リレー随筆コーナー

    夕映えの日吉の丘

日高 好男(14期


高校楽友会に入部して楽友会生活をはじめ、既に半世紀近くの歳月が過ぎたかと思うと感慨ひとしおです。その昔、私は普通部で福井良太郎(12期)、榊原進(13期)さんたちと一緒に、コーラス部で簡単な合唱をやっていました。しかし、混声合唱を始めたのは慶應高校に入ってからです。

当時の高校楽友会には50〜60名の団員がおり、さまざまな活動していましたが、土曜日の大学楽友会とのミサ曲の練習と月曜日の独自の男声合唱練習、そして水曜日の三田の女子高楽友会を迎えての混声・合同練習が主な活動でした。

数ある年中行事の中で、一番懐かしいのは「日吉祭」でしょうか・・・。進駐軍が使っていた天井の高い校舎各学年18クラスが同じ階で学ぶ、おそろしく横長の校舎の、一番端にある音楽教室がわれわれ高校楽友会の「コンサート・ホール」でもありました。50脚もの机を黒板のある壁の方へ寄せて「にわかステージ」とし、赤や黄色のセロファンを貼った照明灯を用意しました。


64年秋の日吉祭風景―高校3年年生のステージ

学年毎のステージ、男声合唱、女声合唱、そして全体合唱と、出演者が入れ替わるたびに机で仕立てたステージはガタガタと音をたてました。が、それでも、黒幕で暗くなった音楽教室いや「コンサート・ホール」は、それなりの雰囲気をかもしだしていました。「ゆうやけこやけ」の時は赤とオレンジの照明で、ステージは燃えんばかりの「夕日色」。控えの部員は、隣の化学実験室で、薬品の臭いの中でお弁当を食べたり、楽譜の点検をしたりしていました。

日吉祭が終わったからといって高校生がビールで打上げするわけにもいかず、ただ「ご苦労さん」といってお別れでした。でも、駅へ向かう途中、誰かが「いざ立て戦人よ」とか、当日歌った愛唱歌を口ずさむと次第にその輪が広がり、別れがたくなり、途中のグランドの芝生に座ったりして歌いやまなかった光景が、今でも懐かしく想い出されます。

イチョウ並木越しに沈んでいく夕陽が、日吉の丘を真っ赤にそめる風景は、私の高校楽友会生活の「原風景」ともいえる 忘れられない情景です。

今も昔の仲間と参加している楽友三田会合唱団で、1年に1度の定期演奏会を目指してミサ曲や邦人曲などを歌っていますが、それが終わるとすぐに次の曲といった具合で、高校楽友会の頃の「自然にどこからともなく、わいてくるようなハモリ」を体験することがほとんどないのは、チョットばかり寂しい気がします。

しかし、想い出の種は尽きません。たまたま今年は秋の定演に向けて、シューベルトのミサ曲第6番「Es Dur」を練習していますが、この優美な旋律をもつ曲にも深い想い出が詰まっています。これこそ高校と大学の両楽友会が一緒に歌った、最後のミサ曲*だったからです。それは私が高校楽友会2年生の時のことでした。

それ以後、他のミサ曲やレクィエムは何曲も歌いましたが、40年以上もまったく歌ったことのない「Es Dur」が、今でも練習で楽譜を開くと、鮮明な記憶としてよみがえってくるのです。若かりし頃の記憶ということもあるのでしょうが、げに貴重なことは、青春時代の想い出です。(3月26日)
 
バトンは来年度の新年会当番幹事会議で一緒になった、ぐっと若い、奈良井治彦君(34期)にお渡しします。


*編集部注
@ 「高校と大学の両楽友会が一緒に歌った最後のミサ曲」演奏会とは「楽友会第12回定期演奏会(63年12月15日・於:神田共立講堂)」のこと。そのメイン・ステージで「Es Dur」を指揮したのは、当年春に東京交響楽団を指揮し、さっそうと楽壇にデビューした楽友会OBの若杉弘(3期)君でした。

なお、その翌年の第13回定期演奏会も高校と大学が一緒に歌っており、それが本当に最後の合同演奏となりましたが、その時の演奏曲目はフォーレの「レクィエム」であり「ミサ曲」ではありません。念のため申し添えます。
 
A その後、第14回定期演奏会は大学楽友会のみの単独演奏会となり、男・女両高校は独自に定期演奏会を開催することになりました。その経緯については、当ホームページの「高校楽友会」コーナーにある、同じ筆者の<高校楽友会「第1回」定期演奏会の頃>をお読みください。(オザサ)