リレー随筆コーナー

伴先生のアインザッツ


岡崎 里美(27期)



伴 有雄(1期)

大学卒業後、「マイスターコーア」で数年間歌ったのち、伴有雄先生の死とともに私の合唱活動は途絶した。以来、仕事と子育てに追われ、合唱から遠く離れた日々を送った(楽友三田会の新年会や現役交歓会も会報で知るだけ、創立50周年演奏会にも出ていない)。

50歳を過ぎたある日、ふと思った。「私は合唱と無縁のまま、年老いていくのだろうか?」 歌える残りの人生は短い。しからば歌うべきはバッハ! と、前後の脈略なく思った(伴先生がお亡くなりなる年、ヨハネ受難曲の練習に参加しなかった後悔が、意識の底にずっとあったのかもしれない)。
 

一念発起、都内の某“カンタータを中心にバッハだけを歌う合唱団”に入り、月2回の練習、年1回の定演に取り組むことになった。始めてみて愕然としたことがある。ひとつは、内声を聴き取れなくなっていたこと、もうひとつは、Dis程度の音を出せなくなっていたこと。そして、たかだか3時間の土曜練習が終わると、声はがらがらに荒れた…。

バッハのカンタータと言えば、147番のコラール「主よ人の望みの喜びよ」しか知らなかった私に、バッハ合唱団で最初に歌ったモテットは第5番です。その後、2、6、4番と年ごとに歌った演奏体験は、奥深く光る鉱脈の在りかを教えてくれた。そうして、この合唱団を中心とした“歌う”活動が再び、私の人生の中軸に据えられた。

2016年10月23日(日)、私は出身高校の創立140周年記念演奏会のステージに立っていた。音楽部(合唱班/弦楽班)の卒業生に、吹奏楽部の卒業生を加えた臨時編成のオーケストラと合唱団の合同演奏会である。曲目は、チャイコフスキーの交響曲第5番とハイドンのオラトリオ『天地創造』抜粋。客演のプロ指揮者、テナーとソプラノのソリストを除いて、バスとアルトのソリスト、練習指揮者を自前で賄い、オーケストラと合唱団はメンバーの9割方を現役から70歳代までの卒業生が占める。私の故郷・松本市は才能教育研究会(スズキメソード)の本拠地であり、弦楽器やピアノを中心に、何かしら楽器の嗜みがある人が多い。合唱も、やはり本部の置かれた信州大学の混声合唱団やそのOBを中核とした市民合唱団、かつてコンクール出場の常連校だった教育学部附属中学校合唱部などがその盛んな活動で知られている。最近ではSKF(サイトウキネンフェスティヴァル)やその後継であるOSMを市民挙げてサポートし、マエストロ小澤征爾が率先して展開するアウトリーチによって、小学校から市民バンドまで吹奏楽のレヴェルも上がっている土地柄である。

とはいえ、『天地創造』の合唱練習の開始は3年前まで遡る。松本練習と東京練習をそれぞれ月1回、音取りに2年、ドイツ語に半年、マエストロ練習に半年という、気の遠くなるような長期計画である。その理由の一方は、松本の主要メンバーがいくつもの音楽活動を並行して行っていること(OSM合唱団を含む)にあり、他方は高齢の諸先輩がふだん合唱活動をほとんど行っていないことにあった。ゆえの月1回であり、3年間であった。マエストロによる合唱練習は7月から都合3回(オケのハイドン練習は単独で5回組まれたという)、8月に東京でソリスト合わせ、9月と10月に1回ずつのソリストを交えたオケ合わせを経て、本番前日のリハ、当日のゲネプロ、本番、という段取りである。

客演指揮者としては破格の介入(?)ながら、9月の初回オケ合わせが終わった時点でも『天地創造』は前途多難を予感させた。合わない、のである。合唱が、オケの各パートが、オケとソリストが、オケと合唱が、入りが、テンポが、フレージングが、アゴーギクが、ディナーミクが…。破綻を来すほどではないが、合わない。合唱では平明そうに見えるハイドン楽曲の難しさを随所で痛感する。しかし、一番の関門は、オーケストラのインテンポ志向(?)ともいうべき習性であった。歌の伸び縮みに合わせる、耳と心が当初はなかったのである。ソリストが素晴らしい“歌心”の見本を示しているのに、オブリガート楽器がそれを聴いて合わせられない。前日のリハ、当日のゲネプロまでその懸念は引き摺られたが、最後の最後に目指す音楽を全員で共有することができ、前半のチャイコフスキーでギアを上げたオケがポテンシャルを発揮して、1回限りの本番を成功させることができた。

バッハの合唱団で歌い、ハイドンの合唱団に加わって、強く感じることがある。それは学生時代には、全く意識しなかったこと、意識しなくてもできたこと、がもはやすんなりとはできない。歌うために必要なあらゆる身体機構のコントロールをきわめて意識的に行わなければ、こう歌いたいというイメージと予測を実現できないのである。ブレスの取り方、呼吸の保ち方、音程の取り方(増減音程の跳躍やクロマティック、スコアの和声のなかでのハモりないしぶつかり)、発音(母音の構えや子音のタイミング)、リズム、フレージング、ディナーミク、アゴーギク――楽譜に書かれたことをそのとおりに、あるいはできるだけそれに近く表現するために、身体機構と身体感覚のしかるべきタイミングでの準備が不可欠なことを、痛烈に認識する(若い頃はほとんど無意識、無自覚だったのだ…)。自分の課題をクリアしたうえで、今度はパート内で、さらにはパート同士で、音楽の方向性を共有しなければならない。ハイドンではとりわけ、拍節感とテンポ感を同期させる必要性を痛感した。歌うたびに代わるメンバーで、それを実現するのはとても難しい。歌いながら聴き、聴きながら歌う(聴いて調整し、調整して歌う)。若い頃(というよりつい最近まで)、私たちがやっている音楽は芸術であって、求められるのは芸術としての理解とセンスだと思い込んでいた。テキストの解釈が大切であることは変わらないが、今の私にとって、歌は身体感覚を研ぎ澄まし、身体機構をコントロールすることに尽きる。芸術と言うより運動に近く、運動を全うしての芸術だ、と素直に思える。

身体機構・感覚を意識するようになると、不思議なことに、鑑賞者として聴くだけの音楽の質も変わってくる。鑑賞者である私の身体が、舞台上で演奏される音楽に同期して反応する、と言ったらよいだろうか。本番を歌った経験のある合唱曲や、(まったくものにならなかった)ピアノのレッスンで弾かされた曲などでその傾向が強いのは当然のことだろう。心理学や認知科学でミラリングやタウ、コミュニカティヴ・ミュージカリティと言われている概念に近い感覚である。テキストの理解も含めて、“音楽が身体に入る”というような体験が、私と音楽との関わりの質を変えてくれることを期待したい。

そんなことを考えるとき、懐かしく思い出されるのが、伴先生のアインザッツである。先生はアインザッツに命を懸け、アインザッツで命を削った、と言ったら大袈裟だろうか。本番であろうと、繰り返される練習であろうと、先生のアインザッツには一分の隙もなかった。構えるだけで、団員は一丸となり、引き寄せられた。振り上げ、振り下ろす腕とブレスのスピード、眼光と表情(真摯なお顔も柔和な眼差しも忘れ難い)――その短い一瞬に、それから始まる曲、楽章のすべてが表された。団員はそのひと振りを信じて、付いていきさえすればよかったのだ。私たち(27〜30期)は30回記念という節目もあり、定演でシューベルトを振っていただく幸運に恵まれた。卒業後のマイスターコーアを含めて、あの吸い込まれるようなアインザッツにたびたび接することができた経験は、私の人生の僥倖と言うしかない。

(2016/11/25)

リレー随筆のバトンは、27期の中達哉さん(学生指揮者)に渡りました。

(2016/11/29)

    


編集部注 若い岡崎さんが図らずも伴有雄さんのことを書いてくれた。伴さんの指揮というのは経験した人でなければ分からない魂(spirit)を持っておられた。わたしはどれだけ背筋が震えたことか。「希望の島」1曲でも伴さんの指先に引き込まれたものだ。偉大な指揮者だった。(11/25・かっぱ)


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