リレー随筆コーナー

   合唱が与えてくれたもの

村山 祐一(51期)


「さらば〜 昴よ〜♪」

谷村新司が歌い終わると、聴衆はstanding ovationで彼を祝福した。これは3月18日に名古屋で行われた“TANIMURA CLASSIC”の、アンコール後の一幕である。

私は、このシーンをオーケストラの後ろでバックコーラスの一員として見ることができた。というのは、現在所属している合唱団でお世話になっている指揮者の先生の依頼で、もう1つの団体とともにバックコーラスを務めることになったためである。

私は“TANIMURA CLASSIC”の舞台に立てたことを心より感謝している。そして、このような機会を得ることができたのは、一重に合唱を続けていたことによるものである。

私にとって、合唱は身近なものであった。父、母ともに合唱を趣味としていたこともあり、幼少のころから合唱やクラシック音楽は常にあるもであった。そんな私が、本格的に合唱をやりたいと思ったのは中学生の時である。

それまで、漠然と合唱団を外から眺めているだけだった私だが、ふと、30代のおばちゃんから70歳近くのおじいちゃんまで楽しそうに合唱をしている姿を見て、これだけ年齢の離れている人が一緒に楽しめる趣味、また、自分自身が一生付き合っていける趣味は合唱をおいて他にはないのではないかと感じたのだ。

それは、神から天啓を受けたかのようであった。当時、私はサッカーを愛するサッカー少年であったが現在もサッカーは愛しているし、フットサルという形でサッカーを続けてはいるが、いつか合唱をやろうと心に決めたのだ。

そんな私が本格的に合唱を始めたのは意外と?遅く大学に入ってからである。高校時代は不幸にも私の通っていた学校に合唱部なかったためだ。そのため、墨田の5000人で歌う第九コンサートに一般参加するぐらいしかできなかったそこの下振りの指揮を栗山先生がやっていたのは今となっては驚きである

大学入学、念願の合唱人生スタート。混声合唱団をやりたいということで楽友会を選んだ。大学4年間は非常に濃い4年間であった。先輩、後輩の反対を押し切ってパートリーダーをやらせていただいたことは、今でも人生の糧となっているし、後悔をしない選択ができたと思っている。さらに、社会人4年目になる今でも勤務地の距離を越えて一緒につるめる親友ができた。大学人生を豊かにしてくれたのは合唱団のせいである。

社会人になり、勤務地は三重。もちろん知人はいない。全くの未知の土地である。そして、車がないと生活できないという予想外の交通事情も重なり合唱はあきらめていた。しかし、合唱をしていない自分がどうも自分でない感覚に襲われる。G・Wにあった後輩の演奏会を聞いたことで感情が爆発。ネットで合唱団探し。そして、今所属している合唱団と出会った。現在の団では、未知の土地であった名古屋近郊の友人がたくさんできた。

三重での生活に華を添えてくれる友人たちである。さらに、入団半年後からパートリーダーを努め、昨年はパートリーダー兼務で演奏会実行委員長もやらせていただいた。新人になんで仕事をさせるのだという思いもあったが、今では貴重な体験ができたと、私を信じて役目を与えてくれた団員に感謝している。

また、幸運にも自分自身の参加した愛知県大会で、金賞を2年連続でとることができたのも嬉しい限りであった昨年は諸事情により不参加

そして、冒頭に書いた“TANIMURA CLASSIC”への参加。あれほどの大御所のバックコーラスをやるなんていうことは、滅多にない機会であろう。合唱を続けていて良かったな、と素直に思える瞬間であった。

「合唱が与えてくれたもの」

それは、私の親友。

それは、私の心の支え。

それは、私の人生の糧。

この「合唱が与えてくれたもの」に感謝しながら、これからの人生を謳歌したいと思う。(2009年3月27日)


“TANIMURA CLASSIC”の男声楽屋で(後列右端が筆者)

バトンは、同期の江原 毅君にお渡ししました。