た。浜通りで南相馬市まで一直線、2日目は一般道を西にトラバースして二本松市へと、反時計回りの一筆書きで廻れる効率的なルートとなった。

常磐富岡 IC で高速を下りて、大熊町、双葉町、浪江町の帰還困難区域を通過する。時間が止まったような無人の町並みを車窓から見て、声も出ない。ガソリンスタンドの給油器には蔦が絡まっている。中古自動車販売店には車が当時のまま並んで残されている。津波での破壊は免れたが放射能に汚染された家々がそのまま残っている。今にもどこかから誰かが出て来てもおかしくない光景なのに、無人、と言う静寂が支配している。遠く海岸線に原発施設が見え、そちらに行く道路には通行禁止のバリケード柵、そして所々にはパトカーが赤橙を廻して監視をしている。

帰還困難区域の避難者数は約 2 万 4500 人、居住制限区域の避難者数は約 2 万 3200 人も居られ、このうち今回交流慰問する南相馬市の避難者数は約 1 万 2 千人、浪江町は約 7800 人であり、災害から 3 年半経った今でも傷跡は深い事を、無人の町並みを目前にして改めて実感した。

日曜日の午前と言う事もあり、順調にバスは進み、予定通り午前 11 時に南相馬市の、「ひばり生涯学習センター」に到着。再開された相馬野馬追が行なわれる雲雀ヶ原祭場地(1周 1000 メートルの大広場)が、すぐ近くに有る。センターは和風の外観で瓦屋根の立派な施設であり、入り口エントランスホールから左右対称に建物が広がっている。センター所在地の地名も原町区本陣前と勇ましい。

入り口に綺麗な墨書で、大きい「コーロ・エスプレッシーヴォ復興支援演奏会」の案内掲示版が建っているのも嬉しい。ひばりハーモニカ愛好会の桜井雅勝さんが書いて下さったとのこと。コンサート会場はセンターの右ウィングの多目的ホールである。ひばりハーモニカ愛好会会長の橋本俊信さんと、原町混成合唱団会長の佐藤潤一さんが、現地リーダーとして采配を振るって下さっていたお蔭で、ホールには既に椅子が並べられており、開演までの非常にタイトな時間帯で、ひばりハーモニカ愛好会、原町混声合唱団とコーロと三団体のステリハを行なう事を配慮下さっており、大変に助かった。

座席は、1 列 7 名で 9 列の椅子が、真ん中に通路を挟んで左右対称に並べられている。126 名の余裕の座席であり、ステージは 2段の低い階段の上に、祭壇状に広がっており、低いステージなので舞台とは違って客席との一体感がある。

リハーサルのあと、コンビニ食料の慌ただしい昼食を終え、並行してホール隣の和室広間にお茶っこの準備も完了。また、チャーターバスで仮設住宅へのお迎えも終わり、いよいよ午後1時 30 分に開演。本番開始だ。お客様は、ステージに向かって左側 9 列が満席、右側が 5 列の入り、約 100 名である。原町混声合唱団、ひばりハーモニカ愛好会の方々が各々10 名くらいずつ、座っても居られるから、お客様は大凡 80 名くらいであった。

いよいよ本番のステージが始まる
 はじめに「谷間の教会」の歌を歌いつつの入場はとても合唱団らしい自然なイントロで会場の緊張が融けて来る。2 曲目の「いっしょに」の後、アルト滝川佳代さんの MC で、山形出身の東北弁を少し交えた紹介で会場が更に和んで来る。やはりお国言葉は東京との距離を縮めてくれる。初日の合唱団は、女声 14 名、男声 9 名に伴奏の平岩政子さんと、指揮者の池田龍亮さんを加え、総勢 25 名の編成。

 童謡メドレーどの童謡も懐かしくて、皆さん楽しんで聴いて下さっている。2 曲目の、みかんの花咲く、では途中の「遥かに見える・・」から男声が前面に湧きあがって出て来て、混声合唱の声の厚み・奥行の楽しさが実感出来た。証城寺の狸囃子の最後のお経や鉦の音の endingでほぐれたのか、ここで会場から拍手が起きる。

どの曲の演奏も素晴らしいので、観客も拍手のタイミングに迷う。どんぐりころころ、のスカーフ球転がしや、七つの子のカラスの声など、自然と笑いを誘う。

 客演原町混声合唱団の皆さん
女声 9 名、男声 4 名のまとまりの良い合唱団で、夏の思い出以下、全 4 曲を綺麗に歌われた。今年は指揮者の井上耀子さんが体調不良の為、見学され、ピアノ伴奏の先生の指揮で演奏となった。女性はピンクのブラウスに黒のスカート、男性は黒いダブル、の正装でコンサートへの意気込みが伝わって来る。平成 2 年結団の歴史のある合唱団であり、聴衆の方々も身近に感じて楽しんでおられた。

南相馬市原町区は福島原発から 20 qの圏内にあり、避難指示解除準備区域になってはいるものの、未だ 1 万 2 千人の方々が避難生活を送っておられる。その中で地域の生きていく希望の声となっておられることを実感した。

 再びコーロに戻り流行り歌から2曲。女性15名、男性 9 名。
特に2 曲目の瑠璃色の地球は、各パートとも力強い声量での音がまさしく瑠璃色の音のようなハーモニーとなり、会場から一段と大きな拍手が沸いた。

 続いて客演のその2ひばりハーモニカ愛好会の演奏。全日本ハーモニカ連盟理事で、82 歳になられた林博太郎さんが元気に指導されている団体で、平成 13年結団の 10 年以上の歴史があり、橋本俊信さんが代表を務められている。女性 14 名、男性 4 名が出演して、アコーディオン奏者でもある佐久間貞良さんの指揮で、北上夜曲他全 3 曲の演奏。

ご高齢で椅子に座っての演奏をされる女性もおられ、会場は一体感に包まれる。ハーモニカ特有のノスタルジーに溢れるハンドビブラートの哀愁に満ちた音色は、遠い昔の事をも思い出させてくれる。

続いて佐久間さんのアコーディオン演奏。アコーディオンは伴奏だ、皆さんで歌って下さい、と、歌詞が書かれた大きな紙を会場側に向かって人が掲げて、全員での合唱。佐久間さんは指を怪我されているが、今日は意地でも弾きますと、指先にキャップを嵌めての熱演である。アコーディオンの音をバックに、野菊、里の秋、の2曲を会場全体で元気に歌う。

そしてこの部のラストに、林さんの独奏で浜辺の歌と夕焼けの道。震災の浜は今は元に戻りつつあるが、忘れられないことであった、との気持ちを込めての浜通りの哀愁の歌である。お一人で重奏のように重音を出され、ビブラートが何とも切ない感動を与える。夕焼けの道は最後がこの道はいつか来た道に繋がる編曲で、復興への希望を共有した。終わりに 84 歳の車椅子に乗られた女性が紹介された。去年までは会員で一緒に演奏をしていたが、膝が伸びてしまったので、今年はフロアで聴きましたとのこと。会の強い一体感を感じました。

 再びコーロに戻る追悼の歌を通しては、コーロのハイライトの2曲。
小声での出だしを揃えるのが難しい武満徹の「MI-YO-TA」も綺麗に始まり、会場が一段と深く静かな思いに沈んで行く。2 曲目の「明日という日が」、では力強く気持ちを上に引張り上げて行ってくれる。歌う方も聴く方も涙をこらえての素晴らしい共有の時が過ぎて行く。

 合同演奏福島県民賛歌
震災からの復興に取り組んでいる福島県民を励まし、気軽に口ずさんで貰える歌を作ろうと、仙台市のハーモニカグループ代表の坂井聰さん(作詞)と、ハーモニカ指導をされる林博太郎さん(作曲)が作られた県民への応援歌。池田さんの混声四部合唱の編曲で、三団体の合同演奏が行われた。

会場には坂井聰さんも駆け付けられ、林さんのハーモニカの伴奏も加わって、会場の皆さんと全員で元気に歌い上げた。県北から会津、いわき、相双、県全体と、五番まである勇壮な歌である。「福島県民力あれ 福島県民誇りあれ」のリフレインに会場に力と心がこもる。福島県民の復興の歌として、歌い継がれて行って欲しいと思う。

 フィナーレみんなで歌おう
ここで、会場の皆さんと、全員で、赤とんぼ、故郷、と言う郷愁と故郷へ万感の思いを籠めた2 曲を歌った。胸に迫っても泣かないように。

 アンコール1 曲目は復興の中で苦しい時が多いけれど、力強く生きていって頂きたい祈りの気持ちを籠めて、イエスのカリタス修道女会の古木涼子シスターが作られた「いのち」、そして Endingは明るく「汽車ぽっぽ」。これは遊び心を入れて、どんどん会場の手拍子をアップテンポにして、それについて行く歌い方にして、ウイーンフィルが楽友協会で新年コンサートで弾くラデツキー行進曲の拍手のように、会場と一体となって楽しむ趣向にしてある。これで、しんみりから賑やかになって、最後に「原ノ町ィ?、原ノ町ィ?」とベースで駅員役の清水康昭さんが、ご当地駅名を肺活量一杯まで称呼し、大拍手の内に無事に第一日目のコンサートは終了した。

 

続いてホール隣接の和室に設営してあるお茶っこ会場へ。それぞれの合唱、演奏の感想や感激を、お客様と共に談笑して交わす。アルトの守本喜和子さんのお手製のマーブチョコブレッドも大好評で、すぐに皆さんのお口に消えていった。

あっという間に楽しいお茶っこも終わり、会場の後片付け。客演団体の皆さんのサポートもあり、てきぱきと効率良く短時間で会場の整理を終了できた。午後 4 時半にコンサート会場を出発、JR原ノ町駅前にある、ロイヤルホテル丸屋に5 時前に到着。結婚式場などもある小綺麗なホテルである。目の前が原ノ町駅であるが、列車が殆ど走っていないので、駅前である事を忘れてしまう静けさである。

18:30 から1階の宴会場で、立食形式の打上げの合同懇親会。司会はベースの浅海直之さん。ハーモニカの林博太郎先生の乾杯で始まる。林先生から、被災地の方々の心の琴線に触れた素晴らしい合同のコンサートであったと感謝と労いの謝辞があった。また、ハーモニカ愛好会の橋本代表から、橋本さん手作りの、細い竹枝で作った赤とんぼが池田龍亮さんに贈られた。「橋トンボ 306 号」と、作番入りである。また、原町混声合唱団の最長老である目黒さんから、山形産のワインの差し入れもあり、お互いに歓を尽くしての懇親会であった。懇親会後、コーロ団員とサポーター有志は、スイートルームで2次会を行ない、広い部屋の床に座るほどの賑わいの中で、第1日目の夜は更けていった。


☆☆第 2 日 2014 年 9 月 22 日・月曜日

2日目である。明 23 日の秋分の日との間の平日である。薄曇り。気温 17℃。7 時過ぎの早めの朝食を済ませてホテルを出発。丁度、原ノ町駅から、電車通学の高校生が次々に出て来る。若い人々を見ると町の底力を感じてホッとする。

7 時 45 分にホテルをバスで出発し、下渋佐の海岸近くの八坂神社(仮宮)に向かう。渋佐には、上、下の 2 地域があり、下渋佐は、より海岸に近い地域である。ホテルからのバスには地元の行政区長である平さんが搭乗して下さり、ハーモニカの林先生と、この地区出身で当日の献奏会のお世話役を務めて下さった橋本さんも同乗され、車中で平さんのお話を伺った。

「2011 年 3 月 11 日は、時雨模様の寒い日であった。TV は倒れガラスは割れる。そして外に出ようとしても扉が歪んでしまい開かない。飯台でドアを壊してやっと戸外に出た。戸外も大谷石の垣根が倒れ、瓦が散乱。防災訓練と言っても川の氾濫想定訓練くらいで、津波に対する訓練はしておらず、どう避難したら良いのかを代々子供達にも教えてはいなかった(三陸海岸のようなリアス式海岸では無いから津波災害は少なかったのであろう)・・・・

下渋佐は海岸から 3Km 位平坦地で、津波から逃れる場所も高い建物も無い。私は幅員 5mの広域農道があったので、車でかろうじて避難出来たが、農作物の出荷作業を集団ハウス内でしていた人々には、津波の近づく音も聞こえずに避難も出来なかった。また、防潮堤の水門を閉めに行った消防団員も津波に呑まれてしまった。ちょっとでも家に戻った人々は皆助からなかった・・・

3 月 13 日に原発爆発の恐れがあると言う事で、各自に 10 リットルのガソリンが配られ、行きたい所に行ってくれと言われ、小千谷や長岡の方へ避難する人も出て来た・・・ともかく、津波が来たら、各自がバラバラになっても一刻も早く自力で高所に逃げる事、と言う昔からの言い伝えを改めて子々孫々に伝えていかないといけないと思った・・・」

午前 8 時に、下渋佐の海岸から内陸に 1Km 位入った八坂神社に着く。慰霊の碑が横に建てられている。少し離れた所には流出した墓石が整然と並べられている。仮の墓所である。周りは一面の平坦地であり、所々に瓦礫と汚染土の小山が古墳のように並んでおり、旧い小山には草が生えている。北側には小高い丘の上に東電の火力発電所の公園があり、そこだけは緑色、下渋佐の集落跡には色が無い。

まず、東日本大震災犠牲者慰霊之碑に合掌する。昨年2013 年 10 月の建立である。ベースの浅海さんが、碑文の朗読を行ない供養とした。

碑文によると、2011 年 3 月 11 日午後 2 時 46 分に地震が発生、そして午後3 時 31 分には、波高 10m を越える津波が内陸部 3Km まで黒い塊となってこの地域を襲い、59 戸の住戸は消失し、32 名の尊い生命が犠牲になってしまった。碑文の下部には犠牲者の御名前と年齢が刻まれており、中には当歳と書かれた赤子も含まれていた。

地震発生から僅か 45 分の間に、3Km を逃げるのは高齢者には困難であったろう。それに高さ 10m と言えば、3 階建てのマンションでも完全に水没してしまう波高である。海岸線には、新しい防潮堤を建設中であるのが遠望出来た。一日も早い復興を唯々祈るばかりである。

石碑に合掌のあと、鎮魂の意を込めて、皆さんで献奏をした。「遥かな友に」、をAndante espressivo で歌い、次に讃美歌、「神ともにいまして」を心籠めて全員で歌った。God Be With You Till We Meet Again(また会う日まで)、のリフレインに私はいつも泣いてしまうが、こらえて上を向いて歌った。

この慰霊之碑の傍らには同じく津波で命を落としてしまった動物(家畜・ペット)達の慰霊碑も建てられており、東北地方の皆さんの優しい気持ちに心が痛んだ。

8 時 30 分に慰霊献奏を終え、地元の皆様とバスからお別れをした。私達の乗ったバスに向かって、昨日ひばり学習センターの入り口に掲げられていた、コーロ・コンサートの大看板を持参しておられたのを広げつつ手を振られ、馬の鼻向けをして下さった。建設中の常磐道の下をくぐり、一路二本松市へと一般道を西に向かう。来年 4 月には、常磐道も全線開通の見込みであると佐良土さんの説明があった。飯舘村、川俣町などを通過して行く。この辺りもまだ 2000 人位の方々が避難者としてなって居られる。道々、黄色い「除染作業中」の旗が掲げられ細々と作業が進められており、所々に黒い大きな袋が積まれている。気の遠くなるような作業と時間である。

今日は開演が午後 1 時と昨日より 30 分早い上、ウクレレ、フラダンスの同好会とのステリハもあり、タイトなスケジュールである。10 時 30 分、予定通り本日の会場である二本松市安達公民館に到着。

当初の企画案では、公民館に隣接する安達文化ホールで開催する予定で、チラシ案内もそう印刷して配布したが、収容人員が 400 名余の大ホールなので、予測されたお客様の人員に見合ったサイズの、公民館2階の、軽運動場を会場に変更した。軽運動場とは、要するに室内運動場であり、卓球台などが隅に畳んで置いてある。小中学校の講堂のように、正面に舞台が設けられている。

ここの会場設営は大変であった。今回は会場の事前設営は無く、ゼロからのスタート。まず、正面 舞台の下から椅子を畳んで収納してある台車を引き出す事から始まった。椅子を並べ始めていたら、公民館の担当者から、ここは軽運動場であり、床を椅子の脚から守る為に、防護シートを敷き詰めよ、との指示。最初から聴いていれば、効果的な会場設営になったのに、といいつつ、これも現地の一発勝負のスリルと醍醐味と、前向きに受け止め、設営作業を急いだ。

そこで、幅 1.5m、長さ 15m 位のビニールシートを、舞台に向かって 5 列敷き詰めた。次に椅子の配置で迷った。1 列に横 9 名、それを縦に 9 列配置する事にした。真ん中に通路を設けるかどうかでも迷ったが、フラダンスの方々が横を通って舞台方向に向かう配列が良いだろうとの事で、椅子は左側に寄せて、その右側を通路とした。 ウクレレは座って弾くので、その時は小さな机を横一列に三つ並べるようにした。譜面台をその上に置くのである。一方フラダンスは舞台下で 1 列横 7 名が 3 列になって踊るので、その部分は床のままとした。フラは素足で踊るので木の床の方が良いのである。

ウクレレ同好会、コーロ、フラダンスのリハーサルを手際良く行ない、慌ただしくセブンイレブンの弁当で昼食し、開演が迫って来る。

開演前に受付の状況を見に行く。事前の周知ポスターでは、会場は隣接する安達文化ホールと記載されていたので、そちらに間違って入って行かれないように、一人は誘導係を配置しておかないといけないなと思い、文化センターの入り口に向かった。L 字形に公民館と繋がっており、入り口は立派な自動扉になっており、そちらが会場かと誤解されやすい。

すると、文化センターの入り口で、公民館側へ誘導をされている女性が居られた。ニコニコした笑顔の明るい方で、ひょっとしてと思ってお名前を伺うと、果たして地元二本松市で「福島やさい畑」・復興Project を主宰されている柳沼千賀子さんであった。

前日の 21 日・日曜日の午前 2 時頃に二本松を出発し、川崎の鷺沼と、田園調布の 2 ヶ所のカトリック教会で、ミサ後に福島県産の野菜など農家から受託して来た野菜などを販売し、即日、夜には二本松まで帰って来られた筈。その翌日のお疲れの出る日に、サポートに来て頂き感謝を申し上げた。特定 NPOとして、一所懸命に福島復興 Project を推進されて居られる、とても優しくて実行力もある方。皆様も機会があれば、この NPO からの野菜購入や、Donation をして上げて下さい。PC から出来ます。NPO法人福島やさい畑、ですぐにサイト検索出来ます。(http://fukushimayasaibatake.web.fc2.com/)柳沼さんにそこで誘導係をして貰っていてはコンサートも聴いて頂けないので、公民館に行って頂き、筆者が暫く誘導係を交代した。

さて本番は、13 時ジャストに開演
 昨日と同様にプログラムは順調に進む。今日のMCはソプラノの林満枝さん。一般のお客様は横 9 名の並びで、前方に 4 列くらい居られる。約 40 名。

この後方に浪江町ウクレレ同好会が 2 列、フラダンス同好会の 2 グループが 3 列座っているから客演の方が総勢 45 名くらい居られる。

 コーロの追悼の歌を通して、の後、いよいよ客演ステージが始まる。まずは、浪江町ウクレレ愛好会。リーダーの太田敬重さんを中心にして、女性 5 名、男性 2 名、それにウクレレの指導をされている大場永次郎先生が横に立つ。メヌエット、涙そうそう、の 2 曲をウクレレのみで、そして、紅葉、アメージング・グレイスの 2 曲をコーロ共演で演奏。皆さん一所懸命に練習を積んでこられた立派な演奏であった。

皆さん「建設技術学院跡仮設住宅」に住んでおられる。因みにこの後のフラダンスの方々の中にも、同じ仮設住宅に住んでおられる方もおられ、同じ仮設住宅の同好会である為、ウクレレもフラダンスの両方のグループに入っておられる方が多いとの事、日頃の交流も深いと思われた。素晴らしい事。

 ここで一旦、コーロの流行り歌から2 曲の後、再び客演のステージ。

今度は浪江フラ・コスモスと、二本松フラ・プルメリアの 2 グループ共演でのフラダンスである。二つのグループを指導されている、懸田幸子先生も、一緒に踊られている。赤いスカートに黒の上着と、黄色いスカートに白の上着。どちらもハワイらしい彩りで、ハイビスカスの髪飾りにレイをかけての正装で、ウクレレでもリーダー役の太田さんが、フラダンスのリーダーも務められていた。横 7 名で3 列のダンスは壮観・華麗であった。

仮設住宅住まいの中で、元気を出していこうじゃないか、と言う連帯感がひしひしと伝わって来る。4 曲のうち、後半の 2 曲「Kaimanahira」と、「Pearly Shell」は豪華なコーロ合唱の伴奏付き。フラのラスト曲には事前印刷のプログラムと順序を入れ替えて、パーリー・シェルを持って来られた。

多分、皆さんこの歌で踊るのが一番お好きなのだろう。スチールギター特有のグリッサンドで転調する曲なので、歌うコーロも大変だったかとは思うが、踊る皆さん、楽しそうであった。衣装作りから練習までさぞ色々とご苦労されて、一方ではそれを楽しんで来られたのだと思った。

 そして、みんなで歌おう、それと昨日と同じアンコール2曲に大拍手が沸く中、盛り上がってコンサートは無事に終了。

 このあと、直ちに1階の大広間でお茶っこ。事前に並行して準備は用意万端。仮設住宅仲間も多いので、和やかに楽しいひと時が過ぎる。

 並行して 2 階の軽運動場の後片付け。これもロールマットを丸く畳んだり、椅子を台車にきっちり
と詰め込むので、結構大変であったが、設営を行なって要領が分かっていたので順調に終わった。

 最後に公民館の係員による、後始末の「ご視察」も終わり、完了。

 午後3 時半に安達公民館を出発。
柳沼さんを始めとする地元の共演団体の方々に見送られて、バスは帰路に着く。あれが安達太良山、長沼(高村)智恵子の生家も近くにある旨、表示があった。

 高速に入り、安達太良 SA で福島県産品を買って福島県を応援してから、只管南下。入日の安達太良山、磐梯山、那須連峰を順にシルエットで見ながら、新宿に向かう。飛石連休の中日と言う事もあり、大きな渋滞は無く、午後 7 時 30 分に新宿駅の西口付近に、その後、最終地の中目黒駅にバスは向かい、それぞれの思いを胸に秘めながら、流れ解散となった。

合唱団とサポーター、旅行団全員と、それを暖かく迎え入れて下さった南相馬と二本松の共演団体の皆さま、現地サポートスタッフとしてご支援下さった皆さまに対し、心からの感謝と御礼を申し上げてこの拙文を終わります。本当に素晴らしい経験と思い出を、有難うございました。(サポーター 鈴木涼太記)

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 短歌福島演奏旅行にて 藤原礼子(サポーター)

〜開通せし国道六号線を走りて〜
   海に沿ふ 大熊・双葉・浪江町
    人なき町は 緑いや濃く

〜音楽三団体の懇親会にて〜
   訛りある 言葉で語る野馬追いは
    疾駆の騎馬武者 目に見ゆるごと

〜下渋佐海岸にて〜
   村が消え 空白の地に建てられし
    津波の慰霊碑 撫でて愛しむ

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 旅行記の写真提供:
  千葉修一さま(サポーター)
  石谷隆雄さま(南相馬のボランティアご支援者)

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 編集後記(池田龍亮追記):
この旅行記が編集されていた時期に、昨年コーロの福島演奏旅行にサポーターとして参加されていた、戸張陽子さま(テナーの戸張勁さんの奥さま)が急逝されるという悲しいお知らせが入りました。以下に、ご葬儀の際、コーロ団員一同からお送りした弔電を掲載させて頂き、陽子さまのご冥福をお祈り申し上げます。

弔電:戸張勁様
「奥さまのご訃報に接し、お悲しみをお察しもうしあげますとともに衷心より哀悼の意を表します。
昨年 9 月の福島への復興支援演奏旅行では、陽子さまがサポーターとして応援に加わって下さった事、演奏会・お茶っこ茶話会では、福島の方々と和やかなお顔でお話されていた事、合唱団一同、よく憶えております。どうぞ安らかな旅立ちでありますよう、心からお祈りいたします。
                       混声合唱『コーロ・エスプレッシーヴォ』団員一同」

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2014 年コーロ・エスプレッシーヴォ福島演奏旅行団 参加者リスト
コーロ・エスプレッシーヴォ団員(合計 26 名)
指揮:池田龍亮、伴奏:平岩政子、
ソプラノ:浅海栄子、池田百合子、磯田裕子、加藤友子、杉原洋子、林満枝、安室順子(22 日のみ)
アルト: 池田淑子、上田愛枝、大塚万紀子、桑野晴子、越真理子、守本喜和子、守本裕美、滝川佳代(21 日のみ)、
テナー: 佐良土雅文、戸張勁、福井良太郎、藤原隆義
ベース: 浅海直之、池田進、金子正雄、清水康昭、蓑田逸郎

サポーター(あいうえお順)(合計 12 名)
金子慧子、上林一英、清水祐子(21 日のみ)、鈴木涼太、千葉修一、泊とも子、中村正敬、
深澤恵子、藤原礼子、三村恵子、宮下幸一郎、吉海健治

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編集部 後日夜、編集部にこのときのVideoが送られてきました、この中から少しだけ切り出してこのページに追加しようと準備中です。お楽しみに。(2014/10/29)