演説館(FORUM)

祖師・成田為三先生と「浜辺の歌」

 

小笹 和彦(4期


成田為三

はじめに 「祖師」とは妙なことば遣いだが、成田為三先生は楽友会員の師・岡田忠彦先生の師にあたる方なので、祖父母といった感覚でこの尊称を使わせていただくことにした。

当ホームページの記念文集(Anthology⇒Archive)に、岡田先生が「楽友」会誌の創刊号(1951年発行に寄稿された「N先生」という一文を転載してある。それで私は初めてN先生、すなわち成田為三先生(1893/明治26年12月15日-1945/昭和20年10月29が我々の祖師であると知り、そのご生涯と作品、なかんずく代表作といわれる「浜辺の歌」への思いが募った。

そこで祖師が学ばれた東京芸術大学、旧居の滝野川(北区)、生誕の地にある「浜辺の歌音楽館北秋田市米内沢」や各地の記念碑、そして最後に奉職された国立音楽大学周辺などをさまよい、古い楽譜や最新の資料を渉猟した。

しかし、その結果得られた情報は、極めて断片的な、限られたものでしかなかった。それは太平洋戦争末期の空襲で、貴重な作品や家財一切が焼失してしまったこと、また祖師ご自身が謙虚・寡黙の方で、ご自分のことについて殆ど語られぬまま、51歳の短命で急逝されたことによる。

その後祖師の高弟で、岡田先生が入学された頃、祖師と共に国立で教鞭をとっておられた岡本敏明先生(1907-77)を中心に、散逸していた楽譜資料やいろいろな逸話等が収集され公開されたものの、今なおその全貌は明らかでない。

そこで本稿は史実や証言を尊重しつつも、不明な部分は周辺事情と自由な想像で補う評伝となった。祖師追慕の一念で綴った個人的オマージュとしてお読みいただければ幸いである。

なお、今年の楽友三田会新年会では、祖師の愛弟子・岡田先生の指揮により、林光先輩の編曲による「浜辺の歌」を全員合唱することになった。何か不思議な因縁を感じる。


岡本敏明

顧みれば、今年は祖師没後65周年である。と同時に慶應義塾に女子高校が新設され、塾校と提携して塾内初の混声合唱団が組織された年でもある。そして先輩たちは岡田先生の指揮で、ハイドンの「天地創造」全曲を高らかに謳いあげた。だから、それをもって楽友会の始まりと考えれば、今年は楽友会創立満60年の記念すべき年ともいえる。

以下の拙文をまとめながら筆者は、楽友会がいかに多くの人との見えない絆によって生まれ、育まれたかを知ることができた。まさに「昔のこと、昔の人」をしのぶ日々であった。今ここに、祖師の愛弟子・岡田先生を中心とし、全楽友会員が一つとなり、祖師の若き日の名作「浜辺の歌」を合唱できる喜びを、あらためてかみしめたいと思う。

     

§1 上京

為三は青雲の志を抱いて独り故郷を後にした。満20歳、1914(大正3)年早春のことである。雪深い北秋田・森吉山麓の米内沢の実家には3人の家族がいたが、見送りに出てくれる者はいなかった。そこかしこ残雪を分けて萌え出でた若草が、ひそかにその前途を祝福しているかのようだった。

・・・それは覚悟の上のことだ。家族は為三が上京し、音楽の専門学校に入学することに反対していた。為三とてその理由が分からぬわけではない。

家は貧しかった。父・和三郎は町役場の吏員だったが事業に手を出して失敗し、母ミツが駄菓子屋を営んで生計を立てていた。2人の兄がおり、長兄・正吉は巡査をしていたが為三の師範在学中に早世し、次兄・憲生の存在も助けにはならなかった。そのような状況の中では、小学生時代から成績優秀で見事秋田県師範学校の難関を突破して進学し、卒業後は県内の小学校の訓導教員として安定した地位を得た為三をこそ、皆は頼りしていたのである。

それがたった1年で退職し、遠く離れた東京で再び学生になるという。しかも家族は西洋音楽のことなど何も知らない。反対されて当然だった。

だが為三は、師範に進学したことで、音楽の魅力にとりつかれてしまった。小学生の頃から「唱歌」を歌うことが大好きだったが、特に音楽的環境に恵まれていたわけではない。まだラジオさえない時代で、周囲に西洋音楽を趣味とする者もいなかった。それが、師範を卒業する頃にはベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」を音楽会で演奏するほどの腕前になっていた。

それは一にかかって沢保次郎という教師のお陰である。為三に学校のピアノやヴァイオリンなどの楽器を自由に利用することを許し、楽典を手ほどきしてくれた。為三の隠れた才能はそれによって芽吹き、やがて音楽家になりたい、という大きな希望に育ったのだ。

為三は学校の宿直室にこもって早朝から深夜まで机に向かい、極寒の冬には薬缶の湯で手指を温めながらピアノに向かい、夏休みに帰宅はしても、一日中部屋に閉じこもって作曲に取り組んでいた。たまに外出してもやることは決まっていた。近くの小学校でオルガンを弾くか、少年の時のように、山で歌うのが常だった。

そのように、無我夢中で音楽に熱中して師範学校時代を過ごしたから、田舎の小学校で、普通科教員でいることに耐えられず、周囲の反対を押し切ってまで東京への旅に出た。ただ一人、母・ミツだけが為三の心の慰めであり支えであった・・・。


山田耕筰

東京音楽学校現東京芸術大学では甲種師範科に入学した。だが既に秋田師範で教職課程を修了し、音楽の基礎的なことも学んでいた為三にとっては退屈極まりない授業が多かった。声楽や器楽を専攻する本科への転科を考えないでもなかったが、それではまた一からのやり直しで年齢的にムリと判断した。自ずと興味は楽理や作曲に向かった。

当時、研究科には作曲部があり信時潔(1887-1965)らの先輩が教鞭をとっていたが、師範科にはそれがない。そこで為三は、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰(1886-1965)に弟子入りする、と心に決めた。山田が個人教授を開始したと聞いたからである。だがそれは又、大変な覚悟を必要とすることだった。

家出同然の貧乏書生、奨学金はもらえたが下宿代や学校への授業料と教材費だけでも、秋田とは比較にならない出費であった。それに加えて山田への束脩や月謝をキチンと納めることは至難の業だ。しかし、そんなことで挫けたら折角上京した意味がない。煩悶の末、為三は運を天に任せて山田の門を叩いた。

すると意外にも、山田はあっさりと入門を認め、住込みの書生として遇してくれた。同門には近衛秀麿、大中寅二、宮原禎治といった俊秀がおり、学校の授業では得ることのできないさまざまな音楽的刺激を受けた。為三は文字通り臥薪嘗胆の日々を送りつつも、喜々として本格的な音楽修行に打ちこんだのである。

     

§2 「はまべ」との出会い

山田は陰に陽に為三を引き立ててくれた。それは為三の苦学力行する姿に、自分の過去の姿を見たからであろう。為三が「はまべ」を作曲した背景にも、山田の面影が濃厚に浮かぶ。

ある日為三は、牛山充(1884-1963)から突然1冊の雑誌を渡され、「この歌詞に曲をつけてみないか」と誘われた。牛山は東京音楽学校の講師兼学友会誌「音楽」の編集者で、1913(為三入学の前年・大正2)8月に発行した号に掲載した「はまべ」の作曲者を探していた。歌詞の下に「作曲用試作」と記しておいたのだが模範として掲載に値する作品がなかった。そこで牛山は在学中から親しかった山田に相談し、為三に白羽の矢を立てたのである。

・・・この牛山は、後に東京朝日新聞嘱託として、第2次世界大戦の前後に音楽とバレエ批評を執筆し、マスコミを舞台とした評論活動のパイオニアとして重きをなした人物である。東京音楽学校を中心とした人脈は広く、「はまべ」の作詞者・林古渓(1875-1947)とは師範科在学中に知り合い、「音楽」誌に度々その詩を寄稿してもらう仲であり、「はまべ」もその一つであった。

林は後に国・漢学者また詩人として名を成した人。本名を林竹次郎といい、神田生まれの江戸っ子である。


 古渓

10歳の時父を失い、池上本門寺に入って修行。哲学館現東洋大学を卒業後、同校付属の京北中学で国漢科教員となり、53歳で松山高校の講師になった。その間、東京音楽学校師範科や第一外国語学校イタリア語にも学び、知識の研鑽に励んだ真の教養人である。

中学では生徒たちから「達磨だるまさん」と呼ばれていたそうだ。仏教系の学校だから、そのニックネームは外観上の相似もさることながら、人物像を慕っての命名だったことだろう。

「はまべ」を作詞した背景は定かでない。ただ、林が3歳から6歳までを過ごした辻堂の先の茅ヶ崎寄りの海岸、あるいは新婚時代に20日間ほどを過ごし、暴風雨に見舞われた三浦三崎の思い出が鮮烈だったと伝えられているので、その光景が脳裡にあったのではないか、ともいわれている。

しかし残念なことに、その詩は「音楽」誌に原文のままでは載らなかった。その為今ではその全容を解することはできない。恐らくは紙幅の関係で4節あった原詞の第3節と第4節を、ムリムリ一つに統合してしまったものと思われる。後に林は「これでは意味が通らん」といって嘆いたものの時すでに遅く、原詞に復元することができないまま3節の歌詞が定着した。

 
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だが、その第3節が作詞者の意図にそうものでないことが明らかになった現在では、通常前の2節しか歌われない。従ってこの歌詞は永久に「意味不明」のままである。ちなみに「音楽」誌に載った歌詞は次の通りである・・・。

あした はまべを さまよへば、
むかしの ことぞ しのばるる。
かぜの おとよ、くもの さまよ。
よするなみも かひの いろも。

ゆふべ はまべを もとほれば、
むかしの ひとぞ しのばるる。

よする なみよ、かへす なみよ。
つきのいろも ほしの かげも。

はやち たちまち なみを ふき、

赤裳の すそぞ ぬれもひじし。
やみし われは すでに いえて、
はまべの 真砂 マナゴ まなご いまは。

     

§3 「はまべ」への付曲

為三は喜んで「音楽」誌に掲載された原詞に向かった。しかしどうも意味がよく分からない。単なる追憶の詩とも思えるが、恋歌のようでもある。病後の女が「はまべ」を歩いている情景かと思うが、そんな人が月や星を見ながら夜の海辺を独りで散歩するものだろうか。もしそうとしても、穏やかな月夜に、急に疾風はやちが吹いて波立ち、着物の裾を濡らすなんてことがあるだろうか。「まなご」とは何か。「浜の真砂」と「まなご愛する子」とかけて、砂浜にわが子の顔でも描いたのだろうか?

さまざまな疑問が浮かんで曲のイメージが定まらない。そこで試しに、その頃習っていた、ある<ウィーンナ・ワルツの調べ>に歌詞をのせて歌ってみた。するとそれがいかにも自然に流れ、気もちよく歌えた。そこで為三は歌詞の意味やアクセントにこだわることなく、そのままワルツのリズムで一気呵成に曲を仕上げ、耕筰の監修を受け、牛山に報告した。

・・・その頃、ウィーンナ・ワルツは時代の寵児であった。この種のワルツは明治時代・鹿鳴館の舞踏会で人気となり、大正時代にはレコードや蓄音機の急速な普及によって、西洋音楽愛好者に最もポピュラーな曲として知られるようになっていた。為三もちょうどその頃山田からそれらの曲を学んでいた。そしてその中で最も心ひかれたのがワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の「芸術家の生涯芸術家の生活」であった。だから「はまべ」の旋律はその第2ワルツの主題によっている・・・。

だが、なぜか牛山はその為三の処女作を「音楽」誌に掲載することはなかった。そこで「はまべ」は習作の一つとして、そのまま為三の手許に残った。しかし牛山は為三の作品を軽視したわけではない。「はまべ」とほぼ同時期に作曲した「始業式の歌」、「母よさらば」、「望郷の歌」の3曲は次々と「音楽」誌に掲載し、為三の作品を特別扱いした。

そして為三が卒業直前に作曲した「MENUETTO」という、愛らしいピアノ独奏用の小品を、1917(大正6)年2月発行の「音楽」誌に掲載してくれたのも、為三の才能を認めた、特別の好意の現れといえよう。

為三もそれを素晴らしい卒業祝い、また将来への激励と受けとめ、曲の解説に付して次のような決意を記し、感謝の意を表した。

・・・尚ほ今後私は一生懸命旅装を固くし
準備に準備して躓くことのない様に勉強し、
健全な
SymphonyOperaを書いて
更に諸賢の御指導を仰ぎたいと思ふてゐます・・・

- 成田為三 -

     

§4 「はまべ」から「浜辺の歌」へ

これに明らかな通り、為三は卒業前から既にその後の進路を決めていた。恩師・山田の後を慕い、ドイツへ留学し大作曲家になる夢を抱いていたのだ。

だが実際には1917(大正3)年の卒業と同時に、義務教生として佐賀県師範学校に赴任しなければならないこととなった。しかしそれは本意ではない。そのまま地方暮らしを続ければ、ドイツ留学はもとより、音楽家になる夢もついえると思った。そこで僅か9カ月でその職を辞し、翌年早々帰京して山田宅を再訪した。ちょうどその頃、山田から「できるだけ早く帰京するように」という話もあったからだ。

・・・実はその頃、山田はかつての門弟である「セノオ音楽出版社」の創業者・妹尾セノオ幸陽という人物から新しい歌曲の創作を頼まれ困っていた。その人は後に「セノオ・ヤマダ楽譜」というシリーズを刊行するほど山田の人と作品に心酔しており、しかも「セノオ楽譜」は飛ぶ鳥落とす勢いで発展している出版社だ。だから、むげに注文を断るわけにはいかない。しかし山田は公私ともに多忙を極めており、作曲にかかるゆとりは全くない。そこで、有望な新人として為三を紹介したのである。

妹尾もその状況を察し、素直にその推薦を受け入れた。そしてすぐに為三と会い、埋もれたままになっていた「はまべ」を発掘し、出版することにした。そうして1918(大正7)10月、その曲を「浜辺の歌」と改題し、美人画で有名な竹久夢二(1884-1934)の表紙絵をつけて出版してくれたのである・・・


為三にとってそれは一つの事件であった。「浜辺の歌」出版の反響の大きさは校内誌「音楽」の比ではなく、作曲によって収入を得たのも生まれて初めてのことだった。嬉しい半面怖いような気がして暫くは落ちつかぬ日々を過ごした。それは山田や妹尾の親切は身にしみてありがたく感じたものの、手にした楽譜の表紙絵があまりに艶めかしく、自分の作曲したイメージとかけ離れたものであることに違和感を覚えたからである。
 
・・・確かに「浜辺の歌」がよく売れたのは、竹久の表紙絵のお陰である。林古渓も成田為三も無名だったが竹久の知名度は抜群だった。特に「浜辺の歌」のすぐ後に発売された、竹久自身の詩曲:多忠亮による「宵待草♪待てどくらせど来ぬ人を♪」が空前のヒット曲となり、全国的な愛唱歌となったから、それに連れてこの曲も脚光を浴びたといえる・・・

だがそれが好かったのか、悪かったのか。為三は複雑な気もちでいた。<「浜辺の歌」が「宵待草」のように歌われてはかなわない>と思ったからだ。後者がいかにも感傷的な、情緒纏綿としたスロー・テンポで作られているのに対し、自分は「浜辺の歌」を、明るい軽快なワルツのリズムで歌うことを前提に作曲したからである。そこには自分が幼少時代に駆け廻った米内沢の山野の情景、なかんずくそこを滔々と流れる、阿仁川の光景を織りこんだつもりであったからである。

 

     

§5 「セノオ楽譜」と大正ロマン

「セノオ楽譜」は「ピース楽譜」ともいわれ、1冊20〜30概ね当時の「駅弁」の値段程度で販売された単曲譜であるが、古今東西の名曲を美しい表紙絵で飾った極めて水準の高い出版物であった。

目録では1910(明治43)年の「ドナウ河の漣(美しき青きドナウ」に始まり、総数では1,044点も出版され、その約1/3が竹久夢二の装丁で、他にも杉浦非水、岡田九郎といった著名画伯の絵が、従来の楽譜のイメージを一新した斬新なデザインとして、音楽愛好家のみならず多くの文化人が「大正ロマン」の表象と受けとめ、飛ぶような売れ行きを示した。

それに輪をかけたのが、大正初期に開花した山の手上流階級の子女たちの洋楽趣味である。彼女たちは競って「セノオ楽譜」を手にし、「ローレライの歌」や「カチューシャの唄」を歌ったり弾いたりして、花嫁修業に磨きをかけた。

一昔前までは長唄や筝曲の手習いがお稽古ごとの主流であったが、洋楽がそれにとって代わったのである。その背景には女学校の新設とそれに伴う女学生の急増があり、「セノオ楽譜」は時代の先端を行くハイカラ女学生やモガ(Modern Girlの略)たちのシンボルとなっていたのだ。

ちなみに「今日は帝劇、明日は三越」という当時の有名なキャッチ・コピーは、必ずしも観劇と買い物を意味しない。帝劇は文字通り劇場ではあるが、同時に首都圏第一の豪華な音楽会場でもあった。1914年にドイツ帰りの山田が東京フィルハーモニー会を率い、日本初の自作交響曲「勝鬨と平和」を初演したのも、後に述べる鈴木三重吉が、山田のアメリカ演奏旅行からの帰国を歓迎し、「赤い鳥」発刊1周年の記念を兼ねて開催した音楽会(1919年)も、この劇場だった。

また三越も、当時は7階ギャラリーに音楽サロンを設け、少年合唱隊なども組織して度々演奏会を催していた。現在本店1-2階の中央ホールに楽の音を響かすパイプ・オルガンも、当初は7階に設置(1930年)されていたものである。客たちはその音楽を聞いて、自然にレコードや蓄音機・楽器や楽譜売り場に足を向けたに違いない。

そうした時代の波に乗り、為三の名は「浜辺の歌目録番号98)」と共に一躍有名になった。妹尾はその後も「古戦場の秋左同112)」、「清怨左同119)」といった作品を続々と刊行して作曲家・成田為三の名を不動のものとした。だが、「浜辺の歌」の譜の奥付に記した次の一文が、為三に次の幸運をもたらすとまでは、考えていなかっただろう。

本曲の作曲者たる成田為三君は、山田耕作氏の門下で
作曲にたけた人です。それで、こうした作曲の一二を
世に問ふて見たいとの希望から、
ここに刊行いたす次第となったのです。
私は、今、成田為三君を我が楽界に紹介する
の機会を得たことを喜びと致します。
大正7年9月
- 妹尾 幸陽 -

     

§6 妹尾 幸陽(1891-1961)と楽友会

ここで少しく本題を離れるが、その人と業績について特記しておきたい。それは同氏が慶應義塾楽友会草創期に、指導者・岡田忠彦を通じて隠れた支援をして下さった方でもあるからである。

同氏は東京生まれで本名を幸次郎といい、慶大中退後、時事新報記者を経てNHKに転じ、1925(大正14)年の本放送開始時には洋楽主任を務めた。その傍ら1910(明治43)年から楽譜出版に手を染め、1915(大正4)年には「セノオ音楽出版社」を設立して音楽ビジネスを興し、楽譜出版をメインとしながらも、自ら音楽評論家、訳詞家、それに作曲も手がけるなど、多岐にわたる活躍で、日本における西洋音楽の興隆と普及に献身した。

惜しくもその偉業は一代をもって幕を閉じ、大正から昭和にかけて一世を風靡した「セノオ楽譜」は、今や古書店やアンティーク・ショップでしかお目にかかれない。

・・・後日譚となるが、それ等の内の1冊が為三から若き日の岡田に手交された。その楽譜には本人の手で鮮やかに「拝呈」と記されており、岡田は「私みたいな青二才の門弟に、何ともったいない」と恐縮しつつもありがたく頂戴し、その後長く愛蔵した。しかし1988(昭和63)年、為三の故郷に「浜辺の歌音楽館」が建立されたことを祝して同館に寄贈し、今は手許に置いていない。

だから岡田は「セノオ楽譜」の存在を知ってはいたが、妹尾本人に会ったことはなかった。しかし縁は不思議なもので、終戦後、両者は初めて回り逢う。だが、その話の前に、もう少し妹尾の動静を追ってみよう・・・

岡田が為三に弟子入りした頃は戦時色濃厚で、妹尾は不遇をかこっていた。戦前・戦中の敵性音楽排除と、戦後の極端な紙不足と猛烈なインフレや外貨統制で「セノオ楽譜」は新たな曲を出版することはおろか輸入販売もできず、過去の楽譜は無用の長物となって在庫の山と化していた。

しかし、妹尾はめげない。齢50を越していたが終戦を待って三田・豊岡町に「太陽音楽出版社」を興し、音楽界の新たな需要に応えた。それは軍国主義時代の反動として急速に広がった日本各地のオーケストラ再興や新設、あるいは学校や職場での歌声運動や合唱活動のための楽譜不足に対処することであった。

そのため妹尾は、NHKN響を始め全国各地のオケ、音楽学校、音楽団体などを駆けめぐり、かき集めたスコアーの断片や資料をもとに新たな版を起こし、粗悪な紙や戦禍を免れた印刷機や製本機を使ってオケ譜パート譜からピアノ・スコアー付きの合唱譜までの一切を取りそろえ、立派な楽譜に調整して提供した。大量販売など思いも及ばぬ、利の薄い仕事だったが妹尾は一生懸命だった。

ある日、岡田はその妹尾を日吉の慶應義塾高校音楽教員室に迎えた。有馬大五郎、岡本敏明といった国立音楽学校人脈を介しての初対面である。しかし、共通の知人である為三や岡本敏明等の消息、あるいは有馬大五郎を会長とする楽友会のことで話は尽きなかった。そしてそれ以後、妹尾は岡田の願ってもないよき相談相手となってくれたのである。

特に1955(昭和30)年、楽友会が慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの賛助出演で、初めてオケ付き定期演奏会(第4回)を企画したときの支援が忘れられない。曲はモーツァルトの「戴冠ミサ曲」と決めたが、その譜面調達がままならない。その頃も、事情は終戦当時とさして変わらず、学生たちは相変わらずガリ版を切って楽譜を作っていたのだ。しかしとてもオケ譜までは手が及ばない。妹尾に頼るしかなかった。

すると妹尾は、かつて快く為三の「浜辺の歌」の出版を引き受けたように、岡田の求めに応じて楽友会のために全ての楽譜を用意し、儲けを度外視した安価で提供してくれたのだ。山田⇒妹尾⇒成田⇒岡田⇒楽友会という師弟愛は、途切れることなく続いていたのである。

     

§7 鈴木三重吉「赤い鳥」との出会い

さて本題に戻ろう。この妹尾の好意による「浜辺の歌」処女出版が、為三に新たな幸運をよんだ。鈴木三重吉(1882-1936)から、創刊間もない子供向け童話・童謡雑誌「赤い鳥」への参与を求められたのだ。

鈴木は広島県出身で東大英文科に学び、夏目漱石の門下に入って在学中から「ホトトギス」に投稿して頭角を現した文士である。卒業後も中学の教員を勤める傍ら小説家への道を邁進したが、長女の誕生を機に方向を転換。1918(大正7)7月にこの月刊誌「赤い鳥」を創刊し、生涯をその編集と経営に捧げた。


鈴木三重吉

既に文人として名をあげ、文壇での交流も盛んであったから、この雑誌には芥川龍之介蜘蛛の糸、杜氏春、有島武郎一房の葡萄、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声といった錚々たる作家の協力を得ることができ、「鈴木の『赤い鳥』」は好調なスタートを切った。そしてこれが児童文学創作の世界に大きな変革をもたらす端緒となり、後に「赤い鳥運動」として知られる広範な文化活動に発展したのである。

発刊当初は童謡の世界にまで手が回らなかった。が、旧来のわらべうたや文部省制定の教訓的な唱歌にかわる、芸術性の高い童謡の創作と普及に乗り出そうと思っていた鈴木は、それにふさわしい「作曲にたけた」人材の協力を必要としていた。

作詞家には既に同人として北原白秋がおり、これに西條八十と三木露風を加えて盤石の態勢ができていた。ところが作曲者が思うに任せない。以前からその責任者に予定していた山田耕筰は超多忙であり、当時はアメリカで演奏旅行をしていていつ帰国するかも定かでない。

そこで鈴木は、ちょうどその頃評判になった「浜辺の歌」を手にとり、為三との交渉に踏みきった。その奥付きにある妹尾の推薦の辞が、目にとまったからである。

     

§8 「かなりや」  

鈴木が提示したのは「赤い鳥」1918(大正7)年11月号に掲載した「かなりあ」という西條八十(1892-1970)の詩であった。為三に異存のあるはずはない。直ちに作曲にとりかかり、その成果を鈴木と西條に示した。そして1919年発行の「赤い鳥」5月号に、その譜曲が「かなりや」と改題して掲載されたのである。

それがわが国初の「譜のついた童謡」の始まりであり、それ以後為三は「赤い鳥」の専属作曲家として、ほとんど毎号のように新曲を発表すると同時に、同誌が全国から公募した作品に目を通し、伴奏をつけたり、選曲・選評したりする責任者となった。

鈴木は「かなりや」を発表するとともに、「『赤い鳥』創刊1周年記念」と銘打った音楽会を催す計画を立て、直ちに帝劇を予約した。もちろんその音楽会の主目的は「かなりや」その他の新しい童謡を華々しく披露することにあったが、同時にそれは「赤い鳥」の賛同作曲家となった山田耕筰、成田為三および近衛秀麿の3氏を紹介する目的も兼ねていた。従ってそこにはアメリカから帰朝して間もない山田も出席する。


「かなりや」の曲が掲載された
「赤い鳥」第2巻5号
表紙は清水良雄画「青い雨」

為三が勇んで準備とりかかったのはいうまでもない。当時教鞭をとっていた赤坂小学校港区高学年の女生徒約10名からなる選抜メンバーで「赤い鳥社少女唱歌会」を組織し、「かなりや」と共に「あわて床屋作詞:北原白秋/作曲:石川養拙/伴奏作曲:成田為三」、「夏の鶯作詞:三木露風/作曲:成田為三」の計3曲を初演したちなみにこの「あわて床屋」は、後に有名になった山田の曲ではなく、「赤い鳥」が公募した作品の中から為三が選曲し、伴奏をつけた石川養拙の作品である

その晴れ舞台は5月号発売直後の6月下旬であった。評判は上々で、すぐにレコード化することが決まった。為三は意気揚々と初演メンバーを率いて川崎の日本蓄音機商会(日本コロンビアの前身)のスタディオに赴き、初の演奏録音に臨んだ。そのレコードがリリースされたのは、初演後僅かに半年を隔てた翌1920年のことであった。

そうなれば普及は早い。25年以降は妹尾の働きによってNHKの電波にも乗り、瞬く間に「かなりや」のメロディーは全国津々浦々にこだまし、世代を超えて長く歌い継がれる曲となった。だが悲しいことに、その歌声は戦争によって鳴りをひそめた。

しかし人々は決してその名曲を忘れることはなかった。そして戦後2年目(1947年)に施行された新憲法とそれに伴う学校教育法により、文部省が新たに編纂した小・中学生用の教科書に登場することによって普及に拍車がかかることになった。

「かなりや」は「歌をわすれたカナリヤ」と改題して「6年生の音楽」に、「浜辺の歌」は「中等音楽(3)」に載った。そうしてこの2曲が、いつでも誰でも歌える、世代を超えた愛唱歌となったのである。

その陰に、当時文部省で図書編集委員を務めた岡本敏明の絶大な支援があったことを忘れることはできない。岡本は終生、為三の忠実な弟子であり、またその音楽の偉大な伝道者でもあったのだ。

・・・為三の意を継いだ岡本は、岡田にとって兄弟子であり、為三亡き後の師ともなって岡田、ひいては楽友会草創期に絶大な後援をしてくださった方でもある。4期の筆者にとっても忘れ得ぬ方であるが、その話に脱線すると長くなるので、ここでは第1および第2回楽友会定期演奏会で指揮をしてくださった方であることを記すに止める。

ただ同氏を懐かしむ方には、次の2種のWeb閲覧をお勧めする。何れも岡本先生の薫陶を受けた小山章三氏の心あたたまる随想で、岡本師の人となりがよく現われている・・・

@http://gassyou-shidou.blog.so-net.ne.jp/2009-04-06相原末治氏のブログ中の「章ちゃんの合唱ばなし」
A
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ai520/koyama0.html「玉川通大♪合唱指導」のホームページ中の「くにたち音楽街道⇒1号館 章ちゃんの音楽街道」

     

§9 ドイツ留学

話は前後するが、「浜辺の歌」と「かなりや」によって、為三の名は作曲界にその人ありと知れわたる存在となった。だが為三の志が変わることはなかった。むしろ日本を離れ、かねてからの念願であったドイツ留学を実現することばかりを考えていた。

寸暇を惜しんでドイツ語を学んだ。もとより山田も為三の留学に賛同し、自分が学んだベルリンでの音楽修業実現に尽力してくれた。ただ金策だけが問題であった。自分の貯金だけでは足りず、他に頼らざるを得なかった。そこで恥を忍んであらゆる伝手を頼りにあちこち借金を頼み、援助者を探した。もとより交渉は難航したが、結果的には相応の資金を得ることができた。  

最もありがたかったのは鈴木が提示した破格の条件である。ドイツに行っても童謡を創作し、選曲や選評を寄稿してくれるなら、日本にいた時と同じ条件で毎月定額の報酬を送る、と約してくれたのだ。当時は第1次世界大戦の余波でドイツ・マルクの価値は著しく下落し、逆に戦勝国の日本円の価値は高騰していたから生活費はそれで十分だった。

渡航費については、故郷の母が奔走して目途をつけてくれた。近在の素封家が、既に有名になった為三を誇りとし、支援してくれることになったのだ。


Robert Kahn

かくて為三は、2年近く勤めた赤坂小学校を出発直前に辞し、1921(大正10)1月、27歳にして神戸港から勇躍ベルリンに向けて旅立ったのである。

ベルリンでは、山田が在学したベルリン音楽大学(Königlichen Hochschule für Musik in Berlin)のRobert Kahn(1865-1951)という高名な音楽家に師事することができた。同師はリリシズム豊かな室内楽やピアノ曲の作品で知られる巨匠で、ピアニストとしても有名であった。同校卒業後もRheinbergerBrahmsに学び、その後母校に招聘されて作曲科の教授となっていたのだ。

弟子にはピアノのA. RubinsteinやW. Kempff、指揮のF. Leitnerといった逸材が出て、50歳でプロイセン芸術院会員(Prussian Academy of Arts)に選出されたほどの重鎮だから、その門下生になることは大変な栄誉であった。だが一方、為三にとってそれは大変な重圧を意味した。

山田から事前にいろいろと聞いてはいたものの、あまり参考にはならなかった。幼児期からキリスト教環境になじみ、イギリス人宣教師の義兄に可愛がられ、音楽、語学と共に外交的センスを身につけ、東京音楽学校在学中にはいわゆる「お雇い外人教師」たちにもまれた経験があり、外では慶應のワグネル・ソサィエティー等を指導して種々の音楽的体験を積み、ドイツ留学費用の一切を三菱の岩崎小弥太男爵から支援された山田とは、その環境に雲泥の差があったからである。

為三にとっては何事も初体験であった。外人との接触、ことばの壁、キリスト教風土に根ざした生活習慣の大きな違い、あるいは人種的偏見に接して絶望を感じ、時には大酒して乱れることもあった。だがKahnとの出会いが幸いした。山田の場合とは違い、Kahnは内向的な美を重んじるBrahms派の音楽家であり、その作品も約1000曲に及ぶピアノ作品を中心する室内楽曲が主であったからである。

もしそれが山田の時のように「2人のR」、つまりRichard WagnerやStraussといった、とめどなく大きな構想をもつ音楽を志向する音楽だったら、為三のドイツでの音楽修行も、ロマン派から現代音楽に移行する時代の実地検分程度に終わっただろう。

しかしKahnBrahms等を通じてバロック時代の音楽に通暁していたから、為三にはむしろ洋楽の原点を示し、対位法による作曲を指導した。そしてそれが一般的に「カノン(Kanon/輪唱」という名称で親しまれ、学校で、家庭で、教会で、そして社会のあらゆる場で民衆に根付いていることを教えてくれたのだ。

それは、既に同様のジャンルに踏みこんでいた為三の関心とも一致する、うってつけのテーマであった。そこで為三は水を得た魚のように張りきって学習に励み、ベルリンでも上野時代と同様、粗衣粗食に甘んじつつ、得難い体験と学習を積み重ねたのである。

鈴木との契約もきちんと守って交信を続け、「赤い鳥」に新作や選曲・選評を送る作業を怠ることはなかった。また、そうして得た収入の中から、故郷の母へ毎月5当時の小学校教諭の初任給は10-20円程度。現在のそれは20万円程度。従って単純計算では現在の10万円相当の仕送りをすることも、決して忘れることはなかった。

     

§10 帰国、結婚

Kahnに師事したことで、為三の将来進むべき道はほぼ定まったといってよい。

それ迄の為三は山田一辺倒であった。母校の教師陣をさしおいて学外の山田に師事したのもその故であり、ベルリンに留学したのも師の足跡を踏襲しようと思ったからに他ならない。

山田は為三より7歳年上で、音楽環境は為三より恵まれていたが複雑な家庭事情で、長ずるに従い経済的に塗炭の苦しみをなめ、大変な重労働をしながら上野に通う身であった。だから「浜辺の歌」処女出版の時も、「赤い鳥」事業に参画する時も、そして何よりもドイツ留学に際しては、為三の窮状を察して格段の配慮をしてくれた。だから生涯の恩人として敬慕する念に変りはない。

だがベルリン時代に為三の心は次第に山田から離れた。否、離れるというよりも自己に目覚めたといった方がよい。彼我の違いを知り、自分の将来像を山田とは違った方向に求めるようになったのである。それは作曲家ないしそれをベースとした学者・教育者として立つことであり、山田のように華々しく楽壇にデビューし、多彩な活動で世間の脚光を浴びることではない。それが自分の性格にあい、時宜にもかなうことである、と確信した。

ドイツは、山田が滞在していた7年前よりもさらに状況が悪化し、戦勝国に対する過重な賠償金支払いで経済は破綻寸前。市民はすさまじいインフレと物資不足にあえいでいた。長い行列に並んで買い求めた生活必需品もすぐに底をつき、店頭から商品は姿を消した。政治的にはナチが台頭してファシストの勢いが増し、一方ではマルキシズムが浸透して労働者階級の不満をあおっていた。

そのような状態に見切りをつけ、為三は山田と同じ4年を限りとして1925(大正14)年1月、日本に帰った。思えば長い修行の旅であった。音楽家になる決意を固めて上野駅に降り立ってから、既に11年の歳月が流れ、為三は31歳になっていた。

「そろそろ身を固めなければ・・・」と思った。長年貧乏書生としてムリを重ねてきたため、頑健な体力にも軋みが生じていた。時折足腰に激痛が走るのだ。ろくに食事もとらず、ムリにムリを重ねて生活してきたツケがたまったのだろう。とりあえず東京・滝野川で教員をしている秋田師範時代からの親友・井上源吾宅に寄宿させてもらうことにした。そうして「赤い鳥」社を始めとし、既に交流のあるいくつかの出版社と出版計画を練っているうちに、井上がすばらしい話をもちかけてきた。

それは同じ滝野川に住む鈴木家の息女・文子との縁談で、話はとんとん拍子に進み、2人は1926(大正15)4月、井上の媒酌でめでたく挙式した。新居は新妻の実家の向かいに構えた。


新婚当時、文子夫人と京都嵐山で

     

§11 その後

こうして為三にとって滝野川は第二の故郷となり、生涯のうち最も幸せな時期をそこで過ごした。

北原白秋の詞による童謡の新曲が次々に「赤い鳥」誌上を飾り、「童謡の父」として世人の尊崇を受けるにいたった。またドイツでの成果も踏まえ、次々に楽書を上梓して音楽学者としての地歩を固めた。それ等は「初めて学ぶ人の西洋音楽」や同じシリーズの「初めて学ぶ人の対位法及びその作曲法先進堂書店」といった入門書から、「和声学六星館」や「作曲法講座1〜5音楽世界社」等の専門書、あるいは「創作童謡文録社」、「新撰二部、三部輪唱曲培風館」といった初等音楽教育用の実用的な楽譜集まで、広範なジャンルをカヴァーする名著として親しまれ、尊ばれるようになった。

子宝には恵まれなかったが、暇ができれば文子夫人と共に、向かいに住む義弟妹を銀座に誘って食事をしたり、鎌倉や江ノ島方面まで足をのばしてピクニックをしたり、また寒い冬には親友・井上と語らって秋田名物の「きりたんぽ」を皆にふるまう等、家族サービスにも余念がなかった。

神経痛で足腰が痛んだが外出を厭わず、結婚の翌年には秋田魁新報社主催の「成田為三・作品発表会/1927(昭和2)年」に出かけて故郷に錦を飾った。また、その翌年からは川村女学院を初め、東京音楽学校、東洋音楽学校に出講して後進の育成に努めることになった。

そうして教育者としての実績も積み、1940(昭和15)年から東京高等音楽学院現国立音楽大学教授に就任、後に楽友会の師となる岡田忠彦を弟子に迎えたその経緯については冒頭に記した「N先生」という、岡田本人の記した回想記に詳しいので、ぜひそちらを参照していただきたい。あたたかい師弟愛が胸をうつ

     

§12 終焉

しかし、その幸せは長くは続かなかった。世界大戦の暗雲が前途を閉ざしたからである。

・・・結婚5年目の1931(昭和6)年・満州事変、32年・上海事件と満州国建国、33年・日本の国際連盟脱退、34年・ドイツでヒットラーが総統に就任、35年・統制経済強化、36年・2.26事件/ドイツのラインランド進駐、37年・日中戦争起こる、38年・国家総動員法成立、39年・ドイツ軍ポーランド侵入第二次世界大戦勃発40年・フランス軍降伏/ロンドン大空襲/日独伊軍事同盟締結、41年・真珠湾攻撃太平洋戦争突入・・・

風雲急を告げる世となった。開戦時、為三は47歳になっていた。召集されることはなかったが、日々の生活は厳しさを増した。食料は不足し、満足な治療も受けられないようになった。

痛む足を引きずり、杖で体を支えながら都電と省線を乗り継ぎ、国立まで授業に通うのは大変なことだった。しかも44年11月には東京初空襲があり、それ以後は電車の運行もままならず、ガス・水道・電力の供給もおぼつかないものとなった。それでも為三は、身の危険をも省みず出講して学校を休むことはなかった。

だが45年4月13日、ついにB29の大編隊が軍関係施設の多い北区を襲い、為三の住居を含む滝野川周辺一帯も空爆によって焼きつくされてしまった。

急を聞いて岡田ら教え子が救援に駆けつけた時には、家財一切は灰燼に帰していた。が、幸いにも為三夫妻は一時的に難を逃れ、無傷であった。そこで岡田はリヤカーを調達し、僅かな身の回り品と共に、辛うじて戦禍を免れた上野の岡本宅へ夫妻を送ったのである。岡本夫妻が為三夫妻をあたたかく遇してくれたことはいうまでもない。

しかし、弟子思いの為三にとって、家族分の米さえ自由に手に入らない急迫した戦時下で、しかも昼夜を問わず「敵機来襲」の警報が連呼される都心部にあって、岡本にそれ以上の迷惑をかけることには耐えられない。そこで直ちに秋田の田舎へ疎開することにした。幸い故郷の米内沢では次兄の憲生が木炭業を営んで羽振りのよい生活をしていると聞き、そこに身を寄せることができると思ったからである。

上野駅には人が溢れ、田舎へ向かう人、焼け出されて家や親を失った浮浪児や負傷者でごった返していた。そのように殺気立ち、雑沓する人ごみの中では、見送りに来た岡田らの助力がなければ乗車券を手に入れることも、列車に乗ることもできなかっただろう。まともな方法で乗車することはできなかった。しかたなく夫妻は岡田らに抱きかかえられ、荷物のように窓から押しこんでもらって、ようやく車中の人となった。だがそれは長く辛い旅だった。

為三にとって、この時ほど故郷を遠く感じたことはない。青森行き急行の2等車ではあったが立錐の余地もない。発車はしてもすぐ警戒警報が出て途中停車を繰り返し、その度に乗客は空爆の恐怖に身をすくめた。

幸い憲生は弟夫婦を快く迎え入れてくれた。だが故郷を離れること既に31年。いかに血縁とはいえ、全く違う環境と価値観で過ごしてきた兄弟とその家族が、簡単になじめるわけがない。日がたてばたつにしたがい両者間には微妙な葛藤が生じ、気苦労の多い日々を過ごすことが多くなった。人一倍妻思いの為三は、都会育ちの文子の心情を慮って、一日も早く再び上京することを考えるようになっていた。

それでも戦時下では他にどうする術もない。「耐えがたきに耐え勅語」て間借り生活を忍ぶしかなかった。だが、その忍従の日々は意外にも早く終わった。戦争が終結し、東京にも平和が戻ったのだ。為三はどんな苦労をしてもすぐに東京に帰ろうと思った。しかし一面焦土と化した東京に住む家はなく、再び岡本に助力を頼むしかなかった。

岡本が師と再会できることを喜び、八方手を尽くして夫妻の帰京に尽力したことはいうまでもない。とりあえずの寓居として、当時勤務していた玉川学園に打診し、自分自身もそこに疎開していた学園内の女子寮の一室を手当てし、すぐに秋田まで出迎えに行った。

そして為三夫妻に付き添って玉川学園に着いたのが終戦2ヵ月後の1027日のことであった。肩身の狭い思いで過ごした秋田での生活は、約半年で終わったのである。為三は心から安堵して今後の抱負を語りつつ、何回も岡本の厚意を謝した。

だが岡本はその表情にフト不安を感じた。長旅と持病の神経痛や糖尿病のせいかとも思ったが、そこにはもっと深い、もっと長い間の疲労や心労が刻まれているように思えたのだ。

そこで他の弟子たちと共に先生の復帰を喜び、共に将来への希望を語りあおうと考えすぐ皆に連絡した。しかし10月29日(月)、岡田が「レッスン再開の歓びに燃えて、とるものもとりあえず駆けつけた」時には既に為三の息はなく、脳溢血で急逝された後であった・・・・・。享年51歳であった。

葬儀は玉川学園講堂で営まれ、岡本敏明の指揮する国立音楽学校と玉川学園の合同合唱隊が「浜辺の歌」を歌って霊前に捧げた。遺骨は郷里米内沢の龍淵寺墓地に埋葬された。

     

むすび: 心に残る証言抄

●文子夫人のことば

♯「子供の頃に遊んだ阿仁川のほとりを懐かしがっていました鮎川哲也著/唱歌のふるさと―旅愁/音楽の友社・93年」。

♭「趣味といえば小鳥や、金魚や鯉を飼ったりするぐらいです。梅の花が大変好きでしたので、梅の木を植えたりしました同上」。

♯「成田は温和しくて、ドイツ留学とか自分のことはほとんど語りませんでした。一日いっぱい書斎にとじこもっているときには、ほんとうに在宅かどうかも知れなかったほどです。子どもがなくて淋しかったせいか、近所のお子さんとあそぶのが好きで、よくなわとびやジャンケンあそびをしておりました。

しかし、音楽のことで自分がこうと信じたら、強情に押しとおすところがあり、作曲のことでは激しい感情をみせるときもありました。また、時間のことではだれにも容赦しませんでしたし、約束すればどこまでもそれをやり通すという人でした。お酒も自分からいいだしてからは生涯口にしませんでした永井隆一郎著/「浜辺の歌」の作曲家/「秋田の先覚」・秋田県広報課60年」。

●山田耕筰のことば

「秋田の方々は、もっと成田為三君を大切にしなければならない。対位法を駆使した作曲では、彼の右に出る者はいないからねー後藤惣一郎著/「浜辺の歌、顕彰の歴史をふりかえって」/浜辺の歌音楽館公式ガイドブック/秋田文化出版・08年・著者は同音楽館の終身名誉館長で、56年に山田氏と直接面談した時の会話から」。

●西條八十のことば

「ぼくは成田氏がぼくの童謡かなりやを、いわゆる唱歌式イージーゴーイングなかたちで作曲せず、かなりむずかしくもある高度な芸術的手法で作曲してくれたことに感謝した岡本敏明編著/「成田為三名曲集」所収/玉川大学出版部・65年」。

●「浜辺の歌」について、弟子たちのことば

♯「先生の代表作を『浜辺の歌』とすることは先生にとって御不満と思うのです。というのは本格的な作曲の技法をドイツで身につけられてからの力作が、まだ他にたくさんあるからなのです。けれども人口に膾炙している点からは、なんといっても『浜辺の歌』を代表作としてあげないわけにはいきません。

事実、この歌は今日でも、毎日全国のどこかの放送局から放送されています。中略またアメリカやヨーロッパのレコード会社でも吹込んでいますので、このメロディーは世界をおおっているのです。

aa’ ba’のごくありふれた2部形式のどこに、あのつきぬ音楽の魅力がひそんでいるのでしょう。6/8拍子の流れに乗った気品のあるロマンチックなメロディーが万人を魅了してやまないのでしょう中略

先生のお言葉をかりれば、この曲は先生が『上野の音楽学校在学中になんとはなしに作ったもので、歌詞のアクセントと旋律の一致などということは何も考えずに作ったので、今考えると冷汗ものですよ』ということになる岡本敏明著/唱歌の父・成田為三/教育音楽・61年3月号」。

♭「この曲は正しく歌われていません。みんなテンポが遅いんですよ。もっとサラリと歌うと良いのです45年9月作曲科卒の清水嘉介に、為三が語ったことば/和田多美子著/『浜辺の歌』と為三/国立音楽大学/84年刊所収)」

♯「『浜辺の歌』の旋律が日本の国に響く限り、先生は若く気高く日本に生きておられる、と不肖の弟子である私は元気づけられて、先生にあやかって子供への歌を書きつづけている岡本敏明著/「浜辺の歌」の成田為三/教育音楽・57年2月号」。

(2010年1月20日


主な参考資料(順不同)

1 浜辺の歌音楽館(公式ガイドブック)/秋田文化出版・08年

2 「浜辺の歌」の成田為三―人と作品/浜辺の歌音楽館編/同上・88年

3 唱歌・童謡ものがたり/読売新聞文化部/岩波書店・99年

4 唱歌・童謡-100の真実/竹内喜久雄著/ヤマハミュージック メディア・09年

5 山田耕筰―自伝 若き日の狂詩曲/山田耕筰著/日本図書センター・99年

6 唱歌のふるさと―旅愁/鮎川哲也著/音楽の友社・93年

7 鍵孔のない扉/鮎川哲也著/光文社文庫・89年

8 成田為三名曲集/岡本敏明編著/玉川大学出版部・65年

9 ウェッブ「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」

10 Robert Kahnについて:http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Kahn_(composer)

11 作曲家・成田為三の実像を学ぶ(北秋田市「公民館講座資料」:http://www.city.kitaakita.akita.jp/news/2008/07/0728/hamabenouta/kouza.htm

12 鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界:
http://www.library.city.hiroshima.jp/akaitori/top.html

13 その他、国立国会図書館所蔵の旧・東京音楽学校学友会誌「音楽」、児童文芸誌「赤い鳥」等の文献および教科書図書館(江東区)所蔵の戦後の検定教科書と教師用指導書等。

14 CD「菩提樹―ウィーン少年合唱団(浜辺の歌所収)」/東芝EMI・98年その他「芸術家の生涯(生活)」を含むウィーンナ・ワルツ集の演奏音源等。


編集部カッパより この大論文にはびっくりしました。秋田の田舎までオザサは足を運び資料を探してきました。実はこの原稿が送られてきたとき、私は病院のベッドの上でした。幸い1月16日からPCの使用許可が出ました。私自身がインターネットにつながらないと手足をもぎ取られたも同然です。入院していても「楽友」の本ページは一日の遅滞もなくアップできました。このページのハードコピーは岡忠さんに送られています。