リレー随筆コーナー

行った事のある街々 (II)

ヨーロッパ・中近東編


末続 靖(12期)


カッパさんからの「ベトナム以外で何か書け!」というご下命に応えて、思い出すままに、行った事のある街々(国々)の思い出を書いてみました。

書いてみたら、「結構多くの国と都市に行っていたのだ」と驚きましたが、以下皆様に読んでいただければ、嬉しく存じます。

*フランクフルト Frankfurt am Main
35年前に中近東のクウェートに駐在していた時に、夏休みを使って家族でヨーロッパへ旅行しました。クウェートから乗ったルフトハンザ機が最初に到着した都市が、ドイツのフランクフルトでした。飛行機の窓から目に飛び込んできたドイツのシュヴァルツヴァルト(Shuwarzwald =黒い森)の濃い緑が、クウェートの赤茶色の砂漠に慣れた目に眩しく沁みたものです。

本当はその後、フランクフルトを起点に、「ロマンティック街道巡り」をするはずでしたが、クウェートのイミグレーションの手違いから、乗るはずだったフライトを逃し、代わりにフランクフルトで「ライン古都巡り」をすることになったりしました。ライン河をゆったりとクルージングしながら、川べりに連なる古城を眺めるのも悪くは有りませんでした。

*スイス Schweizerische Eidgenossenschaftとオーストリア Osterreich
フランクフルトの後は、ロンドンを経由した後、スイスのチューリッヒとグリーンデルヴァルド、それにオーストリーのウィーンを訪れました。

覚えているのは・・
・スイスの地図が実に綿密に作られていて、細い山道を歩いていても、地図に記載されている周りの絵の情報から、「今、どこを歩いているのか」が実によくわかる、素晴らしい地図だったことに驚いた、のと、
・どの家でも二階の窓辺にはきれいな花々が飾られていた、のと、
・ウィーンの楽友協会ホール近くのレストランで食べた、シュニッツェル(das Schnitzel=ウィーン風 子牛のカツレツ)がとても美味しかった、のと、
・ウィーンでは、街角を曲がるたびに誰かが音楽(ヴァイオリンだったり、フルートだったり)を奏でていた素敵な街だったことを覚えています。


<楽友協会ホール>

*ニュールンベルグ Nurnberg
ニュールンベルグには、日揮在職中に、あるプロジェクトの技術的打ち合わせのために、ドイツの最大手重電機メーカーのジーメンスを訪問する目的で出張しました。

ニュールンベルグはリヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュールンベルグのマイスタジンガー』の舞台として知られる街ですが、現在も旧市街は中世の城壁で囲まれています。この街は1050年に神聖ローマ帝国の資料に、nuorenberc(=「岩山」を意味している)として記録されていて、それが現在の地名の元となったとか、Nur ein berc =「たった一つの丘」の意味で、中世には重要な交易路がこの丘の上でいくつも交差していたからこう呼ばれた、とも言われます。このためかつてニュールンベルクはヨーロッパで最も裕福な都市の一つだったそうです。

行ったのは12月のクリスマスの頃で、それこそ滅茶苦茶に寒くて震え上がったことと、じゃがいもと、種々さまざまなソーセージが、めちゃくちゃ美味しかった事を覚えています。

ニュールンベルグは、第二次世界大戦中、連合国軍による空爆の優先目標であって、イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日に旧市街は壊滅的に破壊され、全市域が甚大な被害を負いました。

ただ、ドイツ人はそれから「壊された石のひとかけらまで拾い集めて、まったく元のように街を作り直したのだ」と言っていました。真偽のほどは分かりませんが、ドイツ人の「根性」とは凄いものだ、と感心しました。


<ニュールンベルグ>

*スペイン/トレドToredo と バルセロナBarcelona
スペインにはハノイから帰国した後に旅行に行きました。

・トレドは、大聖堂を始め、旧市街全域がユネスコの世界遺産に登録されていますが、12世紀から13世紀にかけては、古代ギリシャやローマの哲学・神学・科学の文献がここでアラビア語からラテン語に翻訳され、その成果が中世西ヨーロッパの12世紀ルネサンスに大きな刺激を与えました。今でもその当時の街がそのまま残されていますが、マドリードから70km位の所にある古都で、一度は訪ねてみる価値のある街です。

1582年に九州のキリシタン大名の名代として、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした天正遣欧少年使節が、ポルトガルのリスボン、スペインのマドリード、イタリアのリヴォルノ、ミラノ、ヴェネティア、フィレンツェ、ピサなどを歴訪していますが、その時にこのトレドも訪れたそうです。今我々が訪れてもその街の姿に圧倒されますが、その時の少年たちが得た感慨は計り知れないものだったろうと思います。


<トレド>

・バルセロナはカタロニア地方の主都で、マドリードを中心とする地域とは、政治的にも文化的にも一線を画してきました。今でも州立学校での教育はカタロニア語で行われていて、スペイン語は「外国語」として教えられているそうです。フラメンコを鑑賞しにいった時に、周りの人々の会話が、「スペイン語みたいだけど、何だかちょっと違うみたい」と思えたのですが、あれは多分「カタロニア語」だったのですね。

カタロニアは、ガウディ、カザルス、ダリ、ミロ、ピカソなどの独特な芸術家を多く輩出しています。

バルセロナからは、「モンセラート(のこぎり山の意味)」という山々が見えますが、この山々の独特な姿を見ていると、この地方でこれらの独特な芸術家が生まれたことが、なんとなく理解出来るような気がしました。


<モンセラートと修道院>

*ロンドンLondonとパリParisとローマRome
ロンドンとパリとローマには、多くの皆様がすでに行っておられる、と思いますので、生意気な解説はやめておいた方がよろしいでしょうが、あえてお話しするとすれば、
・ロンドン塔にある「偉大なアフリカの星」と言う、530.2カラットの巨大なダイアモンドは、やはり「一見の価値」があるでしょう。大きいだけではなく、その品質(カットと輝き)も、「世界一」だそうです。


<アフリカの星>

・我々は、聖公会の信徒なので、イングランド国教会(=聖公会)のウェストミンスター寺院へいきました。

ウェストミンスター寺院は、聖ペテロ修道教会で、戴冠式などの王室行事が執り行われます。内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている他、ニュートン、ラザフォード、トムソン、マックスウェル、ダーウィン、ホーキングなどの科学者や、ヘンデル、ディッケンスなども埋葬されています。

寺院の中を歩いていた時に、床にヘンデルの名前が有った(そこが彼の埋葬場所の真上だった)のに驚きました。

・パリの「ムーラン・ルージュ」にお出でになるときは、ちゃんとドレスアップしてお出でになるのがよろしいでしょう。我々はきちんとしたスーツで行きましたが、そのお陰で舞台に近い最前列の特等席に案内されて、フレンチカンカンその他のショーをすぐそばで充分に満喫することが出来ました(ラフな服装で行った他のツアー観光客は、上階の奥の席に案内されていましたから)。


<ムーラン・ルージュ>

・なぜかパリの街角に「ラーメン屋」が有って、若いマドモアゼルたちが箸で美味しそうにラーメンを食べていましたねえ。

・もちろんルーブルにも行き、多くの素晴らしい芸術を満喫しましたが、とても一日では時間が足りませんでした。一週間くらいの時間が欲しかったですねえ。


<ルーブル美術館>

・ローマのトレヴィの泉では、泉に向かって後ろ向きにコインを投げ入れると、ローマに再訪することができるという言い伝えがあります。

で、そのようにやってみましたが、今の所は再訪のチャンスは無いようです。

*(ローマ以外の)イタリア ヴァチカン・ピサ・アッシジ・ベニス
・ヴァチカンは、「教皇聖座(Holy See)」と「バチカン市国(Vatican City State)」の総称で、「教皇聖座」とは、カトリック教徒の総本山です。

宗教機関でありながら、国としての側面も持ち、バチカン国籍保有者は615人(2018年10月時点)です。その領域はローマ市内にあります。

キリスト(イエス)は十字架で磔になって殺されましたが、「十字架刑」とはもともとローマの極刑で、ユダヤでの死刑方法は「石打ちの刑」でした。このことから、「キリストを処刑したのはローマであって、ユダヤ人がイエスを十字架に付けた訳ではなかった」という学説もあるようです。

その後、キリスト教がローマ帝国で公認(313年)されると、ローマにサン・ピエトロ(イタリア語で聖ペテロの意味)大聖堂が建てられました。 その場所はペテロが埋葬された場所と伝えられています。ローマ帝国内でキリスト教布教が公認された後、392年にキリスト教はローマ国教として認められることになり、ヴァチカンはカトリック(西方教会)の総本山となります。

新約聖書はこのころに編纂されていますから、「キリストを処刑したのはローマであった」という記述を避けたのではないか、とも言われているようです。

・サン・ピエトロ大聖堂には、ミケランジェロの「ピエタ=悲しみの聖母像―1499年作」が有りますが、これを見るためにだけででも、サン・ピエトロ大聖堂へ行く価値があると思います。

・ピサには、イタリア旅行の途中で、本当はミラノに行く予定でしたのに、フライトがキャンセルされてピサに着くことになり、ついでに「ピサの斜塔」に行って見ようという事になりました。「斜塔」は、教科書や観光案内誌にある通りで、最上階まで(もちろん歩いて)昇りましたが、「外部の滑りやすいデッキの床が斜めになっている」にも関わらず、「手すりも柵も何もなく」かなり怖い思いをしました。

ガリレオが、「重力による物体の落下速度は、その物体の質量の大きさによらない=重いものも軽いものも(空気抵抗を考えなければ)同じ速さで落ちる」のを証明するために、「ピサの斜塔から、重い鉛の玉と軽い鉛の玉を同時に落として実験した」という話は皆さまご存じでしょうが、「なるほどここから彼は落としたのか」と、改めて歴史を思いました。

・アッシジについては、「サンフランシスコ」の稿でお話しした通りです。

・ベニス(ヴェネツィア)には、スペイン旅行への途中で立ち寄りました。

ヴェネツィア人は697年に初代総督を選出して独自の共和制統治を始めました。これがヴェネツィア共和局の始まりです。

9世紀から、フランク王国との交易権も持つこととなり貿易都市への布石が置かれ、10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大し、さらにアドリア海沿岸へと支配地域を拡大していきます。その後フランス、オーストリアによる支配を受けますが、19世紀にイタリアに編入されて、今に至っています。
ベニスに立ち寄ったのは12月でしたので、結構寒く波も荒い季節で、「ゴンドラ遊覧」も、優雅に楽しめる雰囲気ではありませんでした。

「潮が満ちてくる」と、サン・マルコ広場も海水に満たされてしまいますが、「あっという間に」木製の遊歩道が組み立てられて、その上を歩くことになります。

「地球温暖化」でますますこの状況が悪化しているのでしょうか。

見どころは、サン・マルコ(聖マルコ)大聖堂、ドュカーレ宮殿など、お土産として、素敵なヴェネティアン・ガラス製品、各種のレース製品などを購入しました。。

*オランダ
・オランダには、シェルの仕事で、本社のあるハーグへ一週間ほど出張しました。

この時は、シェルが、あるプロジェクトを欧州の某エンジニアリング会社に発注していたのですが、「その設計がシェルのスタンダードに合っているのかどうか」を、「シェルのスタンダードを熟知している日揮にチェックしてもらいたい」との依頼があって、各セクションからの何人かのエンジニアでタスクを組んで、技術的サポートに行ったものです。天下のシェルからこんな依頼を受けるのですから、日揮の技術もたいしたものだ、と、少々自惚れましたけど。

・ハーグでは路面電車と自転車が主たる通勤手段で、ほかの都市でみられる車の渋滞はなかったように記憶しています。

・ハーグの海岸には数多くの「ムール貝レストラン」が有り、その味を飽きるほど楽しめます。ある時食事をしていたら、結婚式を終えた新郎新婦と多くのゲストがなだれ込んできて、「山ほどのムール貝」を何皿も何皿も平らげていましたっけ。

・ちょっと足を延ばしてアムステルダムまで行くと、ゴッホ美術館が有り、多くのゴッホの作品を満喫することが出来ました。彼の最晩年の作品である「からすのいる麦畑」も鑑賞できましたが、思っていたより大きな、50センチX100センチくらいの作品でした。


<カラスのいる麦畑>

ちょっと余談ですが、ゴッホの作品に「アルルの跳ね橋」と言う絵が有ります。これはオランダのクレラー・ミュラー美術館に所蔵されていますが、この風景と全く同じ「跳ね橋」をオランダの植民地であったインドネシアのジャカルタに行った時に、みつけましたっけ。


<アルルの跳ね橋>

・アムステルダムには、「アンネ・フランクの一家が居た隠れ家」が今は博物館となっているのですが、残念ながらそこに行く時間は有りませんでした。

【中近東】

* クウェート
クウェートは、ペルシャ湾の一番奥にある、イラクとサウジアラビアに挟まれた、四国と同じ大きさ位の、人口は500万人に満たない小国です。
18世紀にアラビア半島中央部から移住した部族がクウェートの基礎を作りましたが、1899年に英国の保護国となった後、1961年6月19日英国から独立します。
1938年に大油田が発見され、今は、原油確認埋蔵量 1,015億バレルで世界第7位、可採年数 91.9年(2017年、BP統計)、石油生産量 日糧270万バレルと言う石油資源大国です。石油が出る前は、ここで少量ながら取れた「飲み水」をペルシャ湾を航行する船舶に売っていた他、ほそぼそと自然に取れる真珠を売って収入としていたそうです。
なお、「バレル」と言うのは石油(原油)の量を測る為に使われる単位で、元々は「原油を入れる樽」の容量のこと。1バレルは159リッターです。
石油収入による国内工業化は石油関連部門に集中し、その豊富なオイル・マネーを海外での投資に向けることによる金融立国を指向しています。
おおよそ40年前に、日揮が2つの巨大プロジェクトを受注し、私は35年ほどまえに、家族連れで1年半ほどクウェートに駐在しました。その時に、あるクーウェイティー(建国の時からのクウェート人の子孫を特別にこう呼んでいて、その他のクウェート人とは区別されています。)に、「銀行から資金を借りて、もっと国内の石油や石油化学産業を拡張しないのか?」と、訊いた事が有りましたが、その時の彼の回答は、「ミスター・スエツグ、金は貸すもので、借りるものでは無いよ」でした。
その当時、クウェートの石油の輸出による収入と、外国からの金融収入はほとんど同じオーダーだったのです。なるほど。
アラブの他の国と同じく、クウェートでは女性には男性のような人権が認められてはいませんでしたが、2005年5月には、女性にやっと参政権が認められ、同年6月初の女性閣僚が誕生し、2009年5月の総選挙では初の女性議員(4名)が誕生しています。

国民の94%が国家公務員又は国営企業に勤めていて、早い話が、「働かなくても、国が(原油の売り上げからの分配として)給料をくれる」国なのです。役所に行くと、時には、仕事もしない娘さんたちが、単におしゃべりで時間をつぶしているような風景も見られました。
なお、2011年3月の東日本大震災に際しては、要人が、天皇陛下や当時の菅(かん)総理に見舞いの書簡を送ったほか、クウェート政府は、500万バレルの原油(約400億円相当)を無償供与する旨決定し、在日クウェート大使館は被災地に支援物資を寄贈するとともに、チャリティーバザーの収益金の150万円を寄付、その他2012年には首長が国賓として訪日し、天皇陛下や総理との会談等を実施して、アクアマリンふくしまへ300万ドル、日本赤十字社へ200万ドルの追加寄付を実施しているなど、クウェートは日本とは友好的な関係にありました。
クウェートと言えば“砂漠の国”と言うイメージです。確かにその通りなのですが、この砂漠は、「月のー、砂漠をー、遙―るー遙ばーるとー」のような、「鳥取の砂丘」のような白い砂丘が延々と続く砂漠ではなく、言ってみれば「硬い赤茶色の土漠」です。手にすくってみると、赤、白、黒、透明、青、緑、などの様々の細かい石の結晶の集まりで、これを遠くから見ると、全体としては「赤茶色」に見えるのです。
駐在を始めた頃は、とにかく周りが何もかもこの色なので、精神的にも参るのですが、その内に段々と慣れてきます。
先に、「クウェートからヨーロッパへ飛んだ時に、フランクフルトの濃い緑が目に沁みた」と書きました。さて、旅行が終わってクウェートに戻る時には、「またあの赤茶色の土漠かあ」とうんざりしながらフライトに乗るのですが、いざこの赤茶色の土漠が窓から見えて来ると、何かそれが「懐かしく」思え、空港からキャンプへ帰るため、タクシーでこの土漠の中のハイウェイを走ると、「ああ、故郷に帰ってきたなあ」とほっとしたものです。いやはや、「人間の順応力」とは、大変なものですねえ。

* エジプトとイスラエルとイラン
さて、クウェートのPJを終えて、めでたく帰国となりました。まっすぐ帰るならば、そのまま当時の「JALの南回り便」での帰国なのですが、ちょっと寄り道をして、エジプトとイスラエルを訪れました。
・エジプトでは、お決まりのカイロ(ピラミッドその他)と、上エジプトのテーベ(王家の谷とルクソール神殿)を訪れました。
・エジプト古代文明は紀元前5000年から3000年との頃に栄えた文明ですが、日本ではまだ縄文時代だったのでしょうか? 訪問してみると、そんな時代に良くもこんな文明を作り上げていたというその素晴らしさと凄まじさに圧倒されました。 
・イスラエルでは、旧約聖書(ダビデ王とユダヤの時代)と、新約聖書(イエスの時代)の跡をたどる旅をして、クリスチャンとして嬉しい時を持ちました。
・日揮はイランでのプロジェクトをいくつか手掛けて来ました。僕も一度だけですが、技術指導の打ち合わせでテヘランを訪問する機会が有りました。
当時は北京経由でテヘランへ飛び、一週間ほどの打ち合わせをしました。本当はペルシャの古都イスファファンに行きたかったのですが、イランでは自由な個人行動が出来ませんでしたので、諦めました。ただテヘランは安全な国で、日用品を売っているバザール(ペルシャ語で「市場」を意味します)での買い物も楽しめました。
ただし、イランでは(イランだけでなく、多くの中近東諸国でも同じなのですが)「写真を撮ること」が厳しく制限されていますので、イランへ行かれる方は十分に注意が必要です。僕も泊まった宿舎の近くで、「遠くの美しい山並み」の風景をカメラに収めていただけだったのですが、近くにいたイラン人たちに厳しくとがめられましたから。

【東南アジア諸国】

東南アジアでは、ベトナム、タイ、ブルネイ、マレーシア、フィリピン、カンボジア、ミャンマー、シンガポール、中国、などの各国を訪れました。
これらの国々や都市については、「アセアンと私」にあります。

さらにSUEのエッセーという僕のホームページで、2010年から10年ほどかけて、色々と紹介しておりますので、そちらをお読み頂ければ大変うれしく思います。

以上、最後までお読みいただいて、有難うございました。

(2021/4/23)

    


編集部 SUEのエッセーです。前回に続きヨーロッパから中近東の街々を駆け巡ります。色んな所に行っています。

既にアセアンの話は別稿「アセアンと私」で書いていますので、詳細は省略です。

(2020/4/23・かっぱ)

ブルネイ、タイ、カンボジア、中国、フィリピン、ギリシャ、ベルギーに行っていることがパスポートを見て判明したそうだ。(21/5/5こどもの日)


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