リレー随筆コーナー

音楽愛好会・楽友会そして軽井沢バロック山荘のこと


山内 彦太(9期)


私は1957年に憧れの慶應義塾高等学校へ入学し、クラブ活動には何のためらいもなく合唱部を選びました。既にワグネル・ソサエティー男声合唱団があることを知っていたので、すぐに高校のワグネルを訪ねました。しかし、高校にはオーケストラしかないと分かったので、男声合唱をやりたかった私は音楽愛好会へ入部しました。

同期の仲間には、残念ながら若くして他界された大野洋君の他、中村脩・金井宏・中濱鐵志らの諸君がいましたが、大半は普通部・中等部出身で、私のような外部入学者は少なかったような気がします。

その頃のことを、つい先日もテッチン中濱君たちと話したのですが、われわれが高校時代入部したのは音楽愛好会だったのに、いつ、どのようにして楽友会になったのかがはっきりしません。多分、大学生になると同時に楽友会所属になったのではないかと思いますが、はっきりしない方が、謎めいていて良いのではないかと思います。

大学に進学した時、やはり男声合唱に未練があったため、ワグネル男声合唱団に転部するか否かだいぶ迷ったのですが、結局、楽友会にとどまりました。それは、高校1年生から大学4年生迄7歳の年齢差がありながら、一つの合唱団として活動する楽友会の絆の魅力の方が勝ったからです。そのお陰でよき先輩・同輩・後輩に恵まれ、現在でも楽友三田会合唱団の末席をけがしております。

われわれ9期は、大学から新たに入部してきたメンバーが大変多く、現在も名簿上27名の男声を数える大所帯です。大学卒業に際し、以前から特に仲の良かった大野洋・中村脩・金井宏・長部正・藤吉憲太郎君たちと「卒業すると皆バラバラになってしまうので、先ずバロック・コーラスを結成し、毎年小規模ながら演奏会をやろう。そして30歳を期して、何か大きなことをやろうではないか」との約束を交わしました。

それには軍資金がいるであろうということで、初任給2万円そこそこの給料から各自毎月2千円ずつを、長部君の勤務する銀行の口座に振込み、いくらかたまると国債等を購入して増やすことにしました。

私は28歳の時アメリカへ赴任し、その後のことはすべて皆さんにお任せしていたのですが、30歳になった直後、突然大野君から手紙が届き、次のようなことが書いてあったのでビックリしました。

「いよいよ約束の30歳になった。何をしようかと皆で相談した結果、君の親が所有する軽井沢の未使用の土地に、バロック山荘を建てることにした。ご両親も『構わない』とのことだった。

建築資金は6名の発起人の他に、7期の遠藤琢雄・安永いく子両先輩、君のご両親、それにオレの母達にも資金援助を頼み、足りない分は銀行からの借入金で賄うめどを付けた。なお、この家の所有権については誰も主張しないので、土地所有者である君の母上にすることで同意された。設計図を同封するから、楽しみにしていてくれ・・・云々」。

翌年の72年には地鎮祭の光景や、完成した山荘の写真などがニューヨークに送られてきました。73年に赴任が解け、帰国すると写真のような山荘が建っていたというわけです。その山荘は、古くなったので5年前(2004年)に、出資者全員の同意を得て取り壊し、その後に私の現住居を建てました。その代り、私が帰国直後に旧バロック山荘の隣に建てた家を、新バロック山荘として皆さんに利用してもらっています。


1972年に建ったバロック山荘

2005年8月20日には建て直したわが家で、大野洋君の13回忌の集まりを開催し、故人の奥様・お嬢様をお招きし、遠藤先輩はじめ長部・金井・藤吉の諸君と共に、ありし日の大野君を偲びました。

私が現在軽井沢に住んでいるのも、音楽愛好会から楽友会に所属し、すてきな人たちとの出会いがあったからこそ、と思っています。


編集部 長部 正(9期)からの今年の賀状の絵が「バロック山荘」だった。今も懐かしんでいるんだなぁと思ってここに挿入します。(かっぱ・13/2/16)