リレー随筆コーナー
 

 

  「横浜幻想」と「祝婚歌」


塚越 敏雄(8期)


昨年(2019)12月13日、神奈川県立音楽堂で、横浜混声合唱団の定期演奏会があった。そこで、横浜混声合唱団と若葉台混声合唱団の合同で、混声合唱曲集「横浜幻想」が演奏された。作詞は武鹿悦子、作曲者・編曲者は田頭喜久彌である。楽友会の人たちには聞いたこともないであろうこの曲だが、私の合唱人生には記念碑的な曲なので、触れてみたい。

この曲は、最初1972年にアマチュア男性カルテットのテトラエコーズにより、神奈川県立青少年センターで初演された。その後、2010年、若葉台混声合唱団が、創設30周年を記念して、横浜市民の合唱団としてふさわしい曲をと、混声への編曲を依頼したことで混声合唱に生まれ変わり、フィリアホールで初演された。元は「よこはま」という題名だったが、40年を経て大きく変貌した横浜の様子を考えて、作曲者の田頭さんが、作詞の武鹿さんと相談して、「よこはま幻想」と改題し、「音も一部書き改めた」と言っている。

横浜生まれ(浜っ子)にとって懐かしい風景が詰まった「よこはま幻想」は、全7曲からなる混声合唱組曲である。

第1曲 よこはまの町は(男声4部と混声合唱) 
「鴎の匂いがする。運河の匂いがする。焼売の匂いがする」と始まる。
72年当時は、まだ横浜の街中に多かった運河だが、2010年にはかなり埋め立てられていた。

第2曲 宮灯(ゴンテン)の唄
中華街の春節を彩る桃色のランタンのこと。

第3曲 石だたみ
横浜にはヨーロッパのような石だたみの道が多かった。

第4曲 坂道
中心街をぐるりと囲む丘の上の尾根道と下の町を多くの坂道が結んでいる。
山手の丘の上には、フェリスや雙葉など女子学園が多い。

第5曲 ガス灯(ソロと合唱)
日本で最初というのは、横浜に数多いが、横浜のガス灯は日本で2番目、3番目が東京の銀座だった。

第6曲 街路樹
横浜の街路樹の種類の多さが歌われる。歌詞にある「アベニューA」は、本牧から、山下公園前、大さん橋前を通る海岸通りに進駐軍がつけた名前。

第7曲 山下埠頭
1961年に、マリンタワーが、1963年に山下埠頭が完成する。山下埠頭は大部分進駐軍に接収された横浜港に待望の近代的埠頭だった。いまここにカジノを作らせるかどうかでもめるとは、この曲ができた時にはわからなかった。

という構成である。

作曲者の田頭さんは、私の妻の高校時代の音楽の先生であり、私も楽友会を卒業してから、横浜の合唱団で歌っていたときに面識があって、二人の結婚にあたって祝婚歌「樹木の陰に」を作って頂いた。(全音楽譜出版の日本名歌110曲集には彼の作った歌曲が2曲入っている。)さらに男声版の「よこはま」の初演をしたテトラエコーズのメンバーの一人は、今も私が一緒に男声アンサンブルを組む仲間であり、私の結婚式で「樹木の陰に」を歌ってくれた合唱団のメンバーでもあった。

そして混声合唱版の初演をした若葉台混声合唱団は、私の住む団地で誕生した合唱団であり、今回共演の横浜混声合唱団は、私が合唱を再開したきっかけになったもう一つの祝婚歌「好きな風景」(注1)を私たち夫妻に贈ってくれた吉田孝古麿さんが1958年から今日まで指揮をしている。というわけで、個人的にも出ないわけにはいかないステージであった。

この田頭喜久彌さんが中心となって「小船幸次郎さんを記憶する会」を立ち上げ、「マエストロ小船幸次郎」という立派な本が誕生した。「生誕100年・没後25年記念、第6回日本音楽コンクール作曲部門第1位受賞、第17回国際現代音楽祭入選、日本を代表しイタリアへ招聘された指揮者、ヨーロッパで現代日本音楽を高く評価せしめた指揮者そして音楽愛好家の育成に生涯を賭けた希有の音楽家」の副題を持つA4版419ページの本である。2007年2月17に刊行されたこの本は280部発行され、同年3月8日の日本経済新聞文化面にも田頭さんの寄稿でこの本が紹介された。小船幸次郎の名前は昭和の横浜で音楽シーンを過ごした人々ならまず聞いたことがあろう。アマチュアの横浜交響楽団を育て上げ、横浜国大の教育学部で音楽の教鞭をとった。田頭さんは当時の教え子である。

実は楽友会の関係者にもこの本に文章を寄せた方が何人かいる。この本が出版された時には、本来なら寄稿者の一人であったろうF氏は病に倒れてその名を連ねていないが、K(旧姓T)さんやS氏が文を寄せている。楽友三田会の名簿を見ていたら、この三人は同学年だったことに気づいた。どうもKさんが彼らを小船さんのところに引っ張っていったようだ。寄稿文はないが、ほかにも小船幸次郎さんの家で和声などを習っていたN氏の名前が出てくる。寄稿文を寄せたKさんやS氏には当然この本が届いていると思うが、私の手元にも1冊あり、しかも私の名前も本の中に出てくる。それは、吉田孝古麿さんの寄稿文の欄外である。吉田さんも小船先生の指導を受けていて、小船さんが当時乗っていた外車の思い出に触れているのだが、その車の名前をターナスと覚えていて、私にどんな車か調べてくれと言われ、資料を提供したことが書いてある。さらに吉田孝古麿さんの文には、小船先生が仲人をして結婚し祝婚歌をもらったことから、吉田さんが指導する合唱団の団員が結婚するときに祝婚歌を贈ることにしたとあった。私夫婦が祝婚歌を二つも持っているのは、小船先生のおかげだったわけだ。ついでに言うと、この本の別のところでは、小船先生が乗っていた車はオペルとある。タウヌスかオペルかドイツ製であることは間違いないが、本に車の写真もあるが、どちらかは判然としない。いまとなっては永遠の謎である。


(注1)
私は、完全に合唱から離れていた時期が二回あった。最初の中断は栃木に転勤していた1968年から1982年の15年間。もう一回は横浜に戻って合唱を再開したが、仕事が忙しくて合唱どころでなくなった1984年からから1995年までの11年間である。二度目の中断期の1996年1月、吉田孝古麿さんから来た年賀状は、「96年12月、吉田孝古麿さんから来た年賀状は、「96年12月の横浜混声合唱団の定期演奏会に、私に贈った祝婚歌「好きな風景」をオープニングに取り上げるので夫婦で出演しないか」というお誘いだった。これは断れないと覚悟した私は、たばことカラオケ、そしてアルコールに麻痺していた声帯をだましだまし、合唱再デビューに取り組んだ。最初に声を出したときには、楽譜の初見は問題なかったが、声域はバリトンになっており、12月の演奏会は夫婦で出演したが、バリトンでのデビューだった。この演奏会はアンパンマンの作者にして詩人の今は亡きやなせたかしさんの詩に吉田さんが作曲したもので構成され、やなせさん本人も顔を出していた。演奏会の打ち上げで、私たち夫婦もやなせさんに紹介され、色紙を頂いた思い出もある

    


編集部 3月に入り、エッセー原稿の到着がピタリと止まった。塚越文人は編集部の救いの神。すぐにメールを送った。塚越兄は普通部1年B組になったとき、最後列の隣同士の席が担任に指定された。当時、級監と言われていたが、要するにクラス委員のことだった。入学した日、初めて出会い2人で屋上に上り、普通部の丘から高校の丘の方を見渡しながら「塚越君」と名前を呼んだ。今から67年前の4月の話だ。

だから、かっぱが「原稿頼む」と一言メールするだけで、塚越さまはすぐに書いてくれるのです。

(2020/3/27・かっぱ)


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