§12 終焉
しかし、その幸せは長くは続かなかった。世界大戦の暗雲が前途を閉ざしたからである。
・・・結婚5年目の1931(昭和6)年・満州事変、32年・上海事件と満州国建国、33年・日本の国際連盟脱退、34年・ドイツでヒットラーが総統に就任、35年・統制経済強化、36年・2.26事件/ドイツのラインランド進駐、37年・日中戦争起こる、38年・国家総動員法成立、39年・ドイツ軍ポーランド侵入(第二次世界大戦勃発)、40年・フランス軍降伏/ロンドン大空襲/日独伊軍事同盟締結、41年・真珠湾攻撃(太平洋戦争突入)・・・
風雲急を告げる世となった。開戦時、為三は47歳になっていた。召集されることはなかったが、日々の生活は厳しさを増した。食料は不足し、満足な治療も受けられないようになった。
痛む足を引きずり、杖で体を支えながら都電と省線を乗り継ぎ、国立まで授業に通うのは大変なことだった。しかも44年11月には東京初空襲があり、それ以後は電車の運行もままならず、ガス・水道・電力の供給もおぼつかないものとなった。それでも為三は、身の危険をも省みず出講して学校を休むことはなかった。
だが45年4月13日、ついにB29の大編隊が軍関係施設の多い北区を襲い、為三の住居を含む滝野川周辺一帯も空爆によって焼きつくされてしまった。
急を聞いて岡田ら教え子が救援に駆けつけた時には、家財一切は灰燼に帰していた。が、幸いにも為三夫妻は一時的に難を逃れ、無傷であった。そこで岡田はリヤカーを調達し、僅かな身の回り品と共に、辛うじて戦禍を免れた上野の岡本宅へ夫妻を送ったのである。岡本夫妻が為三夫妻をあたたかく遇してくれたことはいうまでもない。
しかし、弟子思いの為三にとって、家族分の米さえ自由に手に入らない急迫した戦時下で、しかも昼夜を問わず「敵機来襲」の警報が連呼される都心部にあって、岡本にそれ以上の迷惑をかけることには耐えられない。そこで直ちに秋田の田舎へ疎開することにした。幸い故郷の米内沢では次兄の憲生が木炭業を営んで羽振りのよい生活をしていると聞き、そこに身を寄せることができると思ったからである。
上野駅には人が溢れ、田舎へ向かう人、焼け出されて家や親を失った浮浪児や負傷者でごった返していた。そのように殺気立ち、雑沓する人ごみの中では、見送りに来た岡田らの助力がなければ乗車券を手に入れることも、列車に乗ることもできなかっただろう。まともな方法で乗車することはできなかった。しかたなく夫妻は岡田らに抱きかかえられ、荷物のように窓から押しこんでもらって、ようやく車中の人となった。だがそれは長く辛い旅だった。
為三にとって、この時ほど故郷を遠く感じたことはない。青森行き急行の2等車ではあったが立錐の余地もない。発車はしてもすぐ警戒警報が出て途中停車を繰り返し、その度に乗客は空爆の恐怖に身をすくめた。
幸い憲生は弟夫婦を快く迎え入れてくれた。だが故郷を離れること既に31年。いかに血縁とはいえ、全く違う環境と価値観で過ごしてきた兄弟とその家族が、簡単になじめるわけがない。日がたてばたつにしたがい両者間には微妙な葛藤が生じ、気苦労の多い日々を過ごすことが多くなった。人一倍妻思いの為三は、都会育ちの文子の心情を慮って、一日も早く再び上京することを考えるようになっていた。
それでも戦時下では他にどうする術もない。「耐えがたきに耐え(勅語)」て間借り生活を忍ぶしかなかった。だが、その忍従の日々は意外にも早く終わった。戦争が終結し、東京にも平和が戻ったのだ。為三はどんな苦労をしてもすぐに東京に帰ろうと思った。しかし一面焦土と化した東京に住む家はなく、再び岡本に助力を頼むしかなかった。
岡本が師と再会できることを喜び、八方手を尽くして夫妻の帰京に尽力したことはいうまでもない。とりあえずの寓居として、当時勤務していた玉川学園に打診し、自分自身もそこに疎開していた学園内の女子寮の一室を手当てし、すぐに秋田まで出迎えに行った。
そして為三夫妻に付き添って玉川学園に着いたのが終戦2ヵ月後の10月27日のことであった。肩身の狭い思いで過ごした秋田での生活は、約半年で終わったのである。為三は心から安堵して今後の抱負を語りつつ、何回も岡本の厚意を謝した。
だが岡本はその表情にフト不安を感じた。長旅と持病の神経痛や糖尿病のせいかとも思ったが、そこにはもっと深い、もっと長い間の疲労や心労が刻まれているように思えたのだ。
そこで他の弟子たちと共に先生の復帰を喜び、共に将来への希望を語りあおうと考えすぐ皆に連絡した。しかし10月29日(月)、岡田が「レッスン再開の歓びに燃えて、とるものもとりあえず駆けつけた」時には既に為三の息はなく、脳溢血で急逝された後であった・・・・・。享年51歳であった。
葬儀は玉川学園講堂で営まれ、岡本敏明の指揮する国立音楽学校と玉川学園の合同合唱隊が「浜辺の歌」を歌って霊前に捧げた。遺骨は郷里米内沢の龍淵寺墓地に埋葬された。
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