リレー随筆コーナー

数字のマジック

 

小林  實期)


福沢諭吉の西洋旅案内(1867年−慶應3年刊)によると、その中に「災難請合のこと」という項目がある。ここには「組合を組織し、平生無事のときに人から金をとり、万一その人へ災難があれば、組合より大金を出してその損亡を救う仕組みなり」とある。これは現代でいう保険の発想である。彼はさらに「災難の請合は三通りあり、第一人の生涯を請合ふ事、第二火災請合、第三海上請合(原文通り)」と述べているが、これが後の我が国での生命保険、火災や海上保険の原点となったといってよい。明治12年(1879)に初めて海上保険会社がわが国で設立された際の趣意書をみても、「一隻の船の一航海での危険の判断をするのはむずかしいが、数十隻の船の数百回の危険をみて危険を予測するなら、必ずその危険が何百分の一か算出できるはず」と記されているのは、前述の諭吉の知見を基礎としての発想である。

ところで、この諭吉の発想、すなわち現代でいう保険の概念というものは、数がまとまると一定の特性が安定することを利用したいわゆる「大数の法則」に則って成立している。仮に、サイコロで6の目の出やすいものがあったとする。 数十回振ると、なるほど6がよく出る感じがする。しかし、これを根気よく何万回も振ったとすると、6の出現確率は他の目と同様、1/6に限りなく近づくはずである。これは、数が大きくなると数値が安定傾向を示すことを意味する。保険料率というものも、この大数の法則に従って算定されている。

オーストラリアでブームとなったバンジージャンプは保険の対象になっていない。今のところ大きな死傷事故はみられないが、何せ母数となるジャンパーの数がそれほど多くなく、仮に大事故が起きれば、支払いに窮するか、保険料を極端に高くするかのいずれかになるからである。

筆者は大学・大学院時代を通じて実験心理学なるものを専攻した。これは、主として知覚現象を客観的手法で解析して、人間の持つ知覚特性なるものを明らかにする心理学の一分野である。もちろん心理学とは本来的にいうなら、心の働きというものを科学的に分析し解明していくことにあるわけだが、心の働きというメカニズムは主観的であり個人差も大きく、その人のその時々の心のあり様で極めて不安定なものでもある。第一、目でとらえるわけにいかない。河合隼雄氏はユング心理学なるものを標榜されておられるが、氏の立場は個人の心理と取り組む、いわゆる臨床心理学の分野だといえる。

私の留学した当時(1960年代)のアメリカでの主流は行動主義心理学であり、心という不可解な部分を捨象して、表面にあらわれた行動(もしくは行為)に光を当てたといえる。「心なき心理学」と臨床心理学派からは皮肉混じりにいわれた時代でもあった。

ところで、この行動心理学でのデータを数値化する際によく出てくるのは、冒頭に述べた大数の法則に似た「平均値」という考え方である。つまり、数をたくさん集めるとそれは一定の傾向(分布)を示し、その最大公約数として平均値をとれば妥当だとする発想である。

つまりわれわれの使っている数値と言うものには、個々の数値の特性は埋め込まれてしまっている。かつてユダヤ人虐殺を命じたナチドイツのアイヒマンのいった言葉「百人の死は悲劇だが百万人の死は統計だ」という冷酷な表現にも、ある意味で数字の持つマジックをいったものかもしれない。

    

著者紹介: シニア・メンバーで小林さんを知らない人はいないでしょう。特に男声諸氏は、1952年に行われた高校音楽愛好会・楽友会合同の第1回夏季合宿(山形)の想い出と共に、今も鮮明なイメージが甦ってくることと思います。小林家は鶴岡の名家で、この初合宿実現に向け妹の喜久子さん(女子高1年生)と共に、ご家族総出のご尽力を賜わりました。兄妹共に大学での楽友会活動は疎遠でしたが、団員としての交流は今に続きます。喜久子さんは楽友会OGとしては極めて異色の邦楽(長唄)の道に進み、現在はその教授に専心しておられ、また、著者ご本人は上記本文と別掲紹介文に記載の通り、実験心理学専攻を経て、交通安全管理やリスク・マネージメント等の専門家として数々の著書を上梓されるなど、現在も多方面でご活躍中です。ここにご紹介するのは、編集部にご寄贈いただいた人気図書の一つです。(編集部・オザサ・13年7月17日)