リレー随筆コーナー
|
よっさんのエッセー
|
もう50年も前の事だが、河北小学校の児童だった頃、下校時に学校のスピーカーから流れるクラシック音楽はドヴォルザークの新世界交響曲
第2楽章「家路」か、チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴(ひそう)」の第1楽章の真ん中 あたりのメロデイーだった。どちらもゆったりとした曲調で黄昏(たそがれ)の下校時の少し嬉しいようで寂しいような気持にピッタリの音楽だった。
来年の2020年(令和2年)は「東京オリンピック開催」と「新・福庭公民館竣工」そして意外と知られていない「ベートーベン生誕250年」の記念すべき年である。このベートーベンの話題は実は欧米ではオリンピックよりも重きが置かれており、すでに沢山の演奏会を含む企画・イベントが目白押しであるがこの倉吉でも3年に一度「未来中心」で公演となる「県民の第九」が丁度来年にあたる。 そのベートーベン作曲の音楽の中にも、冒頭の「悲愴(ひそう)」と同じ題名のピアノソナタがある。それが3つの楽章からなる第8番のソナタである。その第1と第3楽章が焦燥的で激しい感情の動きを表現しているのに対し、世界で最も有名な第2楽章はそれらに挟まれて、何か救われたような、ひと時の癒しやぬくもりを感じさせる。さらに、一つ一つの鍵盤をゆっくりと押す指の動きが母性の様な温かみを醸(かも)しだす。 歌謡ポップスの名曲に中島みゆきの「時代」という歌がある〜「今はこんなに悲しくて涙もかれ果てて、もう二度と笑顔にはなれそうもないけど、そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくるわ。あんな時代もあったねと、きっと笑って話せるわ。だから今日はくよくよしないで、今日の風に吹かれましょう」・・・この曲が多くの人達を勇気付け希望を与えたことに間違いはない。 しかし、人が絶望の淵にある時、この歌詞はむしろ空しいと私は思う。少ない余命を宣告されて重篤な病にある人や、自らの命を絶つ所まで追い込まれている人に「それは大変ですね」とは言えない。ベートーベンが「悲愴」を作った時には、既に作曲家としては致命的と言える難聴を自覚し、すぐさま完全に聴力を失った。第2楽章の「ぬくもり」即ち「ひと時の希望」が実は「悲愴」なのかも知れない。ベートーベンはそう言いたかったのではないだろうか? 日頃の公民館活動においても、儀礼的でマニュアル的な対応ではなく悲愴第2楽章のような「ぬくもり」を身につけた行動を心がけたい。 (2019/6/1) ■ ■ ■ ■ ■ |
|
|