演説館(FORUM)

ハイドン、オーストリア国歌、ドイツ国歌とパウケン・メッセについて

 

伴 博資(11期)


♪ 楽友三田会合唱団の次回定演(2010.11.23)のメイン・ステージの曲目が、ハイドンの「パウケン・メッセ」に決まりました。この曲は、楽友会50周年記念誌の記載によると、大学楽友会定演に於いて過去2回、演奏されています。

1回目は、1966.12.04の第15回定演で、12期の方々が4年生の時です。指揮、岡田忠彦先生、ソリストはS.沢田玲子、A.小笠原美智子、T.沢田文彦、B.宇佐美桂一の諸先生、オケは日本室内交響楽団でした。

2回目は、1975.12.11の第24回定演で、21期の方々が4年生の時です。指揮、岡田忠彦先生、ソリストはS.鮫島有美子、A.長野羊奈子、T.伯田好史、B.工藤博、チェロ.伊藤毅の諸先生、オケは新日本交響楽団でした。

♪ ハイドン(Franz Joseph Haydn)は、1732.3.31にローラウオーストリアに生まれ、1809.5.31にウィーンで死去した「交響曲の父」と呼ばれる大作曲家です。今年はその没後200年にあたります。

彼の音楽家としての活躍は、29歳だった1761.5.1.にハンガリーのパウル・アントン・エステルハージ候に招かれ、副楽長に就任し、アイゼンシュタットに居を移した頃から本格的になります。1762年3月に、パウル・アントン・エステルハージ候が没し、その後を弟のニコラウス・ヨーデス・エステルハージ候が継ぎました。1766年3月には、楽長ウェルナーが没し、ハイドンが新楽長に就任しました。同じ年、ニコラウス候は、夏の離宮としてエステルハーザをノイジードラー湖の対岸に新築しました。

♪ 有名な「さよならシンフォニー」は、1772年に至って、侯爵の夏期休暇のお供をして、エステルハーザに長期滞在を余儀なくされた楽団員達が早く自宅に帰れるようにと、ハイドンが作曲したものです。この曲の終わり際に、壇上の楽団員が一人ずつ楽譜を映す明かりを吹き消して退場し、最後には2人のヴァイオリンと指揮者ハイドンだけが残るという寂しいものです。この曲を聴いたニコラウス候は楽員達の自宅へ帰りたい気持ちを察し、早速全員の帰宅を許したという事です。

ハイドンは、1790年9月28日にニコラウス候が没する迄、楽長として活躍しました。ニコラウス候の後を継いだアントン・エステルハージ候は、音楽に趣味がなく、楽団は解散されてしまいました。ハイドンは名誉楽長の肩書きと年金を手にし、ウィーンに移住しました(ここにいうアントン・エステルハージ候は、先のパウル・アントン・エステルハージ候とは別人です)。

その後の1791年1月から翌年6月迄と、1794年2月から翌年8月迄の2度に亘る英国長期滞在が彼の音楽を更に一回り大きくさせました。1795年8月には、当時のイギリス国王ジョージ3世が、ロンドンにおけるハイドンの圧倒的な好評に共感し、イギリスにとどまるよう要請しましたが、ハイドンはそれを断り、24,000グルデンの退職金?を懐に帰途につきました。ハイドンの胸中には、祖国オーストリアがナポレオン軍の侵攻を受けている事に対する不安と、自分も何かをしなければならないという思いがあったのでしょう。それが後述のオーストリア国歌作曲に繋がります。

ウィーンに戻ったハイドンは、ニコラウス2世候の依頼によって再度エステルハージ家の楽長に就任し、楽団が復活しますが、以前ほど繁忙では無かったのです。そして、1804年に楽長職から引退しました。

彼の逸話としては「びっくりシンフォニー」、「おもちゃのシンフォニー」などいかにもいたずらっ子がそのまま成人したようなハイドンの面目躍如たるエピソードが残されています。その他にも、女王マリア・テレサとの少年時代の出会い、40年後の再会に関しての話など、逸話には事欠きません。

♪ さよならシンフォニーに続き、それらのエピソードのうちから、オーストリア国歌と弦楽四重奏曲「皇帝」について、そしてハイドンが病床にいた時の、この曲を介してのフランス侵攻軍との間の出来事について紹介します。

ハイドンは、前記の2度に亘るイギリス滞在中に、イギリス国歌「God save the King」が英国民の愛国心を高めているのを見聞し、大いに感動しました。前述のとおり、当時祖国オーストリアは、ナポレオンの侵攻下にあって大変な苦難の時期でした。このためハイドンは、英国国歌と同じような国歌を祖国のために作曲して、国民に精神的な支えを与えたいと思ったのです。

この考えは早速、時のザウラウ首相に伝えられ、詩人レオポルト・ハシュカに作詞が依頼されました。この詩に基づいてハイドンは1797年、皇帝フランツ1世の誕生日(2.12)に国歌として発表したのです。この曲はその後現在でもオーストリア国歌としてではなく、ドイツ国歌として歌われています。メロディーは、讃美歌に詳しい方は「栄えに満ちたる神の都は」という歌詞で歌われているのをご存知でしょう。

オーストリア国歌としての歌詞は次のとおりです:

(訳詞)

「神よ、皇帝を守り給え。

我らの良き皇帝フランツを、

幸福に輝く栄光の座に永遠につかしめ賜え。

栄えある名誉の冠を授け賜え。」

 

但し現在のドイツ国歌は、メロディーはハイドンのものですが、歌詞は当然の事ながら、次のようにドイツを讃えるものに変わっています:

これは旧ドイツ連邦共和国(西ドイツ)国歌であった「ドイツ人の歌」の第3節を、統一後もドイツ国歌として使っているものです。

(訳詞)

「統一と権利と自由を ドイツの祖国のために!

これに向かってみな励まん

兄弟の如く心を一つに 手を携えて!

統一と権利と自由は 我らが幸せの証

この幸せの光輝に 栄えよ

栄えよ ドイツの祖国!」

(資料提供:ドイツ連邦共和国・日本大使館)

譜面ダウンロード

この曲の第1節の冒頭は有名なDeutschland, Deutschland uber alles,uber alles in der Welt,という歌詞ですが、諸般の事情から現在は第1節、第2節は省略して第3節だけが国歌として歌われています。

また、このメロディーは、ハイドンの弦楽四重奏曲第77番「皇帝」の第2楽章で、変奏曲の主題及び第1〜第4変奏曲として計5回に亘り使われているものです。

なお、現在のオーストリア国歌はモーツァルトの作曲によるもので、「友よ、いざ友よ」という歌詞で、皆さんも歌ったり聴いたりされた事があると思います:

これがドイツ語の歌詞で、作詞はパウラ・フォン・プレーラドヴィックです。

(訳詞)

「山岳の国、大河の国

田園の国、聖堂の国

槌の国、未来豊かな

偉大な息子たちの故郷

美の感覚により称えられる民

大いに賞賛されるオーストリアよ」

譜面ダウンロード

第3節迄あるのですが、国歌としては第1節だけが歌われています。

♪ さて、1809年5月、フランス軍がウィーンに迄攻め寄せ、敵の散弾射撃の弾丸がハイドンの自宅付近にも落ちてくる程でした。その頃ハイドンは療養中でしたが、家人がハイドンに避難するようにいっても同意せず、泰然自若として「皆、騒ぐ事はない。ここにハイドンがいる限り、絶対に心配するな」といって、自分が作曲したこの国歌を三度も悠々と演奏しました。砲弾の轟く中、どこからともなく聞こえてくるピアノの音に、フランス兵士たちも耳を傾けました。その音楽が、ハイドンの家から聞こえてくる事が分かると、兵士達は侵攻を止めて自陣へ帰って行ったそうです。

また、この直後にハイドンは亡くなったのですが、その葬儀にはフランス兵士も参列したといわれています。但し史実としては、ウィーンはナポレオン軍の侵攻によって落城し、この年の5月13日にはナポレオン軍のウィーン入城式が行われました。その直後、5月31日にハイドンは息を引き取りました。

ハイドンの葬儀は、6月1日に家族だけの密葬が営まれ、遺骸はその日のうちに、フントシュトゥルム墓地に埋葬されました。翌2日にはグンペンドルフ教会でレクイエムが行われました。6月15日にはショッテン教会でウィーン市民による追悼式が行われ、モツ・レクが歌われました。

♪ 漸くここからパウケン・メッセの話に入ります。パウケン・メッセ(Paukenmesse)は、直訳すれば「太鼓又はティンパニーのミサ」という事になります。ハイドン自身は自筆でこの曲の楽譜に「戦時のミサ」と書いています。

この曲が作曲された1796年には、繰り返しになりますが、オーストリアに対するナポレオン軍の激しい侵略が展開されていました。「戦時のミサ」の名称は、オーストリア国歌の作曲者であり、イギリス滞在で音楽家として大成功を収めたにも拘わらず、英国々王の永住の勧めを振り切って帰国したハイドンの愛国心の発露と、フランスの脅威に対する怒りの表明ともいえるものなのです。

特に、Agnus dei の部分では独奏ティンパニーが用いられ、戦いへの恐怖と平和への強い願いが鮮やかに音楽化されているところから「パウケン・メッセ」と愛称されるようになりました。この曲は1796.12.26に、ウィーン近郊にあるピアリステン教会で初演されたと伝えられています。オケ、オルガン、ソリスト4人、合唱団の編成ですが、文献によると一時はソリスト6人で演奏された事もあったようです。

♪ 楽友三田会2期の中野博詞先生はその著書「ハイドン復活」の中で、この曲についても詳しく触れられています。その部分を、ご本人(奥様)のご承諾を頂き、ここに引用させて頂きます。

「このミサ曲がエステルハージ侯爵夫人の命名日の祝祭のために作曲されたことはすでに指摘した通りですが、ハイドン自身によって記されたこの『戦時のミサ』という題名は命名日のミサ曲には不似合いのように感じられるかも知れません。しかし、ハイドンがオーストリア国歌を作曲したほどの愛国者であったこと、そして、この曲が作曲された1796年のウィーンをつつんだ暗雲を思い起こせば、タイトルに託された意図は理解できるでしょう。

当時、北イタリア各地に展開されたオーストリア領に対するナポレオン軍の激しい侵略は、ウィーンを恐怖のどん底へおとしいれました。戦いはすでに軍隊だけのものではなく、民族の戦いと考えられ、ウィーンにも義勇軍が組織されます。1796年に市民の愛国心をかきたてる演奏会が数多く行われていることからも、ウィーンの異常な雰囲気がうかがえます。

9月に義勇軍のために開かれた演奏会では、まず<驚愕>交響曲の第二楽章の太鼓の強打が戦いと結びつけられて演奏され、つづいてジュスマイアーの<危難に立ちむかう騎士>というカンタータが上演されたと報告されていますし、この演奏会は1796年に5回も催されたと伝えられています。そして、ベートーヴェンも、ウィーンの義勇軍の出征にあたって<ウィーン市民への別れの歌>(Wo0121)という歌曲を作曲しているのです。

オーストリアの平和を脅かすナポレオンへのウィーン市民の激しい怒りが燃え上がった年に、強い愛国心をもつハイドンはハ長調のミサ曲を作曲し、<戦時のミサ>と自ら名付けたのでした。さらに、このミサ曲の特徴を明確にするために、別名「太鼓ミサ」というニックネームの由来となった、グリージンガーの文章を紹介しておきましょう。

『このミサ曲のAgnus Dei では、<神の子羊、世の罪を除きたもう主よ>の言葉では、あたかも、既に遠くから敵がやってくるのを聞くような太鼓の伴奏を伴う特徴あるやり方で歌われる。つづく<われらに平安をあたえたまえ>の言葉では、突然、合唱とオーケストラのすべてのパートを感動的にひびきわたらせる』

交響曲の密度の濃いスタイルと伝統的なミサ曲のポリフォニックな書法が見事に融合されたこの作品は、長年にわたってミサ曲を手がけてきた豊かな経験をもち、交響曲をすべて作曲し終えたハイドンにして初めて書き得た独特なミサ曲といえると思います。同時に、ハイドンが人の心の奥底をえぐる激しい感情を表現し得る作曲家であることを強く感じさせられる作品といえるでしょう」「ハイドン復活」P251〜254

この曲以外にも、ハイドンについて興味のある方は、中野先生の「ハイドン復活」、春秋社刊、1995.11.10第一刷、定価4,120円税込み当時をお読み下さい。

♪ この曲のCDを久し振りに聴き直してみました。指揮はプレストン・ゲスト、ケンブリッジ・セント・ジョーンズ・カレッジ聖歌隊、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールド、1969年7月の録音です。楽器編成は、弦楽5部、フルート、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、クラリーノ2、ティンパニー、オルガンです。但し自筆楽譜にはフルートは含まれていません。演奏時間は正味40分23秒でした。

♪ 個人的な感想ですが、このミサ曲は全編概ねフォルテ又はフォルティッシモで、ピアノ又はピアニッシモは僅かです。特にDona nobis Pacem は中野先生の文中でグリージンガーがいっているように、まるでファンファーレです。

また、ソロと合唱の絡みが多いソロ部分のソロ単独は多くないので、その掛け合いが難しいと思います。オーケストレーションはいかにもハイドンらしさに満ちており、随所に「天地創造」のそれを思い出させるメロディーやハーモニーが使われています。

歌う方は、体力的にも大変なのではないかと思いました。それでは皆さん、これから1年間、頑張って練習に励みましょう。以上(2009.11.20)


編集部から: これは「楽友三田会合唱団」の団員向けに書かれた文章ですが、文中にあるように、楽友会共通のレパートリーに関することなので、多くの三田会員に関心あるテーマと考え、Forumの一としてここに掲載させていただきます。同合唱団の活動に興味のある方は「楽友三田会」のページをご覧ください。

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