リレー随筆コーナー

ブラひろし 一人で歩く

深谷と渋沢栄一・レンガとピルゼン


田中 博(20期)


三門さんや橋本さん、市村さん、斎藤さんなどがいつも素晴らしいコースや旅程を組み立ててくださる「歩こう会」に初めて参加したのは2009年秋の奈良ウォーキングからです。歩こう会の素晴らしいところは対象地域を直接目の高さで歩きながら空気を感じることで地歴を知るとともに、年代を超えて、安全に気を配りながらも参加者どうし会話を楽しみ、共に時間を過ごすことで諸先輩方などと交流ができることです。2016年の軽井沢では初日の夕食に3期の佐々木さんとお亡くなりになられましたが2期の宮代さんと初めての会食の機会をもつことができましたし、8期の豊岡さんと阪神淡路大震災時の苦労話の会話を楽しむきっかけができたのも歩こう会のおかげです。大学から義塾にお世話になった者としては楽友会の歴史の奥深さ、伝統の価値を認識できるようになったのも諸先輩とのさりげない会話から得られる音楽を愛する楽友会メンバーの素晴らしい人間性によるものでした。
 


祝いのぼり

2020年のある少し暑い日、Covid-19に気をつけながら深谷市に一泊二日の小旅行をしてきました。関東平野は関西人にとってはあまり馴染みがない地域ですが、深谷と言えば”深谷ねぎ”とガリガリ君の赤城乳業そして、今や時の人となった渋沢栄一の生まれ故郷です。

東京駅を模した荘厳さで目を引くレンガ風の駅舎(実際はタイル張りとのこと)、そして日本で最初と言われる渋沢栄一が設立に貢献した機械式での煉瓦製造工場が現在は資料館として公開されており(ホフマン輪窯6号窯は、現在保存修理工事中)、レンガ工場から出荷されたレンガを運搬するために日本で初めての私企業の専用線として敷設された鉄道線が深谷駅までつながっていたのですが、廃線後のその線路跡地は渋沢栄一とレンガを街の新たな観光資源として活かすための遊歩道として整備されています。


深谷駅


専用線路

駅近くのホテルに荷物を預け、さっそく旧煉瓦工場まで遊歩道を独り歩きです。日本でよく見る大都会の近郊の農業用地も広がるありふれた光景が続きますが、ある種の単調さが関東平野の特徴なのかもしれません。煉瓦工場跡の資料館を見学後、市街に戻り、まだ少し残っているレンガ作りの建物が散在する街を探訪しました。やはり古い街は足で歩いて町並みを直接目にするに限ります。単純に”保存”を叫んでも、生活者の生活は維持できませんし、時代の流れとともに消え去っていくものがあっても仕方ないのですが、消えゆく物がかつて持っていただろう存在価値を知って確認しておくことは将来に向けての糧になるはずです。


酒造工場

二日目は駅から距離がある渋沢栄一記念館までコミュニティーバスを利用しての遠出です。前宣伝では最新のアンドロイドの渋沢栄一による講義を受けられるとのことで期待していました。コンピューター制御によるロボット、ただし、腕や首や顔、口もとなどもストーリーにそってあたかも筋肉が動いているように見せる工夫がプログラミングされたものでしたが、人工知能で臨機応変に見学者と対応するものではなく、マダム・タッソーの蝋人形がシリコンぽく、より表情豊かに動くというレベルのものでした。この場合の”アンドロイド”の意味は携電話帯などのOSではなく”人造人間”です。歴史ある街だけあって日本酒の醸造元もあり、日本の近代国家形成の恩人が生まれた深谷の奥深さを知ることも出来ました。


渋沢栄一 「本日の基調講演」

レンガと言えば、むかし銀座煉瓦街と呼ばれたレンガ作りの耐火建物が建てられた幅の広い通りがあったそうです。この銀座の建物に使われたレンガは現在の小菅刑務所のところにあったレンガ工場で製造されたものだったということですが、私にとっての銀座のレンガの建物といえば、銀座4丁目から少し離れますが、旧交詢社ビル(設計は横河工務所、現横河建築設計事務所)です。

2004年に建て替えられた現在の交詢社ビルの外壁の一部には以前のビルの外壁の一部が保存活用され歴史を引き継いでいる建物であることを誇らしげに示しています。旧交詢社ビルといえば往時の楽友会メンバーにとってはピルゼン=学生歌そのものです。私が大学の楽友会に所属していた頃は、伴有雄先生も指揮をとっていただいていた時代で、演奏会の終了後、ピルゼンでわけへだてなく皆で大声で愛唱歌を歌ったあの時間は、当時も今も終生の人生の宝物となっています。一万円札の肖像が代わりますが、まことに意義深いバトンタッチであると思います。 ⇒ 銀座ピルゼン1962

(参考)  
アンドロイド (android、ラテン語:androides)は、ギリシア語のandro-(人、男性)と接尾辞-oid(-のようなもの、-もどき)の組み合わせで、人型ロボットなどの人に似せて作られた存在を指す。(Wikipedia)
 
明治26年6月11日は、『時事新報』に「一覚宿昔青雲夢」という記事が載せられた日です。時事新報は福沢諭吉が発行している新聞で、その記事は、渋沢栄一の生き方に感動した諭吉の1750字におよぶ社説だったのです。「政府の役人になることだけが出世の道だと思い込んでいる人(青雲の夢)が多いが、そんな夢からはやく目覚めてほしい。実業の道にすすんで、今はこの社会において最高の地位にある、渋沢栄一の生き方こそがもっとも模範とすべきものである」と述べています(渋沢栄一デジタルミュージアム 3.渋沢栄一と福沢諭吉 より)。

(2021/3/6)

    


編集部 田中 博君から原稿が届きました。深谷はわれわれは上信越線で通り過ぎるだけで降りたことがありません。こんな立派な駅舎があること初めて知りました。

東京での博君の住まいは赤坂見付のプリンス通りの一本東のところで、私が常連にしているリトルマヌエラに何度も付いて来ました。帰りはタクシーに同乗し、宿に降ろして麹町から日テレ通りに入り間もなく我が家です。現在は日本テレビが160メートルの高層ビルを建てるので、古い建物が取り壊され更地になっています。

(2021/3/6・かっぱ)


FEST