リレー随筆コーナー

岡田忠彦先生の思い出



高階 厚史(高12期)



私は塾高楽友会第12回生。昭和48年春、15歳の私は生まれて初
めて合唱団に入った。当時、私はピアノを弾くのが趣味で、オーケストラではピアノの出番がないので、合唱団なら…という些か不純な動機で入部した。

岡田忠彦先生(以下「先生」)の指揮に初めて接したのは夏合宿、清里の『清泉寮』でのAVE VERUM CORPUSだったと思う。

普段の練習では腕を組んだまま練習を見守っていただけだった先生が、おもむろに立ち上がり指揮棒を構えると、その鋭い目に合唱団全員に緊張が走った。構えた指揮棒は一番先の部分まで微動だにしない。

そして前奏のピアノに続いて合唱が始まると、先生の指揮棒は静かに予め決められた軌道を正確になぞるように動き、曲の高まりと共に両腕を大きく広げ、一段と大きなジェスチャーで合唱をリードする。同じ合唱団とは思えないような、色彩にあふれた音色の音楽が流れだす。正に魔法のような指揮。

指揮棒一本でどうしてここまで音楽をコントロールできてしまうのか。そして曲の最後には、指揮棒を持つ手首を360度、ゆっくりとくるりと回し、一瞬パッと両手を握る。合唱はピタッと揃って切れた。

他の人がどう感じたかわからないが、これには強烈なインパクトがあった。これが本物の指揮者なのかと唖然とした。全ては指揮棒一本で指示が出ていたのだ。

そんな凄い先生であったが、当時ポピュラー性の高いバート・バカラックや『ラマンチャの男』を歌いたかった生徒に、楽友会本来のバッハ・ハイドン・モーツァルトなどを指向する先生は厳しくダメを出し、数年来、生徒と先生の関係はうまくいっていなかった。

先輩と話をしても、岡忠は頭が固くて話にならない、と悪口しか出てこなかったのである。


年に一回の定期演奏会は3月にあり、先生は毎年バッハのカンタータ147番より『主よ人の望みの喜びを』をアンコールで指揮された。その練習以外で先生の指揮で歌う機会は合宿での数回を除き残念ながらなかった。

昭和50年4月、高校3年になり私は高校楽友会の責任者(総務)となり、初めて先生の元住吉のご自宅を挨拶方々訪問した。歴代総務から引継がれていたノートには「お酒の好きな先生のご自宅訪問時には黒の剣菱を持参すること」と書かれており、引継ぎ通り黒の剣菱の一升瓶を担いで緊張して訪ねたことを今でも覚えている。

始めのうちは緊張していたが、先生が楽友会の創立当初の話、小林亜星さんと林光さんが同級生だったこと、若杉弘さんも楽友会だったこと等、懐かしそうに話されているうちに打ち解けていった。先輩から言われていた先生の「怖い」イメージは薄れていった。

その後、先生の発案で学生指揮者に指揮法を教えて頂けることになり、毎週日曜日にチーフ・サブ6人の指揮者と私と女子高の責任者で何度もお宅を訪ねるようになった。課題曲はベートーベンの『ワルトシュタイン』第一楽章。練習台になるピアニストは「高階くんが弾くように」と言われ、自宅で練習し準備した。
指揮法の練習方法は単純で、学生指揮者の指揮の通りに私にピアノを弾け、というものだった。そう言われても、リズム通り指揮してくれれば、こちらは同じように弾くだけのことで、細かい指揮の癖を読み取って大げさに誇張して弾くような技量は持ち合わせていなかった。寧ろこれで練習になっているのか?とも個人的には思ったりした。しかしこの練習で先生は指揮の基本となる「叩き」「しゃくり」など斉藤秀雄が確立した指揮法を一人一人丁寧に教えて行ったのだった。

何度か練習が進むと、先生は「来週からはベートーベンの3番ソナタ第一楽章をやろう」と言われた。この曲は私自身弾いたことがなかった。練習期間は次の日曜日まで一週間しかない。しかも三度の和音のトリルなんぞがついている。練習ピアニストとして指揮者の足を引っ張ってはならない、と結構焦って自宅でさらったことを覚えている。指揮法の練習というよりは、私にとってはピアノの稽古に通っているような錯覚に陥っていた。

(青春讃歌初演)
11月になり、大学楽友会の定期演奏会が近づいた頃、「小林亜星が楽友会のために合唱曲を作った。君がピアノを弾きなさい」と突然言われた。その曲こそ、今も歌い継がれている『青春讃歌』だった。

先生から渡された楽譜は小林亜星さん自筆の楽譜のコピーだった。当時、大学の楽友会は先生の指揮でオケ付きの合唱曲を本割で必ず演奏していたので、青春讃歌もオケ付きだった。しかし大学楽友会の諸先輩、及び伴奏のオーケストラとの練習はステリハの1回だけだったと記憶している。

『青春讃歌』の初演は、昭和50年12月11日、場所は芝の郵便貯金ホール。大学楽友会の定期演奏会の最後、アンコールで演奏された。

アンコールの直前、私は塾高の学ラン姿で舞台に出てスタインウェイの前に座った。場所はオケの横、一番下手寄りだった。この曲にはピアノ伴奏も全曲を通して付いており、一生懸命弾いたが、音はオケに消されて出だしのピアノソロ2小節だけしか聞こえていなかったのではあるまいか。演奏中は「このピアノ、タッチが重いなあ」などとあらぬことを考えて弾いていた。

今思い返せば、今だに愛唱されているこの曲の初演に高校楽友会として私が参加させてもらえたのも大学と高校のオール楽友会、ということを先生が意識した意味合いがあったのかもしれない。


昭和51年3月、高校最後の定期演奏会。プログラムは『風紋』『モーツァルト ミサブレヴィスK220「雀のミサ」』『心の四季』他。アンコールは先生の指揮によるバッハ『主よ人の望みの喜びよ』。先生の指揮は相変わらず冴えわたり、その感動に涙した。

4月、大学入学。クラブはどこに入るか。これまでの先生のご恩を考えれば、当然楽友会に入部すべきだった。しかし、ここで私にはもう一つの選択肢が存在した。ワグネルソサィエティ男声合唱団だ。私は高校2年の時ワグネルの定演を聴きに行っていた。後から考えれば、それは今も歴代ワグネルの中で名演中の名演との呼び声高い、伝説の第99回定演であった。その時受けた強烈な印象が脳裏に焼き付いていた。どちらを取るか。悩みに悩み抜いた。

出した結論はワグネル入部。私は先生のご恩を仇で返す形になった。会わせる顔がない。同じようにワグネルを選択した同期が4人いた。男声8人の半分がワグネルに入部した。

そんな中、先生から電話が掛かってきた。

ヤバい、どう言い逃れしよう…。

しかし用件は全く予想もしないものだった。

アルバイトの紹介。塾監局に早くにお父さんを亡くした小学三年生の男の子を持つ方が勤めていて、家庭に男の人がいない(未亡人とおばあちゃん)中、お兄ちゃんがわりに男の子の面倒を見てくれないか、というもの。

二つ返事で引き受けた。私が大学楽友会に入部しなくても、それでも私にバイト先を紹介してくれたのだ。何という優しさ。心の広さ。その時受けたご恩を私は生涯忘れない。厳しいがんこ親父という印象はみじんもなかった。

バイトは1時間、算数を教えたり、ピアノを教えたり、一緒に遊んだりして、おやつを御馳走になり帰るというもの。先生とも時々電話でバイトの様子を報告した。バイトは大学2年秋、ワグネルの練習がきつくなり、お宅に伺えなくなるまで続けた。

ワグネルに没頭するうちに先生との繋がりも次第に薄れ、ついには連絡もとらなくなってしまった。

今思えば何という不義理をしたのだろう。ずっと連絡を取り続けていればと今つくづくそう思う。

お亡くなりになった今、改めて先生のご恩の深さが身にしみる。

その後、私が初演に関わった「青春讃歌」は高校楽友会の定期演奏会のアンコールでピアノ伴奏により途切れることなく演奏されてきた。

今年9月29日。藤原洋記念ホールでの高校楽友会創立70周年コンサートに参加し、初演以来43年ぶりに青春讃歌をオーケストラとピアノのフル伴奏付きで歌うことができた。それは自分でも驚くほどの感動体験であった。

60歳を過ぎた今、青春を思い出すとき、この歌はなんと心の琴線に触れる歌詞・フレーズなのだろう。先生の指揮する凛々しい姿、指揮法のレッスン、青春讃歌の初演、先生との思い出のすべてが昨日のことのように思い出される。

これからも後輩たちには「青春讃歌」をいつまでも歌い継いでいって貰いたい。

(2018/11/14)

リレーエッセイの次の当番は、高校楽友会12期(私と同期)の久布白兼行くんです。

    


編集部メモ 今年は高校楽友会の若いOB/OGたちが、楽友会創立70周年記念コンサートを開いてくれた。それに参加した高階君とは、このコンサートがきっかけとなり、Facebookでもお友達になった。つい1日2日前、高校楽友会のFacebookに「岡田先生の思い出」を見つけて読ませてもらった。これはコンサートの前に、お友達の皆さんに恩師岡田先生を紹介しようと何回かの連載記事にして投稿したものでした。

歴代の岡田先生の教え子たちが、「岡忠は頑固だ」という認識を持った時がいろいろな場面であったように思います。ところが、それらは全てと言っていいくらい、生徒たちの誤解か理解の不足によるものと断言します。高階君の文中にも、バカラックや「ラマンチャの男」を取り上げてもらえなかった話がありますが、当たり前です。そういう薄物は遊びでやればいいのです。

私達、一桁の期の時代にも遊びでは薄物で楽しんだものです。ところが、高校の現役生たちの最近の演奏会では、そういった薄物が出てきているのが現在の状態です。アカペラと称する出し物です。

楽友会という、「ウィーンの楽友協会」からその名を取った由緒正しいクラブは、音楽の源であるヨーロッパ音楽、いわゆるクラシック音楽、更には宗教音楽まで遡って追求しようとする姿勢が楽友会の基本にあります。岡忠さんはそのことを生徒たちに分かって欲しいと思って言っていることです。

コンサートでは、背筋が震える思いをしてレクイエムを演奏した私は合宿の余興やクリスマス・パーティでは、自分がアレンジしたジャズコーラスをギターを弾きながらカルテットで歌ったものです。岡忠さんは喜んで聴いてくれました。そんなもの止めろと言ったことがありません。

遊びに歌う歌も音楽の1ジャンルです。それが好きで本格的にやりたいのなら、そういうクラブに入ることをお勧めします。わたしも大好きですが、楽友会の古典に基礎をおいていました。薄物にも奥深い「音学」があります。アメリカ黒人のジャズにも凄いコード理論があります。ロック・ミュージックにも名曲があります。しかし、楽友会ではそういうジャンルの曲は取り上げません。やりたければ余暇にやるのです。遊びとはそういう意味です。現在では、わたしは遊びだけになって久しいです。

(2018/11/14・かっぱ)


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