リレー随筆コーナー

ニューイヤー・ガラ・コンサートを終えて


平岩政子(15期)



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昨年私は、新型コロナ禍のため、国際芸術連盟のオファーを幾つかお断りしましたが、すべての会が無事に済みました。

ジョイントでもソロ出演の為、当日初めてお会いし、会場も感染防止に確実に配慮されていました。

少し下火になった10月末、今年1月10日サントリーホールのニューイヤー・ガラ・コンサート出演を決めました。

私は、集客をお願いに皆様のご事情を伺うたびに、心を痛め、当日の演奏も心配になるほどでした。
 

そして当日、不安のまま出演し袖口に戻ると、未だ最後の出演者がいるのに、連盟の会長が、「心込め力強い演奏」と絶賛して下さいました。また今度ウィハン弦楽4重奏と共演したら等・・言われ、無事に演奏が済みホッとしたのでした。

我に返り、緊急事態にも関わらず駆けつけて頂き声援を下さったお客様や、これまで応援していただいた皆様に、感謝すると共にご健康をお祈りいたします。
 

そしてお世話になった恩師達の教えにも感謝し、これからも勉強を続けてまいります。

この記事を書かせて頂いた若山さんは、以前、私のコンサートの案内をご覧になり、笈田光吉氏をご存じだったのを覚えています。

私は、そこで素晴らしい音感教育を学びましたが2年後にお亡くなりになり、当時最高峰のピアニスト豊増昇氏に師事致しました。

豊増昇氏は、今ではご存じない方が多いかもしれませんが、指揮者の小澤征爾氏、左手のピアニスト館野泉氏の恩師でもあるのです。(2021/1/18)


 笈田光吉(1902-1964)

    


編集部 平岩政子さんからの投稿です。昨年の秋ごろ、メールのやり取りをしている時、エッセーのリクエストをしました。とりあえずの第1作です。コロナ禍の中、予定されたコンサートが中止になったり、出演を辞退したりするケースが多くなりました。正月早々のガラコンサート、頑張って演奏されたのですね。1月10日は福沢先生の誕生日でした。いい日に演奏が出来て、おめでとうございました。

笈田光吉先生の教室には塾高時代の同級生が通っていました。昭和30年代初めです。練習を終わって私の家で遊んでから大磯まで帰るのがいつものコースでした。私の所に来ると、すぐにピアノの蓋を開けて、今日練習してきた曲の復習でした。高校時代は一緒にPopsコーラスで遊びました。

笈田先生の長男はジャズ歌手の笈田敏夫さんで、年が16も離れているのに仲良くしてくれました。「若ちゃん、お前とは気がよく合うな」がいつもの言葉でした。ゲソというニックネームが有名でした。私は「ゲソG」と呼びました。2003年、最後となった「ゲソの気まぐれコンサート」には、我々OZ SONSがゲストで出演しました。その4か月後にガンで亡くなりました。「来年も同じメンバーでやろう」って言っていたのに・・・。その後は、未亡人の育子さんと付き合いが続いています。


昔々の若ちゃんとゲソ爺

(2021/1/18・かっぱ)


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