リレー随筆コーナー

福庭自治公民館長のレポート



 土井承夫(24期)


    

  平成30年度 第十一回 定例役員会 2018年11月3日(土)
 館長報告 >
館長 土井 承夫(どいよしお)

先日、長野市を訪れる機会がありました。秋たけなわの信州・長野市は紅葉と爽やかな冷気に包まれて、しばし至福の時を過ごしました。

あの「馬を引き連れ・・・」で有名な善光寺やその門前の仲見世通りは沢山の観光客で賑わっていました。特産の七味の専門店や信州蕎麦(そば)の店が連なり歴史と伝統を感ずるたたずまいに少なからぬ感動を覚えました。

長野県は人口約210万人で市の数が19もあり市町村の合計は77と全国でも北海道に次ぐ第2位です。また長野県は海に面していない内陸の県で周囲に接する県の数が8と全国一位です。(2位は岐阜県など)

2日目はあの内田康夫の小説でも有名な戸隠神社を訪れました。
戸隠伝説は「天の岩戸伝説」が合体して神々がこの地に降臨したとされ、鳥取の三徳山とはまた違った大杉の木立を延々と続く山道を上りつめたところにあります。

息を切らし汗をかいて到達した社殿からは紅葉の山々が一望でき、これぞ秋の信州といった感じでした。
さて、本題に移ります。

<今月の重要事項>

(1)

「福庭自治公民館新築プロジェクト」の進捗状況について
   
1. 8月と9月の「館長報告」でも説明しましたが「倉吉市からの助成金や補助金」は最高限度額を確保できました。(合計で 1,590万円

2. 「公民館の新築」に使っても良いと規定されている福庭自治公民館の貯金は合計で約682万円(特別会費と積立金会計の合計)〜一般家庭の生活費にあたる一般会計には一切手を付けない。〜

3. これに(A案) 自己負担金一世帯、最大5万円をお願いする。これは住民からの自主的な寄付金の額によって4万円→3万円→2万円と下がっていく。最大5万円の場合は総世帯数約420なので約2,100万円となる。

(B案)現在の公民館費を倉吉市の平均的な額まであげる。 すなわち、持ち家は一年あたり約1万円、アパートは約7千円〜現行の額より1〜2千円の値上げとなる。このケースの場合10年間続けたとして全世帯で約1,000万円を捻出できる。

4. 自主的な寄付金の金額にもよりますが今回の新築プロジェクトの財源の総額は概略で(A案)の場合は約 4,500万円〜5,000万円、(B案)は約3,300万円〜3,500万円です。

<重要>いずれの場合も最終的に財源が不足する場合は、今まで何回も言及してきた倉吉市が行っている「自治公民館施設整備資金貸付」制度を利用します。これは「貸付額:100万円以上2,000万円以下」で「償還期間:15年以内」です。8月の「館長報告」で記述した上余戸自治公民館殿はこの制度から約1,400万円を借りておられます。そして自己負担金一世帯当たり15万円を集めて総額5,500万円で新築されています。(尚、一応ご参考までに、近郊の新築自治公民館の一世帯当たり自己負担金は FH公民館、SD公民館とTJ公民館がいずれも一律30万円だそうです。)

私は4月、5月の「館長報告」で「強制的な自己負担金はゼロ」とか「このプロジェクトは絶対失敗しない」と豪語しました。然し、それも満更ウソでもなくて、それに近い形で実現しそうです。「仕事で失敗しない」ためには「常に最悪の事態を考えておく」ことです。〜このプロジェクトの最悪の事態とは、自己負担5万円でさえも反対多数で否決された場合です。・・その場合は、前述の「市の整備資金貸付制度」から借れる金額を,上余戸自治公民館並の1.400万円程度に設定します。世帯数が上余戸の1.5倍ある福庭が15年以内に返済できないはずがありません。そして上余戸は新しい土地代がかかったのに対して福庭は今の公民館敷地に建てるので旧建物の解体費が必要なものの土地代がいらないので、この点上余戸よりかなり有利です。

これで新福庭自治公民館建設の財源の確保・見通しはつきました。
上記(A案)、(B案)そしてそのいずれでもない第3案の中から全住民の皆さんお一人お一人に選択して頂きます。

その作業を来年2019年1月2日(水)の定期総会で行います。
宜しくお願い致します。
また、市の助成金支給の前提となる公民館の法人化については私と副館長の方で責任をもって行います。

(2)

最後に残った作業は8月の「館長報告」に述べている福庭自治公の法人化の手続きです。1ページで述べている倉吉市からの助成金満額1,590万円は、福庭自治公民館が法人化されている事が前提条件です。8月の報告書5ページにその手続きの内容を書いています。その作業は次の予定で行います。同8月の館長報告にありますように、これには「第一ステージ」と「第二ステージ」があります。

(イ) 第一ステージの「法人手続き」は現在の連名名義7名の財産目録、住民名簿、総会決議の証拠書類、公民館規約が揃えば、あとは申請するだけなので短期間に出来、司法書士等の専門家の関与は必要ありません。その様に以前アドバイス頂きご自分がこの件は担当すると言われた土井博文 副館長に来年2019年1月2日(水)の総会で「総会決議の証拠書類」を得た上で、当局に申請して頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

(ロ)第二ステージ〜「地権者からの権限移譲」については、専門的な経験 と知識が必要であり、専門家への依嘱が必要です。 今までの館長報告で再三申し上げているように今回採用する司法の 専門家は「福庭としがらみや利害関係の全くない」私の出身会社本社人事・法務部のアドバイスを受けて決定する首都圏の弁護士か司法書士です(福庭に事務所のある司法書士の方にも本件が始まる5月ごろにご了解頂いています)。

私は11月初旬に別件で3日間上京しますのでその際にH社本社に伺おうと考えています。計画としては、今年中に選任を終え来年初旬から作業にかかります。

以前にも申し上げましたが、選任された東京の弁護士さんが頻繁に倉吉の現地を訪問される必要はありません。これだけメールやインターネット(SNS)が普及している現代、通信のほとんどはこれらの媒体を使用します。倉吉に来られるのは最初と最後くらいでしょう。ですから交通費や宿泊費の心配は不要です。ただ、採用するからにはこの分野に確固たる実績をお持ちの方とし短期間で作業を完了してもらいます。そのためにコストがかかっても短納期で完成度の高い方が最終的なメリットは大と考えます。4月「館長報告」に上杉鷹山(うえすぎようざん)のお話をしました。この種のお金の使い方は常に「費用対効果」(ROI〜return on investment)を考えて行います。必要なお金は使って最大の効果を獲得し倹約はその上でやればいいのです。

だから上杉鷹山は後世まで「倹約の殿様」として尊敬されているのです。
成果を出さない倹約は倹約とは言わない」という事です。〜成果が求められない仕事は仕事とは言えない〜と同じですね。
 

もう一度、工期(納期)を下記の通り確認します。

新福庭自治公民館の完成は2020年(オリンピックの年〜即ち再来年の今から2年3か月後)の12月末を目標とさせて下さい。


    

<館長の行動日誌(10月分)>

10月1日(月)
河北小学校「菜の花プロジェクト」の種まきを小学生と一緒に体験した。
10月6日(土)
定期役員会が福庭公民館で開催される。内容は報告済み。
10月8日(月・
  体育の日)
倉吉市民球技大会ソフトボールの部に福庭チームが参加。
総産高校グラウンドでの試合を応援した。
10月9日(火)
「館長会」に出席。(上井公民館)内容は報告済。
10月10日(水)
福寿クラブ(福庭老人クラブ)の懇親会に参加。
当日は午前中同クラブのグラウンドゴルフ大会を予定していたが雨の為中止。懇親会のみとなった。
10月11日(木)
倉吉北高校の第二体育館及び柔道場の新築竣工・地鎮祭に出席。
10月12日(金)
倉吉市戦没者慰霊祭に出席(倉吉交流プラザ)。
福庭・波波伎神社 秋季例大祭(秋のお祭り)の前夜祭に参加。
10月13日(土)
波波伎神社例大祭の御幸行事に参加・大小の神輿(みこし)を青年団、小学校子ども会の児童・父兄が担ぎ終日町内を行幸した。
10月16日(火)
福寿クラブ(福庭老人会)の秋の奉仕作業(公民館の草取り)を実施。
その後、同公民館にて慰労会。
10月19日(金)
河北小学校の音楽会に来賓として出席。福庭子供会の児童と父兄の皆さん の大活躍に目を見張った。中田朱美 校長先生の若々しさも印象的だった。
10月21日(日)
倉吉市「邦楽演奏会」(未来中心小ホール)を鑑賞。合唱団の知人が名取り(阪昌寿黎子・さかまさじゅれいこ)を勤め、お琴を弾きながら唄う  調べは、クラシックのそれとは違う新鮮な感動を覚えた。
10月22日(月)
上井地区老人クラブ協議会主催の秋のミニ運動会に参加。(上井公民館 野外芝生広場)福寿クラブの活躍に暫し時を忘れた。
10月26日(金)
第5回男女共同参画会議(倉吉市人権センター)に出席。防災や人権をテーマとしたカルタ作りについて話し合った。
10月27日(土)
、28日(日)
長野県長野市に研修出張。内容は11月「館長報告」の通り。同日に実施された「あげい祭」(上井公民館)を運営する福庭のスタッフの皆様のご努力に深謝します(全来場者数:2,500名)。
 

    

〜 館長のちょっと一服コーナー 〜

―あなたは「福澤諭吉(ふくざわゆきち)」と聞いて、「一万円札」と         
                      「学問のすすめ」のどちらを想像しますか?―

突然ですが、今月は福澤諭吉のお話です。諭吉は大分の中津という所で下級武士の5人兄弟の末っ子として江戸時代末期の1835年に生まれました。そのため古い身分制度に苦しめられながら幕末の動乱期から明治にかけて生き抜き、明治の文明開化を先導し日本に新しい世界を切り開いた方でした。

諭吉が著した何冊かの書物を下記に紹介することで、その人柄と果たした大きな足跡を報告します。
 

(1)「学問のすすめ」

・・あの有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に 人を造らずと言えり」は皆さんが良く知っておられますが、実はこの続き があるのです。それは「されど、今広くこの人間世界を観るに 賢(かしこ)き人あり、愚(おろか)かなる人あり」そして「されど 賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」〜つまり「人は天の下に平等だが、賢いか否かの差は学問をしているか否か」だと・・これが大ベストセラーになり 私塾の学校を造るきっかけになりました。(「学問のすすめ」は明治35年1872年、諭吉38歳の時に刊行されました。)

(2)「西洋事情」
 
・・安政5年(1858年)諭吉24歳の時に中津藩より江戸に蘭学塾を開くのでオランダ語の勉強で横浜の外人街を視察するよう言われ行ってみたが、必死に勉強したオランダ語は全く役に立たなかった。そこで聴いたのは未知の言語「英語」だった。

これからは一切万事「英語」の世の中だと悟り英語を猛勉強した。そして幕府の使節団の一人に抜擢されアメリカ・ヨーロッパに渡るチャンスを得る。そこで見たのは、欧米の文明が遥かに日本より進んで おり、広大な土地に鉄道を走らせ多くの物資が運ばれ万国博覧会なども開催され大量の工業製品が世界中に送られていた。これを学んだ事で、小さい頃から「読み書き」や「計算」のみで他は儒学思想の教育がほとんどだった日本の教育制度に「歴史」「地理」「高等数学」「天文」などの専門性の高いカリキュラムを導入。一人一人が深い思考力を持つ人材を育て、その人たちが社会に貢献する事で、国全体が隅々まで向上していくと考えた。

さらに、徳川家康の子孫が260年も最高権力者にある日本と異なり、西洋では「アメリカの初代大統領のワシントン子孫が今どうしているか誰も知らない」世の中だった。 

つまり、欧米では「個人の能力」が第一で、それらの能力ある個人があらゆる分野で力を発揮し社会の発展を築いている。富国強兵のためには、この西洋式の教育方法で個人の能力を伸ばしていかなければならないと諭吉は強く思った。

(3)「福翁自伝」
 

・・上野での彰義隊と官軍の戦いを尻目に我関せずと講義を続けた。「此の塾あらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着(とんちゃく)するな!」→ 西洋は日本と決定的に何が違うかというと、「スピード感」が全然違うのである。

グズグズしないで自分一人で大胆な賭けをするチャレンジ精神が大事。「スピードに勝るものはない。」→ 「準備はじっくりやるんじゃなくて5割でスタートしろ!」→ 「速くやれば“先駆者”メリットといったものがつく」〜私の8月「館長報告」3ページにも「何倍もゆっくり時間をかけて完璧な結果を残すよりも、少々雑でも他者より早く完成させる方が仕事としては評価できる」つまり、第一は「スピード」ということであります・・と記述しています。

諭吉は続けて「スピードこそが皆より先に行って大成功を掴む 要件」〜「ママヨ浮世は三分五厘」、この世の中は完全なものではなく 7割程度のもの。だから自分も完全でなくていい、そのまま前へ ドンドン出ていけ。〜社会を変えるのは偉い学者や大臣や高位高官 などではなく「普通の人」で良い。諭吉の教育は「普通の人」を造る事。そして「たった一人でも“ノー”と言える人になれ。それが健全な市民だ。そういう人を育てたい」と。

(4)「時事新報」
 

・・「学問のすすめ」が大ベストセラーになってから、その 内容や思想を広く万人に伝える新しい媒体として「時事新報」という 新聞を創刊した。明治15年(1882年)諭吉48歳の時です。当時、新聞は政治中心の大新聞(体制派と反体制派の2種類)と 娯楽中心の小新聞があった。

「時事新報」はそのどれでもなく独自の立場に立つ「独立不羈(どくりつふき)」で、あらゆる「しがらみ」に捉われない自分の考えを そのまま表明する「中立の道」「独立自尊(どくりつじそん)」の精神をもって創刊された。ですから、政府に対しても自由民権運動に対しても遠慮なく物申した。

大事なのは「突破口はサービス精神」と考えたことだ。明治21年(1885年)諭吉55歳の時、時事新報は「天気予報」を掲載した。 これは日本の新聞で初めての事であり、更に続けて「料理コーナー」や「歌舞伎役者の人気投票」など当時、小新聞がやっていたような 事を取り入れ人気を博して行った。その様な「サービス精神」により 発行部数は1,500部から1万部へ劇的に増えた。しかし、だからと言って「論評」の質を落とした訳ではない。社会の問題を鋭く突いた。

(5)「日清戦争の勃発」
 

・・明治27年(1894年)諭吉60歳の 時に日清戦争が勃発しましたが翌年日本は勝利しました。国民が一丸となって国家を支える「国家主義」が盛んになって日本の産業も急激に発展しましたが、それによって「貧富の格差」が進んで、その厳しい労働環境が問題視されるようになり、平等な社会を目指して人々が一致団結する「社会主義」が台頭してきました。

・・そのため「国民一人一人が自分で考え独立してこそ国の独立も成り立つ」という諭吉の独立自尊の考え方は置き去りにされました。

(6)「福澤諭吉死去」
 

・・・・明治34年(1901年)福澤諭吉67歳で死去。
「脳溢血」が死因でした。そして、死ぬ最期まで次の事を訴えたのでした。
1. 日本の全ての人が独立して「ひとりだけでも」物事を考え仕事をしていけるようになる事を願う。
2. サービス精神で人々の気を引くようなアイテムを取り入れるのも大事だが、あくまでも肝心の「論説」の部分では決して力を抜いてはならない。
3. どんなに難しい内容でも「誰もが理解できるように非常に分かり 易い文章で書くこと」・・これは昨年の私の随筆報告8月号「キャスター国谷裕子さんの事」や7月号「平井伸治 鳥取県知事著“小さくても勝てる”〜砂丘の国のポジテイブ戦略〜」で申し述べています。

頭のいい人になればなるほど難しい文章ではなく皆がわかる丁寧な文章を書かれます。諭吉はいつも「サルにもわかる文章を書け!」と学生に言っていたそうです。

 
私は本年1月から前回まで10回にわたってこの「館長報告」を執筆してきましたが、その中で繰り返し「英語」「強引の様だが何でも一人でやる(独立自尊)」「不偏不党・中立」「誰もが分かる文章で伝える」「仕事はスピード」などを申し述べてきました。これは今まで述べてきた「福澤先生」の教えを最初に学んだからではなく、何十年勤めた会社の仕事のなかで培われた事ばかりであり、それが結局は福澤先生が仰っている事と同じだったというのが本当の所です。福澤先生の命日は2月3日です。お墓は東京の港区麻布十番という所にある浄土真宗「善福寺」にあります。普通の福庭で見かけるような石のお墓です。戒名は「大観院独立自尊居士」です。

福澤諭吉先生がやり遂げたかったもう一つ重要な事があります。
先生は「女性の自立や男女平等を否定するような事に対して徹底的に抗戦される」方でした。男尊女卑を否定し女性の自立を目指す筋金入りの「フェミニスト」でした。英語のフェミニズム(feminism)は女性の人権を尊重しその自立と活躍を目指すものです。これが福澤諭吉の生涯の目標でした。今の日本の現状は女性の就業率は高いですが管理職への採用は先進国中、断トツ最低の数パーセントです。

福庭自治公民館の役員にもっと女性を採用したいと考えています。
とりあえず、任期が女性部長だけ1年になっていますが、前から役員会で言っているように他の部長と同じ2年とし他の部長と同じ扱いで人選したいと考えています。ご意見があればお聞かせください。

福澤先生は「最後まで決して諦めない事」を結びの言葉にされています。
そして、こんなことも・・・
「私は濃い味噌汁が好きだ。それは、自分で薄めて自分の味にできるから・・」

今回も長文を読んで頂きありがとうございました。日増しに寒くなって参ります。皆様どうぞ風邪など引かれませぬようご自愛ください。



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