リレー随筆コーナー

行った事のある街々 (I)

アメリカ編


末続 靖(12期)


カッパさんからの「ベトナム以外で何か書け!」というご下命に応えて、思い出すままに、行った事のある街々(国々)の思い出を書いてみました。

書いてみたら、「結構多くの国と都市に行っていたのだ」と驚きましたが、以下皆様に読んでいただければ、嬉しく存じます。

*シアトル Seattle
シアトルには、日揮在職中に、航空宇宙学会のシンポジウムで、日揮の持つ宇宙関連の廃棄物処理技術についての発表をするために行きました。

シアトルは、西海岸北部のワシントン州 State of Washington (首都のワシントンDC District of Columbia = Washington, D.C. とは違います)にあり、世界の航空・宇宙産業の中核をなすボーイングを始め、マイクロソフト、アマゾン、スターバックスなど、世界に名を知られる 大企業があります。皆様には、イチローが居たシアトル・マリナーズの本拠地としてお馴染みですね。

宇宙航空学会のシンポジウムが開かれたのは、ここが「ボーイングの城下町である」のが理由でしたが、行ってみて「とにかく坂が多くて美しい街だなあ」と言うのが私の感触でした。


<シアトルは坂の街>

*ロスアンジェルス Los Angeles
ロスアンジェルスは、皆さまご存じのように西海岸最大の都市で、特別な解説は不要でしょう。

私事ですが、長女が一年間 UCLA に交換留学で行っていた時に、私は丁度フェニックスにある企業に機器を発注していて、年に6回もフェニックスへ出張した際には、「フェニックスへの国内便への乗り換え」の度に、ロスアンジェルスでトランジットし、その度に「長女への諸々の差し入れ」を運びました。

ロスアンジェルスは、ご存じのようにスペイン語の Los Angeles(天使)が語源ですが、元々ニューメキシコ州とカリフルニア州は、1848年の米墨戦争にて米国が勝利して獲得したもの、つまりはアメリカが武力で手に入れた領土でした。

そういえば、まだ東京ディズニーランドが無かった頃、何かのクイズで、アメリカへの割引旅行が当たって、当時幼稚園生だった長女を連れて、ロスアンジェルスのディズニーランドへ遊びに行った事もありましたっけ。

*サンフランシスコ San Francisco
サンフランシスコの名前は、 “Brother Sun, Sister Moon” という映画でその生涯が描かれた「アッシジの聖フランチェスコ Francesco d’Assisi」の名前から付けられました。

アッシジはイタリア中部の都市で、11世紀から独立した都市国家でしたが、15世紀には教皇領となっています。フランチェスコは、この町で一度「極貧の世捨て人」に身を落としながらも、「聖フランシスコ会」を設立しました。今でも多くの巡礼者が訪れる聖地で、私たちもクウェートに駐在中の夏休みに、家族でアッシジを訪れましたが、高台の上にある、小さいけれどもひっそりとした、とても静かで美しい街です。今の大都会「サンフランシスコ」とは全くイメージは違います。もしイタリア中部に行かれる機会と時間があったら、ぜひ行ってごらんになることをお勧めします。

全くの余談ですが、最初にサンフランシスコへ飛んだときに、隣に座った、10歳くらいの女の子を連れたご婦人に地図を見せながら、「サンフランシスコには初めて行くのですが、ここには行かないほうが良いという所は有りますか?」と尋ねたところ、「貴方はホモセクシャルですか?」と訊かれ、慌てて「いいえ違います」と答えると、「だったら、このエリアには行かない方が良いわよ。」と地図上で教えられ、「アメリカ人は、小さな子供の前でも、こんな話をするのだ!」と少々面食らったことがありました。


<アッシジ遠景>

*ダラス Dallas
1975年の事になりますが、日揮からの派遣留学生で、ダラスに行っていました。ただその時にとんでもない病気の「クモ膜下出血」に見舞われて、留学は結局途中で「おじゃん」になりました。でも、「幸か不幸か」アメリカで当時世界の最先端技術であった脳外科手術を受けられて、一命をとりとめました。

「ダラス」と言えば、ケネディー大統領が暗殺された街ですが、そのせいかどうかは分かりませんが、全米でもニューヨークと並んで「脳外科の技術」が進んでいる街なのだそうです。僕が日本ではなくダラスで倒れたのも、「不幸中の幸い」だったのかもしれません。

日本からダラスまでは、今は直行便が有りますが、当時はまだ今のような大型機は就航しておらず、そのために日本からは、サンフランシスコかハワイで国内便に乗り換えて、ダラスまで飛ばなくてはなりませんでした。サンフランシスコから、広大なアメリカ大陸の砂漠の上を飛びながら、「何故こんなにでかい国と無謀な戦争を始めたのだろう?」と思ったものでした。

テキサスがアメリカ合衆国の28番目の州として併合されたのは,1845年の事ですが、ダラスは古くから交通の拠点として発展していて、今日でも金融及び経済の中枢として機能している都市です。古くから綿花の集積地として発展していて、今日でも綿花取引所があり、日本の各商社も綿取引を重要な業務とする支店を置いています。

20世紀になって、テキサス東部で油田が発見され、石油化学工業、また軍事産業が発展し、また同時代に航空機産業を誘致し、軍用機産業が発展して、中南部最大の都市として発展しました。

*オースティン Austin
オースティンはテキサス州の州都で、産学連携のもと目覚ましい経済成長を遂げている都市です。ダラスにいたときに、留学生用のTOEFLの試験を受けに、何時間かドライブして、テキサス大学のオースティン校へ行きましたが、近くにコロラド川が流れる緑深い美しい都市でした。

家具、煉瓦、食料品、製油、皮革などの工業が発展し、第二次大戦の頃からは、軍需産業も発展しています。現在はIT 産業が発展していて、「シリコンバレー」ならぬ「シリコンヒルズ」と呼ばれています。

*シカゴ Chicago
1968年とずいぶん昔の事ですが、就職してたった10か月で某巨大造船会社を飛び出して、当時はまだ中小企業をやっと卒業したばかりだった日揮へ転職しました。入社した途端に(たった3か月で)行かされたのがシカゴでした。出張の目的は、アメリカの技術提携先が研究していたある特殊な分析計の共同開発をするためでしたが、入社してたった3か月の若造をアメリカにやる、と言う日揮という会社は、面白いなあと思ったものです。当時は、「アメリカに出張する」と言えば、羽田で大勢が「万歳」で送る時代でしたが、僕の場合には、先輩が二人見送りに来てくれただけでした。ドルの持ち出しは$500だけで、3か月の米国内の出張旅費のために、“闇ドル”をあちこちから手に入れなければなりませんでした。1ドルが360円の時代でしたが、シカゴで泊まったモーテルがB&Bで確か16ドルだったことを覚えています。

当時は「アンタッチャブル」というテレビドラマが日本で放映されていた時で、「シカゴ」と言えば、「アル・カポネ」と「ギャング」の街と言う暗いイメージしかありませんでしたが、行ってみると、シカゴは「五大湖のミシガン湖」のほとりの、美しくて平和で安全な街でした。

「アンタッチャブル」は、何故か日本で先に放送した番組をシカゴで後で放送していました。そう言うと、向こうの会社の連中が「アメリカより日本で先に放送するなんて事は、あり得ない」と信用しないので、その細かい話の筋を説明したら、「ヤスシの英語力では(当時はまだ英語もたいして話せませんでしたので)、そこまでは分からんだろうから、本当か!」と、言ってましたっけ。

当時はまだ東京には一軒しか無かったスーパーマーケットが、当然どこにでも有って、そこでお土産にしようとして、インディアンの人形などのオモチャや、コップやノートや文房具などの雑貨を買おうとすると、みな “Made in Japan” でした。日本はこういうものを輸出して外貨を稼ぎ、そのドルで世界から原材料を買って、製品を作って、それをまた輸出してまた外貨を稼いで、と、やって来た訳ですねえ。

泊まっていたモーテルに、一人日本人(M商会の人)が来られた事が有りましたが、「こういう物を売っています」と言って見せてくれたトランクの中身は、こういった雑貨ばかりが詰まっていました。今思うと、その商社マンらの商人根性に「頭が下がる」思いです。

今アメリカで走っている何割が日本車なのかは知りませんが、当時シカゴに3か月居た間に見た日本車は、日産のフェアレディー1台だけでした。それを見つけた時には本当に嬉しかったですねえ。

そうそう、当時スーパーマーケットで普通に拳銃と銃弾が売られていました。買おうと思えば僕でも買えたのですが、そんな事をしたら当然羽田で見つかって、没収されて捕まってしまったでしょうね。


<ミシガン湖>

*ワシントンとニューヨーク
シカゴにいた間に足を延ばして、ワシントンとニューヨークにも遊びに行きました。お金もなかったので、泊まったのはホテルではなくYMCAでした。ワシントンでは、ホワイトハウスやら、国会議事堂やら、リンカーン記念堂やら、ワシントンモニュメントやらを一人で見て歩きました。

ニューヨークでは、380mのエンパイアステートビル(1931年建設)に昇ってみましたが、日本では一年前の1967年に、日本最初の高層ビルの霞が関ビル(147m)が出来たばっかりでしたから、最上階の展望台からニューヨークの摩天楼を見下ろした時には、国力の差を見せつけられた思いでしたし、街の道路のマンホールからセントラルヒーティングの蒸気が噴き出ているのを見て、国の豊かさの違いを思わされたものです(今は日本でも当たり前の風景になっていますが)。

これも、もう半世紀以上も昔の話です。

*フェニックス
前述したように、1990年代の末に、私は丁度フェニックスのある企業にプラントの制御システムを発注していて、何回もフェニックスへ出張しました。「フェニックス」は「不死鳥」が語源ですが、英語での発音はフィーニクスで、「フェニックス」では通じない事が有りましたっけ。

フェニックスはアリゾナの砂漠のど真ん中にあり、コロラド川の電源開発による電力によって、軍事産業・エレクトロニクス産業・電気機械工業が発達した町です。

町の郊外にはたくさんサボテンが生えていて、時には州鳥の「ロードランナー」が、モーテルの庭の砂漠を走り回っているのを見ることがありました。


<ロードランナー@>


<ロードランナーA>

フェニックスにはハネウェルという巨大電子(電気)企業があり、その時にはサウジアラビアの製油所向けのプラント制御システム(コンピュータ)を発注していて、数週間の出張のために年に何回か訪れました。

フェニックスから北へ2時間ほど走ると、(ジョン・ウェインの西部劇でお馴染みの岩山のモニュメントバレー(Monument Valley)がある)セドナに着き、さらに66号線を北へ進んだウィリアムズから「グランドキャニオン鉄道」で、グランドキャニオンのサウスリム(グランドキャニオン国立公園内の、渓谷南部のポイント)まで行かれます。この鉄道は1968年に利用者数の減少によりサービスを廃止しましたが、1989年に21年ぶりに運行を再開したそうです。この鉄道に乗車して暫くすると、覆面をした数人のギャングが現れて拳銃で乗客を脅したり、走行中に列車の外に馬に乗ったインディアン達が現れて列車を攻撃したりしてきます(もちろんどれもアトラクションに過ぎませんが)。


<モニュメント・バレー>


<グランドキャニオン鉄道>

また、フェニックスから3時間のフラッグスタッフから更に1時間のところに、今から5万年前に宇宙から落下してきた隕石による、「メテオ・クレーター」という隕石の孔が有ります。アリゾナの乾燥した気候のため、衝突時の形のままに保存されていて、そばまで行って見ることが出来ます。きれいなすり鉢状で、孔の直径は1.2km、深さは168mとのことです。聞くところでは、生涯かけてクレーターの調査を行ったある博士の家族が、今でも私有しているそうです。


<アリゾナ 大隕石孔>

何故か分かりませんが、フェニックスの郊外に、アメリカでは珍しく、美味しい「冷やし中華」を食べさせるレストランが有りましたっけ。

(2021/3/15)

    


編集部 SUEの作文です。今回はアメリカ編。次回はヨーロッパ・中近東編です。

(2021/3/12・かっぱ)


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